第6話 魔導士「ローブの男」
ジークハルトに鷲掴みで鍛錬場から連れ去られ、やっと解放されたシズルは、今度はシルベスタに大人しくしていろと説教され、今はひとりで図書館にいた。
文字の勉強をするためだった。
これも異世界仕様なのか、随分中途半端な気遣いだとシズルは残念に思っていた。
言葉は難なく通じるのに、文字がさっぱり理解できなかったのだった。数字もシズルが見知った形ではなく、最初は訳が分からなかった。数の単位に関しては十進法が使われていて、直ぐに数字との紐つけができたので問題なかったが、文字についてはそういう訳にはいかなかった。
読み書きが出来なければ、いくら言葉が通じても普通の生活は困難だ。ジークハルトの提案に乗っておいて良かったと、シズルは今更ながら思った。
シズルは図書館で、できるだけ文字数の少ない幼児用の教本のような物を探し出した。なんとか見つけ出したそれは、挿絵がふんだんに使われていて、文字の勉強をするのに丁度良かった。
ジークハルトから貰った手帳に、こちらの文字と日本語を並べて書き、即席の翻訳辞書を作っていく。手帳と一緒に貰った鉛筆で一心不乱に文字を綴っていく。
この世界の筆記用具は通常インクと羽ペンだが、どこでもすぐに書けるようにシルベスタから鉛筆を貰った。鉛筆といっても、黒鉛を棒状に伸ばしたものを糸で巻いただけの物で、使いにくい上に手が黒くなるのが難点だった。
シズルが黙々と手帳に文字を書き写していると、不意に目の前に影が落ちた。
顔を上げると、ローブを着た男がシズルの手元を、興味深そうに覗き込んでいる。ローブ姿には嫌な思い出しかないので、シズルは無視を決め込んで作業に戻った。
しかしいつまで経っても男が立ち去る気配がない。
一難去ってまた一難。
またもや厄介ごとの気配がするが、仕方がないのでシズルは渋々顔を上げた。
「・・・何か御用でしょうか」
年齢不詳のその男の白いローブは、よく見ると銀糸で細やかな刺繍が施されていて高価そうだった。顔はのっぺりしていてあまり特徴がない。細身の身体を足元までのローブで包んでいるので、白い棒が立っているようだった。
ローブ男は、貼り付けたような笑顔でシズルに話しかけてきた。
「きみ、聖女様と一緒に来た異世界人だよね」
どうやらこの魔法使いっぽいローブ男は、シズルの事情に詳しいようだった。上等そうなローブといい、ジークハルトの話していた『事情を知ることのできる、ある程度の地位にいる人間』なのだろう。
「そうですが」
「あっちの世界って、みんな魔力がないってホント?」
「そうですね」
「どんな感じなの? ちょっと調べさせて貰ってもいいかなぁ」
「お断りします」
いいわけあるか、とシズルは心の中で抗議した。
「ここで何してるの? 遊んでるの? 何の役にも立たないから、辺境に捨てられたんでしょ? それを
「生憎ですが、今はジークハルト様に仕事を頂いています。もし何か御用があるなら、雇い主であるジークハルト様か、その側近のシルを通して下さい」
捲し立てるローブ男の相手が心底面倒くさくなったので、シズルはまたもやジークハルトに丸投げを試みた。これで引き下がってくれれば良かったが、どうやらこの男にも通じなかったようだ。
ローブ男がにやにやしながら顔を寄せて囁いた。
「ふぅーん、異世界人ってのは随分強かなんだねぇ。そんなナリして、カラダを使ってジークハルト様の庇護でも受けたのかい?」
そのにやけた顔に、問答無用で正拳突きをかました自分は悪くない、とシズルは思った。
近くの椅子を巻き込みながら、大きな音を立ててローブ男が吹っ飛んだ。
静かな図書館に突然響き渡った破壊音に、仕事中の文官たちが何事かと一斉に立ち上がった。遠巻きにする者、図書館を足早に出ていく者、様々な反応をみせた。
シズルは筆記用具を片付けながら立ち上がった。
ローブ男は見た目に反して意外と頑丈だったのか、鼻血がだらだら流れる顔を押さえて、のろのろと立ち上がり怨嗟を吐き出した。
「魔力も無い、只人がよくも」
そう言うと、血まみれの顔から手を離して何やら唱え出した。
長々と歌うように呪文を唱えながら、右手で空中にくるりと円を描くと、そこに魔法陣らしきものが浮かび上がった。
なるほど、魔術を使おうというわけらしい、とシズルは冷静にその行程を観察していた。ただ長い
突っ立ったままのシズルが恐怖で動けないと思っているのか、ローブ男は口の端を吊り上げた。
「外れの野蛮な異世界人が!」
ローブ男が叫ぶと同時に、陣が輝き炎が出現した。周りで成り行きを見ていた文官たちがどよめいた。
炎はバレーボール程の大きさの塊になると、シズル目掛けて一直線に飛んできた。
シズルは慌てた。
直前まで観察していたのが仇になった。いくら何でも、飛んでくる火の玉をまともに喰らっては堪らない。
咄嗟に火の玉を避けようと、ボールを叩くように思わず手ではたき落としてしまった。すると、勢いよく叩きつけた火の玉が、床の上で拡散して消えてしまった。
ローブ男が驚きの声を上げた。
「なっ⁈」
シズルは内心ほっと胸を撫で下ろした。床が少し焦げたようだったが、手は何ともなかった。どうやら魔術は失敗したらしい。
びっくりさせられて、むっとしたシズルは憎まれ口を叩いた。
「図書館で火を使うとか馬鹿なんですか? 術が失敗して良かったですね」
ローブ男が顔を羞恥に染め、もう一度魔術を使おうとさっきと同じ動作に入った。
シズルは少し拍子抜けしていた。
呪文を唱えて陣を
シズルは一度確認出来たものを、もう一度観る気はさらさらなかった。
また火炙りになるのも嫌なので、詠唱の途中でいつものように一気に近づいた。驚いて慌てているローブ男にラリアットを喰らわせ、背中から盛大に倒れたところで、その首を踏みつけた。喉が潰れ、耳障りな軽口も詠唱もその口から漏れることはない。
シズルは、踏みつけた足に少しづつ体重を掛けていき、もがく男に向かって冷淡に言い放った。
「動くと首の骨が折れます」
またもや、静まり返った図書館にシズルの声だけが響いた。
そこでやっと、文官の誰かが呼びに行ったのだろう、複数の兵士が駆けつけて来た。
その集団の中にシルベスタの姿もあった。
シズルはその姿を確認してから、ゆっくりとローブ男の首から足を
足元には鼻血と涙で、顔をぐちゃぐちゃにした男が転がっている。
近寄ってきた兵士たちは、唖然としてその現場を見ていた。
「お前は少しも大人しく出来ないのかよ」
「カッとしてやりました後悔はしていません」
シズルがしれっとそう言うと、シルベスタは頭を抱えた。
今度は図書館で騒ぎがあったようだ。
ジークハルトは執務室で、シルベスタからその報告を受けていた。
魔力はさほどでもないが、領地で抱える貴族出身の魔導士とシズルが一戦交えたらしい。
図書館でその騒ぎに遭遇した文官が、慌てて警備担当の兵士を呼びに行った。先の兵士との一件を知っていたその兵士が、シルベスタを探し出し、共に図書館へ駆けつけた。
騒ぎを起こしたシズルと魔導士は、それぞれ警備兵に連行され、別々に事情聴取を受けた。
結局、武器も持たない女性に向かって、貴重な蔵書もある図書館内で炎の魔術を使った魔導士に非がある、ということになった。
しかし血だらけになっていたのは魔導士の方で、そいつは身分を盾にシズルの厳罰を求めて
今頃は警備責任者に、こってりと絞られている事だろう。
「あいつが居ると飽きないな」
ジークハルトは率直な感想を述べた。
邸に連れて来て自由を与えた途端、この有様だった。側で控えるシルベスタは苦い顔をしている。
「慌てふためいた兵士がオレを呼びに来た時は、何事かと思いましたよ。現場は想像の遥か斜め上だったですけど」
「今度は魔導士をぶん殴ったんだってな」
「オレが飛んで行った時には、顔面血だらけの魔導士を踏みつけてました」
その場面を思い出したのか、シルベスタは長い溜息を吐き出す。
くつくつ笑うジークハルトを、笑い事じゃないとシルベスタが睨みつける。
「当のシズル本人はけろっとしてるし」
「俺も見たかったな」
ジークハルトは本気で、その場に居合わせなかった事を悔やんだ。
「相手の魔導士は魔術を使ったらしいじゃないか。シズルはどうやって
「シズルの相手は、火炎の魔術を使うやつだったんですが、どうやら最初の火炎弾は失敗だったみたいで。相手が二発目を撃つ前に、シズルが例の早業で近寄って制圧したとか」
「・・・ふぅん」
ジークハルトは僅かに違和感を覚えた。
魔力不足なら相手に届く以前に四散するし、そもそも術式に失敗したら発動しない。ふたりの距離は近かったと聞いている。軌道が逸れるほど離れてはいなかった筈だ。
続けて話をするシルベスタが、若干愉快そうにジークハルトの反応を窺っている。
「シズルは魔導士の野郎に、色仕掛けでジークの庇護を受けたと言われてキレたらしいですよ」
「はぁ? なんだそれは。俺は清楚で、ちゃんと出るとこが出てる女が好きなんだぞ。俺の女の趣味が悪いみたいじゃないか。とんだ風評被害だ」
ジークハルトが大いに抗議すると、シルベスタが呆れ顔で言った。
「気にするのはそこかよ」
「当たり前だ。これ以上モテなくなったらどうするんだ。それでなくても、碌でもない女しか寄ってこないのに」
ジークハルトは本気で憤慨した後、気を取りなおして言った。
「何にせよ今回の一件で、シズルが実力で護衛官になったと、一気に周囲に知らしめることができて良かったじゃないか」
シズルが認知されるのは問題ないが、無手で兵士の肩を外したり魔導士を血祭りにあげるような娘が、己の守備範囲などという噂が広まるのだけは是非食い止めたい、とジークハルトは真剣に思った。
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