尚志は兄弟子たちからの薫陶を大いに受ける
才川の不動金縛り
才川が堀内を笑顔で手招く。
堀内は少林寺拳法の有段者。
才川に向かって突きや蹴りを思いっきり繰り出す堀内。
しかし健闘むなしく、いつの間にか腕は絡め取られ畳に倒されている。
気を取り直して起き上がり再び向かっていくと今度は目の先三寸ほどの空間が才川の手刀によって切られる。
”ギャッ!”と叫んだ堀内は雷に打たれたようにその場で立ったまま動けなくなる。
皆はこれを『才川の不動金縛り』と呼んでいた。
続いて才川は尚志を見て笑顔で手招く。
武道経験の無い尚志は、その恵まれた体格を生かそうと体勢を低くしタックルを仕掛ける。
が、才川の両手が尚志の両肩関節を極める。
そのまま畳に押し付けられる尚志。
技を解かれると、今度は才川の顔面を目掛け体重を乗っけた張り手をぶちかまそうとするが、尚志の掌はあっさりと才川の掌にピッタリとくっついてしまい離すことができない。
おもちゃのように翻弄され、畳に転がされてもその掌は離れず。
終いには才川の人差し指一本だけが尚志の人差し指にフックされ、尚志の巨体は畳を引きずり回されていた。
才川が堀内や尚志を子供扱いできるのは、真の
また彼は自主稽古で合気を伝授する際、黒田のように手取り足取り教えない。
「何をしても構わない。何でもアリだ。俺に遠慮や手加減は無用。全力で来なさい」
大言壮語するだけあって、才川は誰も寄せ付けなかった。
「全力でかかって来ないと合気がかからない。その身で何度も合気を受けないと合気は身につかないし理解はできない。それもまがい物でない本物の合気でなければダメだ」
才川に対し自由にかかっていき、才川はそれを合気で返す。
この独特の教え方は誰が言い始めたのか『フリー』と呼ばれるようになった。
フリーが終わると才川に向かって正座し、
「ありがとうございました」
と礼をする。
更衣室に向かう途中、他のグループの弟子たちが聞こえよがしに、
「あんな手品みたいな技なんて何の価値もないし興味もない」
と、ニヤニヤしながら言っていた。
<コイツらは実力を示すことができないから口で嫌味を言うしか能がないのか>
内心で思うと、尚志は哀れみの目を向けてその場を去った。
「いやあ、ナミちゃん。才川さんの技は本当に凄いだろ。俺は一生あの人についていく。もう決めたんだ」
才川に心酔している堀内は
中でも才川の事については耳にタコが出来るほど聞かされた。
・某国立大学に合気道部を創設した。
・古流の剣術と体術、そして沖縄唐手の遣い手。
・才川はいわゆる本物の右翼で、若い衆を何人も従えている。
・歴代総理や一流財界人が師と仰ぐ思想家から特別に目をかけてもらっていた。
――などなど。
堀内がこれらの話をする時、誰よりも得意気にしているのが尚志にはおかしかった。
普通のサラリーマンである堀内は仕事の関係上、稽古を休むことも度々ある。
そんなある日、二人でどこか飲みに行こう、と才川から誘われた。
珍しいこともあるな、と尚志は内心驚きながらも”ハイッ”と大きく返事をした。
いつもなら『居酒屋・
ビールと料理を注文すると才川はタバコを口にくわえた。
尚志が火を付けようとすると、才川に止められた。
「ストップ。いい機会だ。南郷くんも社会に出た時に必要になるだろうから教えよう。いいか、マッチを擦る際は必ず自分の方に向けて擦る。タバコに火を付ける際には必ず片手を添えながら。やってごらん」
その通りにすると才川は満足そうにうなずいた。
それからすぐに注文していたビール瓶とグラスが運ばれてきた。
尚志が才川のグラスにビールを注ごうとするとまたもや止められた。
「ストップ。いい機会だからちゃんと教えよう。いいか、ビールを注ぐ時は必ずラベルを上にして両手で持つ。そして液体部分と泡の部分のバランスが7:3くらいになるように注ぐスピードを調節する。やってごらん」
その通りにすると才川は満足そうにうなずいた。
やがてテーブルに春巻きやシューマイ、肉団子や餃子や唐揚げが運ばれてきた。
尚志は才川に割り箸を渡し、才川が料理に手をつけた後に箸を伸ばした。
今度は何も言われなかった。
折角のチャンスなので尚志は才川にあれこれと質問をしてみた。
「
「南郷くんは誤解をしている。それこそ合気というものを習得する一番の近道だ。人間の神経は手の先に一番集中している。合気上げ、合気下げ。ちょっとした指の向きで技の効きが違うのは身を持ってわかっているはずだ。相手から手首を掴まれた時の対処法ではなく、合気を手っ取り早く身につけるために手首を掴ませるのだ」
才川の答えに尚志は納得した。
こんなにも丁寧に答えてくれるとは思わなかったので、調子に乗ってさらに質問を続けてみた。
「僕が才川さんによって金縛りにかけられるのも合気のせいですか?」
「似ているが違う。道を歩いていて急に車が自分に猛スピードで向かって来た時。あるいは相撲の猫騙しという技。人間は予期しない出来事に遭遇すると固まってしまう性質がある。それを利用する。南郷くんだって練習すれば案外早くできるぞ。フフフ……」
「具体的にどのような練習をすればいいのかを是非とも教えて下さい」
「そうだな、まずは練習のパートナーを椅子に座らせよう。練習相手が椅子から立とうとするのを南郷くんは妨害する。と言っても腕力は使わない。これはあくまでもタイミングを掴むための練習だからな」
尚志はキラキラした目で才川の次の言葉を待った。
才川のグラスが空になっていたのに気付き、ビールを注いだ。
そして才川がタバコを口にくわえたので火をつけた。
「椅子から立ち上がる時は『
「おお! 至れり尽くせりの教えをありがとうございます」
金縛りの術の秘訣が惜しげもなく授けられ、尚志の心は躍った。
「では実戦において金縛りをどうかけるか。それはすでにフリーで示している。俺が南郷くんに向けて腕を真っ直ぐ伸ばし掌を上に向けブルース・リーよろしく指をクイクイと曲げているのは二つの目的がある。一つは挑発して相手の心を乱すため。もう一つは相手の意識を指に集中させるため。意識と視線を指に充分引き付けたら相手の目線を切る。二つの目玉の数センチ先の空間を素早く横に指で切る。初めは一瞬しか金縛りはかからない。だが実戦で一瞬でも動けなくなるのは命取り。生死の境はそんなちょっとした所にあるから面白い」
「なんと! どんな本にもこんな貴重なことは書いていません」
実際に金縛りをかけられる達人の言葉は尚志を高揚させた。
「金縛りなんぞは初歩の初歩。一生をかけて学ぶべきは合気だ。俺は
才川はさびしそうに笑うと残ったビールを飲み干した。
下手っぴな弟子の『あんな手品みたいな技なんて何の価値もないし興味もない』という発言を尚志は思い出していた。
これだけ強い人でもやはり気にしているんだな、と驚きもした。
「多分、本物の男は血の騒ぐまま突っ走ってしまうのでは。一馬身リードを守って行こう、なんて計算はしないで前に前に進んでしまうのです。
尚志は胸を叩き、目をキラキラさせてまくし立てた。
それを聞いて一瞬ポカンとした表情になった才川は次には、
「フフフ、ウフ、ウフフフ。そうか、南郷くんは意外と武張っているな。ウフ、フフフフ」
と、ご機嫌で笑い出した。
今度は尚志がポカンとした表情になる番だった。
「僕はその、才川さんはとっても怖い人かと思っていたのですが間違っていたようです。どんな質問にも丁寧に答えてくださって、おまけにこんなにも笑う人とは意外でした」
酒の酔いも手伝って、尚志は正直に思ったことを口にした。
「俺の経験から言わせてもらえば怖そうな人は上手く距離を詰め懐に入るに限る。武術の極意もこれと一緒。『刃の下は地獄なれどただ踏み込めよ、先は極楽』って言うだろ」
才川はニコリと笑うと尚志の肩をポンポンと叩いた。
尚志も笑った。
「さあ、そろそろ帰るか。南郷くんはこれから困ったことがあったら何でも言ってくれ。俺が力になってやる」
才川の一言は百万の味方を得たのと同じ価値がある、と尚志は感じた。
数日後、稽古が終わり地麦にいつものメンバーで飲んでいた。
「そういや、こないだ才川さんと尚志は地麦に来なかったけどどうしてたの?」
黒田が訊いた。
「ああ、南郷くんと飲んでいたのさ。二人っきりで」
才川が答えた。
「そりゃ珍しい! 才川さんがサシで飲むなんて。オイ、尚志よ。お前はよっぽど気に入られてんだなぁ」
黒田が言うと、佐嶋と伊勢もウンウンとうなずいた。
「あの、そんなに珍しいんでしょうか?」
尚志が皆に訊いた。
「ああ、これは事件だ。滅多にあることじゃない。それでどんな話をしたんだ? 何か奥義の一つでも教わったか?」
そう尚志に訊いた黒田はタバコを口にくわえた。
「はい! 今から実際にお見せします」
尚志はテーブルに置いてあるマッチを手に取り自分の方に向けて擦ってから片手を添えて黒田のタバコに火をつけた。
間髪をいれず、空になったグラスの数々にビール瓶のラベルを上にして液体部分と泡の部分のバランスが7:3くらいになるように注いだ。
「これが才川さんから教わった成果です!」
尚志は力強く答えた。
皆は不思議そうな表情で目をパチクリさせている。
尚志と才川は顔を見合わせると大いに笑った。
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