時々、僕は透明になる

小原ききょう

第1話 予兆

◆予兆


 僕は昔から、影が薄い・・

うすい、うすい、と言われ続けてきたけれど、まさか、ここまで薄くなってしまうとは・・

 いや、薄いどころか、透明に・・

 子供の頃、SF小説で読んだことのある透明人間・・それが今の僕だ。

 僕の体が完全に透明になったと認識した場所は僕の勉強部屋、僕を透明人間だと気づいたのはある女の子だった。


 僕は高校二年、言うほどの進学校ではないが、それなりに、受験勉強をしていた。

 そして、それなりの恋も・・

 分厚い参考書を開き、問題集を睨み、片方では片思いの女の子ことを考えていた。

 時間が経過するに従って、問題集を解く時間よりも、彼女のことを考える時間の方が増えていく。

 時々、たまらなくなってクラスの集合写真を取り出し、彼女を見る。

 見たからと言ってどうなるものでもない。

 ノートの隅に彼女の名前を連ねてみる。書いたからと言ってどうなるものでもない。


 そんな邪念を追い払いながら、勉強を続ける。

 どちらかというと眠気と戦う苦痛の時間だ。 

 それにしても、眠い。彼女のことを考えていても眠いものは眠い。


 おそらく、夜の10時頃だったと思う。

 突然、体がふわりとした感覚がした。

 あれ?・・さっきした椅子の高さ調整が悪かったのか?


 最初は勉強机のスタンドの灯りのせいだと思った。

シャーペンを握る手が薄い・・いや、透明に見えた。机の木目が透けて見えている。

 右手をくいと参考書の見開きの前に置いてみた。同じく活字が透けてよく見える。

 眼鏡を外し、右手を左手で掴んでみる。

 確かにある。右手の感触があるし、肩から右に伸びているのが感じられる。

 だが、見えないのだ。右手が見えない。

 ドクンドクン・・

 心臓の鼓動が一気に高鳴る。

 これは何かの病気なのか? 病院に行った方がいいのか。いやその前に、母に見てもらわないと・・

 階下にいる母に!

 そう思って立ち上がった時だった。

 いつも髪を整える時に見ている大きな壁の鏡に、僕の顔が映っていない。

 顔どころか、肩も、胸も・・

 血の気が退いていく。ざざっと音を立て体中の血液が下に向かって降りていく。 これが人生初の貧血だ。

 僕は確かに鏡を見ているはずだ。

だがそこに映っているのは、僕の後ろ、つまり、本棚に並ぶ文庫本だけだった。

 これはまさしく5月病か何かか?

 

 トントン、

「道雄、入るわよ」

 ノックをして母がいつもの時間、いつもの紅茶を持ってきた。いや、いつもより少し遅いかも・・僕は慌てて椅子に腰かける。

 どうしよう。どうしよう・・言うべきか・・

 迷っている間に母から出た言葉は、

「頑張ってるわねえ」だった。

 トレイをテーブルに置きながら、いつもの励ましの言葉。

 あれ、母には見えているようだ。どういうことだ?


「何、その顔、まるでお化けでも見るように」

「な、何でもない」僕は慌てて首を振った。

 そして、今度は立ち上がり、壁に掛けてある鏡を改めて見る。

 ちゃんと僕の顔が映っている・・

 なあーんだ。気のせいだったのか。

 下半身に降下した血液が再び、頭部に戻ってくるようだった。


「何なの、道雄、立ったり、座ったり」

 母の言葉に思わず笑いが込み上げてくる。

 さっきの透明化現象の原因が分かった。

 受験勉強のし過ぎ・・つまり、疲れだ。

 僕は右手を左手で握りながら小躍りしそうになる。さっきまでの不安は何だったのか?

 

「お母さんには僕がちゃんと見えているよね?」

 少し気恥ずかしい言葉を言ってみた。

こういう言葉は勢いで言うものだ。

「何なのよ・・気持ち悪い・・道雄は時々変なことを言うんだから」

 もう二度とこんなセリフは言わないでおくことにする。

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