一徹と三人の令嬢と王子様

「ぬーん……」


 数時間後に惨劇が起きようなど、とても思えないほど気の抜けた情けない声が一つ。

 目に映る煌びやかな光景に、そして視線の先の大きな入り口に、次々と入っていく者たちを認めた彼は、頭を抱えてその場でしゃがみ込んだ。


「ヴィクトルゥ、俺ぇ……場違ぁい」


「でしょうな! だから申し上げたでしょう? そのような格好で夜会に出る者など、どこの家を見てもいないと!」


 弱弱しい声に対し、ピシャリと返され、クシャッと顔をしかめた彼は、手元の招待状を眺めて項垂れた。

 自分に対して送られたものではない。「私に代わって代理の者が出席いたします」と、招待状に書かれていることが、《タベン王国》王家別邸を使った、今日の仮面舞踏会マスカレード会場入り口の前で、彼、一徹が突っ立っている理由だった。


「お、お前は、アイツも、『俺に貴族家から嫁を取れ』っていうのか? どう見ても周り全員、俺と生きる環境セカイが違うだろう?」


「僭越ながら、なぜ夜会に出ざるを得なくなったかお忘れなく。旦那様が婚活に対しここまで目立った成果が出なかったからです」


「ウグッ!」


「別に貴族でなくても良い。町娘やどこぞのたなのご息女でも良かったでしょう。ですが旦那様は婚活を始めて四、五か月、出会いの芽すら見つけられなかった。だからせめて出会いの場を提供しようと、あの方は出席の機会を譲られた」


「趣旨を見ろ会の趣旨を! 《タベン王国》の、《ルアファ王国》、《タルデ海皇国》三国同盟に向けた、各国重要人物親睦の場って言うじゃねぇか! だったら本来はアイツが……」


「旦那様」


「んな政治の場、俺はっ……!」


「旦那様? ご親友であられるあの方のご好意を、無になさるおつもりですか?」


 いつまでたっても《まな板の上の鯉》にならない、往生際の悪い一徹。しかし抵抗するたび、この会場まで馬車を御し、一徹を送迎した赤髪短髪の大男に、理路整然と論破された。


「では、未来の奥方をお目に掛けられることを楽しみにしております」


「いーやーだー! ずっと部屋でゴロゴロしていたい。酒飲んで飯食って寝て。いいじゃないか! 別に、蓄えはあるんだから!」


「蓄えがあることが、スローライフの理由にはなりません。もっと人生を有意義なものにしたいとは思わないのですか! 愛する女性と結ばれ、お世継ぎを作り」


「お世継ぎってお前、別に俺はただの無職だってのに……」


「守るべきものが出来ますれば、その環境が旦那様を自堕落にはさせなくなりますな!」


「うっ! それに……わかるだろう? ただの女じゃ、ウチに入るのは無理がある」


「フム、そういう困難な壁を打ち破るものが……《愛》という力でございます」


「お前……40も超えた、ガチムチマッソーが変にロマンチストになるんじゃないよ」


 ヴィクトルという名の、四十も半ばに入った彼は一徹の使用人。

 少し楽しげに歯を見せ、頭を下げるヴィクトルの言葉に、嫌そうな顔した一徹は押し黙るしかなかった。


「期待はすんなよ? 貴族のパーティは三度目。そしてこれまで二回とも、いい目にあったことがない」


「《三度目の正直》という言葉がございます」


「《二度あることは三度ある》ともいうぞ?」


「旦那様、そろそろご入場いただきませんと……《私の顔も三度まで》となります。寧ろ三度目などとうに……」


「い、行ってくる!」


 トンチの効いた口上を述べてみたが、逆手に取られた格好。

 また、ヴィクトルの怒ったときの恐ろしさを知っていた一徹は、しれっと、ヴィクトルの顔を見ようともせず、そそくさと会場入り口へと歩みだした。


「旦那様っ!」


「わかった! ゴメン! もう観念するって!」


 その途中、背中に一喝がぶつけられたから、驚きに飛び上がった一徹は、恐る恐るヴィクトルに振り向いた。ヴィクトルと言えば、右手人差し指をもって、顔の周りで円を描いていた。


仮面舞踏会マスカレードですぞ。旦那様」


「あ、そうだった」


 恥ずかし気に笑って面を取り付ける、いろいろ抜けのある感じが否めない一徹に、ヴィクトルは呆れた顔を見せる。換言かんげんも止まらなかった。


「本当、旦那様も三十を超えて久しい身。もう少ししっかりしてほしいですな。今日だって本当は、もっとちゃんとした装いでパーティにご出席いただきたかったのですが」


 あぁ、ヴィクトルガミガミバーサン仕様に入ってしまった。そう思った一徹の聞く耳は、話半分程度。


「まったく。どこの世界に社交界ほどにフォーマルな場において、そんな黒一色のお召し物で出席する者がおりましょう」


「ん? んー……」


 だが、最後の質問だけは、妙に面白かったからか……


俺の世界・・・・?」


 返した一徹が浮かべたのは、人の食ったような笑顔。

 そうして踵を返し、入り口へと進んでいく一徹。

 ヴィクトルは、一徹が建物へと入り、姿が消えゆくまでその背中を眺めた。


「お気張りなさい。何があっても」


 ため息交じりの声。聞こえないほどかすれた声でつぶやいた。それは一徹ですら知らない、このパーティで起きうるであろうこの後を、ヴィクトルは予測できたからだった。

 隣国からの来賓が集まるこの催し。ならば三年もの間、一徹を探していた、とある一人の女性と出会うことになるはずだから。


 ……やがてヴィクトルは、次の到着客の乗る馬車に、乗降スペースを譲ろうと、己の馬車を動かそうとした。

 今回の夜会は、《タベン王国》公爵家が他家と共同開催することもあり、パーティ終了まで待機する各家の使用人たちに対しても、もてなしをするほど規模が大きい。

 だから、案内の者に話を聞いたヴィクトルも、使用人待機所へと向かうべく、その場を後にした。



 不気味な格好をした男が入場した。しかも本来招待した相手の代理だという。

 パーティスタッフである他家から借りた使用人からそれを聞き、真っ先にくだんの来場者を探し回ったのはエメロード。

 思いのほかすぐに見つけ出すことができそうだった。

 エメロードが歩む先、ざわめきが少しずつ大きくなっていくから、すぐ先に騒ぎの原因がいると確信できたのだ。 


「失礼しますお客様。ご挨拶を」


 とうとう声をかけることができた。声をかけた彼女も、少しの不気味さを感じた。


「本日はよく当公爵家、ラバーサイユベル伯爵両家主催のパーティにご出席くださいました。私、主催者ホステスの一人……」


「いんやー、すっごい豪勢なパーティですね。まさに『公爵家ここにあり!』って感じで。会場も王家別邸。確かにこれじゃ、前回ラバーサイユベル伯爵家で行われたパーティを、『レベルが低い!』と仰った気持ちが分かるような」


「っへ?」


 参加者全員が仮面をつけ、非日常感を漂わせるこの場。だがそれ以外なら、ドレスや飾りなど、煌びやかな装いが華やぐ場。

 どうだろう。その中に一人だけ黒衣を纏った男が紛れ込んだなら。

 だから緊張気味に彼女は声をかけたのに、回答はあまりに明るい声。エメロードの拍子が抜けたのは仕方ない。


仮面舞踏会マスカレードと言っても、主催者は仮面をしないのですねエメロード様」


 あまりに心の距離の近い話し方。

 主催者として、挨拶を交わした来場者たちは皆、公爵令嬢という肩書に恐縮していたのに、黒衣の男だけは親近感丸出し。


「あ、そうか、仮面じゃあ……ね?」


「あ、貴方!」


「お久しぶりです。エメロード様改め、アルファリカ公爵家第二ご令嬢、エメロード・ファニ・アルファリカ様。本日はお招きにあずかりまして誠に……」


「山本一徹っ!」


 話が通じていないようだと感じたから、キョトンとするエメロードに向かって仮面を少しだけズラし、ニヤッと笑った一徹。

 だがすぐさま食らったのはエメロードからの一喝だった。

 白を基調としたドレス。服装ゆえか大人びた印象を放ちながらも、まだかすかに残るあどけなさによるアンバランスさが、一徹の目を引いた18歳の美少女。

 スッキリとした鼻筋、顔の輪郭。細いシルエットでありながら、成長途上にある女性の部分には確かな魅力を一徹に感じさせる。

 優雅に編み込まれた髪、それと同色の、キャラメルブラウンの瞳と白い肌。

 それらパーツが織りなすのは、一片の欠落ない奇跡的な美しさ……のはずなのに。

 そんなエメロードから、まるで頭こなしに怒られたのだ。だから一徹は思い切り目をつぶり、歯を食いしばった。


「よ、良かった。変わらずお元気そうだ」


「ちょ、どうして!? 私呼んでない!」


「でしょうね。代理です。招待されたアイツはどうしても《メンスィップ》を離れられないようでして……」


 思いもしなかった一徹のパーティ出席。

 出席した不気味な黒衣の男が、正式な招待客ではなく、誰かの代理だと聞いたことを思いだしたエメロード。


「あ、あの男っ!」


 しかしその代理というのが、パーティの趣旨上、最重要人物である者が欠席したうえで寄こされたものとは思っていなかったから、驚きに口をパクパクさせながら、本来参加するはずだったとある男の顔を思い出し、呪った。


「ま、ご安心ください。今回は、《タベン王国》のお偉いさんが集う会だと伺っています。前回のような粗相が無いよう、隅っこで大人しくしていますから」


 エメロードの表情に何かを感じた一徹。

 だから一言フォローを入れながらも、得も言われぬ身の危険を感じたからその場を離れようとして……


「エメロード様?」


 黒衣の裾を摘まれた。


「貴方、このパーティをそこまで知っていながら、こんな喪服で来たってわけ?」


「喪服?」


「充分な嫌がらせよ。葬祭をイメージさせる暗色をコンセプトにした服。それも変わったフォルム、シルエットをしているし。周囲の奇異の視線、気づかないわけじゃないでしょ? 私の主催するパーティでなんて不吉」


 ちょっと待て、まだ言い足りない……とばかりに、その場から離れることをエメロードによって阻まれたから一徹の顔はひきつった。


「やっぱりスーツは、この世界には馴染まないのね」


 それが黒衣の正体。

 貴族のパーティはこれで三度目。そして前の二回はエメロード達にも一般的に知られる正装で臨んだ。

 ゴテゴテしてチャラチャラした宝飾。服の重さ。どうにも一徹には馴染まない。

 それが、一徹が昔着慣れていた・・・・・・・スーツに似た装いを、今日のために仕立てた理由だった。


 「喪服……ねぇ」


 言われた一徹は苦笑するしかない。

 一徹はテーラーではない。だから服飾職人にスーツを注文した際には、記憶と想像の中のスーツ像に限りなく寄せたつもり。

 刺繍や模様の入った生地を使うことも、ソレを使ったアレンジも、技術レベルから望めないと思った一徹が選んだのは、ダークブラックの生地。

 Yシャツも同様に、思い出の中から形やつくり・・・を呼び覚ました。

 よい着心地が楽しめるよう、そのために選んだ素材だって安くない。

 靴。獣の革なめして作らせた。そうして、ネクタイも備えた。黒だ。


「なるほど、喪服かも」


 白シャツ以外すべて黒。

 確かに不吉にも見えるだろう。

 ファッションセンスも周囲一般とはかけ離れたもの。

 エメロードの苦言もわかるから、一徹は困ったように歯を見せた。


「またニヘラって笑って」


「もしかしてそれが気になって、主催の貴女が来たのですか?」


「当り前じゃない。《黒衣の男》が誰かの代理だとは聞いていた。代理であっても元々招待していた相手と同等、それ以上の人間じゃないと、このパーティに参加するにふさわしくない」


「パーティに招待したのはそれなりの目的があるから。だが代理の者では、主催者の目的にそぐわない可能性がある。他、知識レベルや仕事の慣習なども違うと、参加者同士で交流を持ってもかみ合わない可能性も。ふさわしくないと言えばそうでしょう。それで私は……」


「そぐわない。ふさわしくない」


「で、ですか……」


 トホホ、と大きく息をつく一徹のガッカリした様を目に、エメロードは少し面白げにフフッと笑ったが……


「では、本会の趣旨だけさっさと済ませ、今日はおいとまさせていただきます」


 その一言で顔面蒼白となった。


「とりあえずはエメロード様のお父上、アルファリカ公爵閣下にご挨拶させてもらって、もちろんラバーサイユベル伯爵にも声かけて。あ、そうだ。あと《ルアファ王国》からの同盟交渉官にも……」


「必要ないっ!」


 それゆえ、思わず上がってしまったのは大声。

 

 驚いたのは一徹だけじゃない。周りで歓談している他の来場者からも視線を向けられてしまったから、彼女は慌てて取り直そうとした。

 エメロードは一徹が、どうしてこのパーティに代理として寄こされたのか理解した。

 ヴィクトルと同じ。エメロードも一徹が知らないことを知っていた。


「……まさかあの男、引き合わせるつもりじゃないでしょうね」


 このパーティに、三年もの間、一徹を探し続けていた一人の女性客が来ていることを。


「あー、何か、お気に障ることを言ってしまったようで」


 エメロードが今、何を思っているか。その感情が傍目から酌み上げられないから、声をかけた一徹は、バツが悪そうに苦笑いを浮かべて頭をかいた。

 しかしすぐ眉を潜め、首を傾げた。

 顔こそ横に向けながら、しかし視線だけはジッと、何か伺うようにエメロードが見つめてきたものだから。


「ってアレ? どうかされましたかエメロー……」


 そんな中……


「あぁ、こちらにいらっしゃったかエメロード嬢」


「わぁぁぁぁぁ!」


 望まない者の声。エメロードの耳に入ったからたまらない。

 いや、まだで良かった。アーバンクルスなら。


「ッガァ! 目がっ!」


 だから間一髪。一徹が挨拶のために額にズラしていた仮面を、元の位置に思いっきり滑らせ、戻す猶予をエメロードは手にした。


「アーバンクルス王子殿下。本日はお越しくださり誠にありがとうございます」


 出現に驚き、だから声を張り上げたエメロード。

 ポカンとした面持ちのアーバンクルスに対し、取り繕うように何とか平常に務め、スカート左右の生地を、軽く持ち上げ頭を下げた。


「い、いえ、ご招待いただき光栄だ」


 ただ、エメロードの今の声が尋常でなかったこと。

 その隣に立つ不吉な黒衣の男が、「げる! 鼻がっ、鼻がぁぁぁぁっ!」と、奇声を上げながら、両の掌で仮面とともに顔を覆っているのが目に入るから、アーバンクルスもまぶたを剥いていた。


「いまのはかなり、酷くないですかエメロード様」


「チョット、今は黙っていてよ」


「これが黙ってられますか!」


 特に、苦悶の声を上げる男が、次いで泣きそうな声で非難する。

 エメロードも慌てるものだからなおさら。


「エメロード嬢、これは、問題ないということでよろしいか? お困りなら……」


「ご、ご心配なさらず。いつもの事ですから」


 ザシュッ! という、仮面をもとの位置に戻したときの音。

 痛そうだったし、一徹の様子は、本当に痛かったことを告げていた。だからエメロードだって謝ってもよかった。

 だがアーバンクルスとの挨拶の場を、何とか切り抜けなければならない今は、ダメだった。


「いつものことって。さすがに……っでぇぇぇぇぇ!」


 アーバンクルスがここに居る。だったら間違いなく、彼女も・・・来ているはず。

 だから一徹には黙っていてほしいのに、エメロードの想いとは逆に、状況は動いた。


「目に見えて困っている女に対し、執拗に詰め寄る。とても紳士のすることとは思えない。そうは思いませんか? お殿方?」


 今まで以上の大声、というより絶叫。

 悲鳴には、会場内のにぎやかな空気を、凍り付かせるだけの痛々しさに溢れていた。

 悲鳴を上げた一徹。身動きを取らせないように腕を後ろに回されていた。立ったまま拘束されていた。

 ……そんなこと重要ではない。

 遂にエメロードは凍り付いた。


「大丈夫ですか? 何か、無茶を受けていないと良いのですが、エメロード様」


 パーティの主催者だから、参加者の仮面の下は知っている。

 いま、エメロードの前で繰り広げられている光景、それは……

 仮面をかぶったルーリィが、この国で少し前に恋人となった、いまは同じく仮面をつけたアーバンクルスを前に……

 彼と恋人になるまでは、ずっとルーリィが想いをはせた男、今は仮面によって正体がわからず、暴漢扱いすら受けている一徹の、腕を極めている図。


「もう一度聞きましょう。その振る舞いは……」


「紳士的じゃないです! 全然です!」


 赤子の手をひねるようにとはこのこと。

 一徹の右腕を片手のみで極めているルーリィのさまは、手慣れたもの。

 勧善懲悪宜しく、高潔で清廉な正義心からの行い。

 一徹は仮面をかぶっていたから、ルーリィはいま、自分が何をしているか気づいていなかった。


「いでで! チョッ、どうなってんだよこれ!」


「その言い方はないんじゃないかな。私にも貴方が、筋にもとる行動をとったように見えた。拘束されたのは、至極当然だと思うが?」


「筋にもとる? 別に俺、変なことしたつもりは!」


「罪を犯した者は皆、そう言うものです」


 アーバンクルスの余裕そうな声に、一徹の怒気のはらんだ反応が光る。途端だ。後ろに捻った腕を、ルーリィが更にクイッと上に持ち上げた。


「グッ! カッ! ギブ! ギブギブギブギブギブ!」


 仮面で正体がわからないから、非情になれた。


「ル、ルー……ッツ!」


 穏やかではない。

 だから止めようとしたエメロード。しかし一徹の前でその名を口にするわけにはいかないから、状況の悪化に歯止めがかからず、焦った。


「彼女は我が国、《ルアファ王国》王都騎士団本部に所属している。そこから見ると、貴方への拘束は、行いがお世辞にも筋の通ったものではなかったと伺えるが?」


「《ルアファ王国》!? じゃあそちらさんが、ハッサンとはもう一方別の、《タベン王国》同盟候補先か。じゃあ同盟交渉官、そういうことかよ!」


 耐えかねたように、一徹が声を絞り出したのは幸いだ。

 その口ぶりが、アーバンクルスとルーリィの二人に、一徹、もとい黒衣の男が、《タルデ海皇国》側の人間だと分からせた。


「エメロード様、こちらの方は、ご存じか?」


「ラチャニー殿の代理です」


「代理? 今日の趣旨を知ったうえで、あの男は身代わりなどよこしたのですか!?」


「だぁから! 痛いってのぉ!」


 ハッサン・ラチャニー。

 本来はこのパーティに出席するはずだった《タルデ海皇国》の大商人の名前。

 不参加という事実が気に入らなかったのか、ルーリィの思わず入った力は、極めていた一徹の腕をさらに曲がってはならない方向へとしならせた。

 泣きそうな声と顔の一徹。エメロードの胸中だって穏やかじゃない。

 エメロードは一徹にルーリィの、ルーリィに一徹の名前を聞かせたくないから。 いつアーバンクルスが、ルーリィの名を呼んでしまわないか気が気じゃなかった。

 何とかこの場を、一徹とルーリィが互いの存在を知らぬままに切り抜けなければならない。それがエメロードの思惑。

 そのために必死で考え、言葉を選び、状況を進める必要があると思うと、エメロードは体温が一気に上昇した。


「いい加減開放してくれ! 親友だからってことで招待状を回されただけの俺には状況がわからない!」


 それでいて状況はさらなる悪化の一途。一徹の言葉は、ルーリィには失言だった。


「ラチャニーの……親友?」


 凍り付いたルーリィ。その表情のまま、エメロードを見やった。


「もしやこの男は……先日エメロード様に謝罪を迫った、あの、いわくつきの?」


「え? あ、あの……」


「無理やり、口にしたくないことを曝け出すよう強要し、嗤った、あの下衆ゲスですか?」


「謝罪を迫った? 俺が? ちょっと待ってくれ。話が見えな……」


 出てくるセリフ、質問、回答の困ることばかり。

 飲み込めない話。仮面越しにエメロードを見てくる一徹の瞳に、さすがに苛立ちの色が見えたこと。ルーリィと一徹の間で板挟みになりかけた状況に、エメロードもオロオロとし始めた。


「そうですか。それならば丁度良かった」


 ……予想外の出来事。


「あ……かぁぁぁ! やっと、解放されたよ。いやぁいってぇ」


 ここでルーリィが、ポーンと後ろから一徹の両肩を両手で押すようにして、腕を開放し……


「仮面越しに行かせてもらう。歯ぁ、食いしばれ・・・・・・・・


「……は?」


 極められた肩をかばうように、もう一方の手で押さえた一徹。この上品な場に、似つかわしくない口ぶりに、振り返った瞬間……


「ゲブゥァッ!」


「……キツイな」


 ルーリィの掌底に張り倒された。

 ルーリィが思いきり後ろに引いたのは、自分の右肩だけではなかった。腰さえ捻って作った力のタメ。

 これが仮面越しの、一徹の顔面に一気に解放された。

 その苛烈さ、見ていたアーバンクルスが身震いするほど。


「っが、マジで! これ! 鼻折れるって!」


「良かった。まだしゃべる余裕があるのか。こちとらエメロード様が貴様から受けた屈辱話を聞いて、はらわたが煮えくり返っていた。この場から消えたいと願うまで、同じだけの屈辱をとくと味わってもらおうか」


「あ、あの、もう大丈夫ですから。その辺になさって……」


「御心配には及びませんよエメロード様。これ以上ここでは……ね。アーヴァイン、少しこの場を外すが、いいだろうか?」


 もはや状況は、エメロードでは止められないところまで来てしまっていた。


「ほどほどに。他の来場者に、『《ルアファ王国》は成敗が行き過ぎる』と思われたくない。あとは君と踊るとき、その掌があけに染まっていないと有難い」


 愛称で呼ばれたアーバンクルス。この状況に他の者が注目し始め、者によっては引いているのを一瞥し、困ったように笑っていた。


「どうだろう。私は、お淑やかさで通してきたわけではないから」


「……そこまでです」


 一徹への折檻が足りないと、手を伸ばしかけるルーリィ。

 声だ。大人の色気を感じさせる、艶やかな声をあげた者がいた。


「……貴女は?」


「その殿方の同伴という立場では、止める理由になりませんか?」


「パートナー? この男の?」


 珍しい恰好した女。背中がパックリ割れた、ワインレッド色のタイト型チューブトップドレス。

 色気をアピールするドレスのはずなのに、どういうわけだかドレスから露出する箇所、首から肩、腕、手の指先一本まで、スッポリと白くてピタッとしたインナーに包まれていた。


「例えばそちらの御仁。貴女の前で、もし辱めを受けたなら、貴女はどのようにお感じになるでしょうか?」


「アーバンクルスが?」


 自分に置き換えて考えてみろ。女はそう諭していた。

 静かに非難を口にしながら一徹の傍へと歩みより、やがて庇うようにルーリィと対峙する。


「この夜会は同盟検討国同士の重要人物が一堂に会する。ですが随分と《ルアファ王国》は、周囲の感情を考えず、猪突猛進に物事を進めてしまわれるご様子」


 暗なる皮肉まで見せた女に対し、ルーリィは納得いかないながら、何も返事することもできず。ついにあきらめたようにフッと体の力を抜いた。


「申し訳ありません。知らぬこととはいえ、無理が過ぎました」


 仮面の下からこぼれるルーリィの声は歯切れが悪い。


「お判りいただけて安心しました。それにしても良かった。ここが、パーティの会場で」

 

 謝罪を認め、フフッと笑った声が聞こえたのは、一徹を庇った女のもの。

 女はその言葉とともに、今度はゆっくりとルーリィへと歩み始めた。


「パーティ会場で良かった? 失礼ですがそれはどういう……」


「お答えさせていただきます。ここが会場でなければ……」


 とうとう、質問の意図をつかみかねるルーリィのところまでやってきた女は、ルーリィの耳元まで仮面を被った顔を近づける。


旦那様・・・に害を成した貴女は……すでに死んでいました」


「ッツ!」


 ささやかれたから、ルーリィは反射的に後ずさった。

 たったの一言。それだけでルーリィは、全身からブワァッと冷や汗を吹き出した。

 一瞬の出来事、誰も気付かない。しかし至近距離にいたルーリィだけはその感覚から逃れられなかった。

 絶対零度の殺気。

 仮面によって女の表情は知れない。

 だが空いた二つの穴からのぞく、向けられた者すべてを強張らせるだろう冷たい眼差しにルーリィは直感した。


「あ、貴女はっ!」


 隠れているのは間違いなく、殺しの経験がある者の殺気。

 人の命を奪うことに何の躊躇ちゅうちょもない。むしろ、どう殺してやろうかと思案していそうな、悦のかお

 女から感じられるのは心の余裕。それは一人ではなく、これまで何人も手にかけてきたことを分からせた。


「では、私たちはこれで。お互いパーティを心行くまで楽しみましょう?」


 装いは、摘まむスカートのないタイトドレスだから、ヘソのあたりに両手を重ね、女は少し両膝を曲げて会釈した。

 優雅なふるまいは、一徹の腕に、己の両腕を巻きつけるときも同様。


「ぬっぐぅ! や、柔らかいものが……当たって……」


 そうして女は、驚きに目を見張り、やがてだらしない顔になった一徹に優しく笑いかけ、その腕を引き、場を後にした。

 残されたのは予想だにしない殺気に晒され、戦慄したルーリィと、そんなルーリィの様子に状況がわからず、首を傾げたアーバンクルス。

 結局、女が来るまで、何ひとつできなかったエメロードは、呆然と立ち尽くしていた。

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