第50話 背中に触れるすべやかな肌触り、二つの柔らかな圧。その名はおっぱっ……!?
(吐きそうだ……)
この言葉くらいしか出てこない。
「壊しちまった。自分の身勝手で」
下宿に帰ってきたばかりの時の、小隊員の面々からの反応、トリスクトさんがその場にいなかったってのは、想像をはるかに超えて衝撃的だった。
そうね。壊しちゃったのよ。
一応この下宿を、帰ることのできる場所という意味では、迎えられた。
(だが小隊という意味じゃ)
「俺が、誰も信じていなかったということを、示しちまった……クソッ! なんであんな軽率な……」
あれから部屋に帰って、じっとすることも出来なくて。とりあえず風呂に入ることにした。
ウチの風呂は、元が温泉ホテルの旧館だから、毎日天然温泉を引いていた。
「時間はもう夜の10時半。いつもの下宿ルールじゃ、入浴時間は十時までだってのに……」
本来なら、栓を抜いて、湯水すべてを流し終わっている時間帯。
それでなお、こうして温泉にありつけているところに、気遣いを感じてしまう。
「その気遣いが、いまはこんなにも痛いね。温泉にありつける俺がいうこっちゃねぇけど」
この場で湧いているのは、天然温泉だけじゃない。
俺の中でも、自責の念みたいなものがポコポコ湧いてきた。
仕方ないこととはわかっているのだが、やり切れねぇ。
だから湯につかっていた状態から、思いっきり頭のてっぺんまで潜ってやった。
構わないだろう?
下宿にはいろいろルールがあるだけじゃなくて、そこに住んでいる者たちで、いろいろ、整理整頓、美化の為に当番が設けられている。
その中で俺は、毎日朝6時には起きて、空っぽになった内湯大浴場、露天風呂をモップでこすりまくってるんだから。
本来この下宿の風呂管理者は、俺になるわけだ
(さて、どうするかなぁ。こんなこと思う義理じゃないが、このままでいいわけがない。俺は、小隊長なんだから。小隊内の空気がぎこちないままじゃ、三組連中に迷惑も掛かる)
毛穴の隅々から暖かさがじんわりと染み入ってくるのを感じる。
人間は皮膚呼吸をしないが、体内の凝り固まった疲れがふやかされ、毛穴から溶け出していくような、そんな脱力を覚えた。
(う~っ! 小隊長の立場にある奴が、こんな考えなしにアホなことするなよ~! 三組連中、特に《主人公》たちはマジで怒ってるだろうな。トレーニングから帰ってくる前に、自室から出てくる前に、俺がもぬけの殻って)
このまま、体すべてが溶け、排水溝に流され、海にたどり着き、何処か遠くまで行けたら……なんて。
身につまされる想いをいま考えてしまうが、流石にそういうわけには行かないか。
「プハッ!」
言ってしまえば、人間はえら呼吸も出来ない。
口呼吸で酸素を取り込まなければならないから、底を蹴って水面に顔を出した。
「くぅ~~っ! 気分を変えよう。露天だ露天!」
本当、いまは何とかして、気分を紛らわせないとやりきれない。
「今日はたぶん寝付けないなこりゃ。風呂に入った後だが、それこそ外をランニングしても……って、失踪した俺が夜間に姿を消すって、シャレにならないぞ」
変に物を考えないようにしないと、生殺しな気分がしてならない。
が、何かするというにも、選択肢はないらしい。
「あ~~~詰んだっ!」
思い知ってしまう。今日はとことん、頭によぎるこの感覚と付き合わなければならないということ。
もしかしたら、今日どころか、明日も明後日も、しばらくは悩むことになるかもしれない。
そんなことを考えつつ、内湯を上がった俺は、そのまま露天風呂へと向かった。
足が……重い。
◇
「はぁ、日中はまだまだ熱いが、やっぱ十月か。夜は少し冷え込んで、秋風は気持ちいいね」
内湯で体が火照ったから、吹きすさぶ風は心地よい。
一気に冷まされたこともあって、頭もシャキッと切り替わるような感覚。
そしてその状態のまま、露天風呂に足を入れていくと……
「お、おおお♪」
気持ちよさから変な声が出てしまった。
湯気によって、浴室に暖気たまった内湯も悪くない。
しかし肩までつかるとそれより下は暖かく、上は涼しい露天風呂の解放感(露出狂ではない)というのも、少しは気分を晴らす一助になる気がした。
(いや、もう今日は何も考えるのよそう。俺自身もまだ落ち着いてない。じっくり考えるのは明日からでも……)
「とは言っても、どうにも頭にはいろいろ浮かんできてしまうわけでして……」
外気によって冷えてきた、濡れた顔に、改めてパシャリと、両手ですくった風呂湯を叩きつける。
無意識中の行動。
冷に、突然の暖をぶつけることで、その衝撃による心の心機一転を図ろうとでも思っていたのかもしれない。
「……参っているようじゃないか」
「なんでこんなことしちゃったのかなってさ。自分のことばかり考えて行動したことも、それによってアイツらがどう想うかを考えなかったことも、ムカつく」
「ふぅむ。堪えてるね。皆の反応が君には、効果てきめんだったというわけか」
「当然だろ。見てられなかったもの。トモカさんに、他の奴らの表情って言ったら。それに……」
不意に耳に入った問い。
俺の心中にはドンピシャで、思わず答えてしまう。
「それに?」
「それに……って……え?」
そう、
「それになんだい?」
「そ、その場には、トリスクトさんがいな……くて……」
「そうか。もしそれが、少しでも君の心を抉ったのなら、ささやかな仕返しは成ったといったところかな?」
そして、その声を、俺は良く知っていた。
いや、まてまてまて~!
知っているよ声は! だけど、この場にはあり得ないだろ! あり得ないはずだって!
この場にいるのがおかしいというより、
「もしかしまして、もしかしなくともぉ……」
気づいて、全身が強張った。
ぬっくぬくだったはずの俺の身体なんて、その声に全身冷や水食らったように強張ってしまったし。
心なしか
声の元へ振り向くその時、油の差されていないブリキの人形の首がごとく、ギギギっと鳴った気がした。
「待ちくたびれたよ。危うくのぼせてしまうところだった」
「トリッ!」
目に入った人影。
驚天動地。
露天風呂につかった状態で飛び上がってしまった俺は、足を滑らし、思いっきり背中から、ザッパーンとダイブすることになってしまった。
「えっ! ちょっ!」
足が付く程度の深さの露天風呂。
だが、バシャバシャと水面でバタつき喘いで、溺れそうになった。
当然だ。いるはずがないから。
しかも、下宿に戻ってきたとき、その場にいなかったトリスクトさんがっ!
「驚かせたようだ」
「お、驚くって! だって、え? ごめんっ! トリスクトさんが露天風呂に入浴中だってことを知らなかったんだ。だからそのまま大浴場に入って、内湯にも入って……」
おい、おいおいおい。
ってことは、脱衣所にはトリスクトさんの脱いだ服一式あったんだろうか?
(気づけよ俺っ! いくら放心状態だったとしても!)
「す、すぐに出ていくからっ!」
「なにか勘違いをしているよ。『待ちくたびれた』と言ったじゃないか。私は、君を待っていた」
ハイ、日本の心、温泉の入浴には、たとえ海外の方でも守っていただきたいルールってのがありますね。
それすなわち、
(待て、待てっ! ってことはなにか! トリスクトさん、まさか生まれたままの姿で湯舟に……うっ!)
そこまで考えが及ぶと、ツンと目と鼻の間が熱くなった。ドロッとしたものが、鼻の中を流れる感覚。
「は、
「傍に行ってもいいだろうか」
「ふぇぇぇぇぇっ!?」
「どうして離れる。それに、急に星空など仰いで」
「い、いやぁ」
嗅覚を支配するのは鉄の匂い。間違いない。こみあげてきたのは鼻血だ。
そして当然ながら、垂れ流すわけにもいかない。
「なら……」
「ひぅっ!」
背筋が張ってしまう。
動物的な……反応というのが正しいだろうか。
(ちょっ! この背中に感じるすべすべとした肌触り。言葉に表せない、二つの……柔らかな圧っ!)
「振り向くなよ?」
「ま、まさか……」
「いや、振り向いても構わないが、この姿にはすこし、
「ッツ!」
この状態、心も頭も、沸騰しそうだ。
「……あ……」
が、一気に目が覚めた。
後ろから、白くほっそりとした両腕が回され、俺の首を抱いてきたこと。さらに、
「おかえり。一徹」
その、一言。
裸の彼女と露天風呂で居合わせてしまったことも、そのまま背中に彼女が密着してきたことよりも。
後ろから抱きしめられ、心からの安堵をにじませる声で、言葉を送ってきたことが、心を引き締めた。
(俺は、裏切るようなことをしたのに。どうして、こんなにも優しく迎えて……)
「ちょっと……優しぎるんじゃない?」
「そうかい?」
「胸が痛い」
「それでいい」
温泉で血行も良くなったのだろう。
心拍数も早く、強くなっているからか、彼女の心音が、肌を通し、背中越しに感じられた。
「分からないんだ。トリスクトさんが、なんだってこうして迎えてくれたのか」
「私が信じられないかい?」
「信じたい。でも、色々おかしいんだ」
どんな言葉が、さらに彼女を傷つけるか分かったものじゃない。
だけど、この期に及んでここまで俺を受け止め、受け入れようとしてくれるトリスクトさんには、全部ぶちまけたかった(べ、別に、八方ふさがりだったさっきのような状態から、楽になりたいんじゃないんだからね? 絶対にないんだからっ!)。
「鶴聞って街に行ったんだ。別人の物だってトモカ姉さんに言われている記憶で、一番強く印象に残っている街」
「うん」
独りよがり。
トリスクトさんが、ちゃんと受け止めてくれるかなんて保証もないのに。
(さっきの皆の反応で、自分の好き勝手を後悔したうえで、これか)
「小学校に通った。中学校に通った。そして高校に通った」
「それで?」
「三縞校三年生は、高校三年生扱い。だから記憶をたどるなら、直前の二年間は、その高校に行っていたもんだと思った」
「それ……から?」
「……何もなかった。俺が在籍している記録何一つ。おかしいんだよな。結構色々、そこであったことが残像として思い浮かぶのに」
「一徹」
キュッと、抱きしめてくる腕に、力がこもっているような気がした。
「ゲームセンターに行った。記憶に強く残っていた、その記憶の持ち主が住んでいたであろう場所にも行った」
「何かあったかい?」
「何もなかった」
また、力加わった。少し息苦しいが、これを聞いてもまだトリスクトさんがいることが心強くてならない。
「なっさけないよなぁ。俺さぁ、その記憶が、本当は俺自身の記憶なんだと思っていた」
「そうか。そうだろうね」
だけど、言ってしまえばここからが正念場かもしれない。
「……聞いてもらいたいことがあるんだ」
「私には君に対して……」
「うん、答えられないことがあるってのは知ってる。婚約についての話が、その中に含まれていないと、ありがたい」
たぶん俺はこれから、間違いなく、また彼女を傷つける言葉を放ることになるから。
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