第33話 思い出と今と
もう外は暗くて、風が少し冷たい。
夜道、と言うにはまだ早い時間だけど、暗い風景の中を佐倉と歩くのは初めてで、何となく気分が浮き立つ。
「あまり勉強出来なかったわね」
あまりどころか全然だ。
でもこうやって佐倉を家まで送ることが出来るのだから、そんなことは些細なことで、出来なかった分は睡眠時間を削ってやればいい。
「無理しないでね」
佐倉は俺の考えを見透かしたように言う。
今更、見透かされるのは全然構わない。
そんなことよりも、優しい言葉を掛けてくれたことに驚く。
Mに目覚めそうになった直後に、優しい言葉にも喜ぶ俺は節操が無いのか。
いや、結局、佐倉だからか。
佐倉だったら何でもいい。
あれ? いつの間に俺は、こんな佐倉大好きマンになってしまったんだろう。
最初はただ意地で彼女にしてやる、なんて息巻いていただけなのに。
思えば、同じクラスになった当初は、佐倉なんて無縁の存在だった。
綺麗だとは思ったものの、自分とは接点の無い、住む世界が違うと言っていいくらいの存在で、それはもはや存在しないのと同じことだった。
だから憧れの感情さえ抱かなかったし、本屋で横目に見た写真集やグラビアみたいなもの。
そう言えば夏に差し掛かる頃、佐倉と初めて二人で教室を掃除した。
その頃には一人で掃除をするのが当たり前になっていて、無言で手伝ってくれる佐倉に息苦しさを覚えつつも、意外と優しい子なのだろうかと思ったりした。
夏休み中に本屋で佐倉に会ったこともある。
たぶん、あれが初めて見る佐倉の私服姿だっただろう。
控えめで、思いのほか地味な服装でありながら、佐倉はやはり佐倉で、周りにいる人を霞ませるくらいの存在感を放っていた。
「その本、面白いの?」
俺が本を手にしてレジに向かおうとしていたときの佐倉のセリフ。
「これから読むんだから、判るわけ無いだろ」
その言葉に対する、俺の素っ気ない返事。
「そうよね。でも、私も買ってみるわ」
「面白くなくても責任は取らんぞ?」
「ええ、責任は取らせないわ」
何だコイツ? でも、ちょっと面白いヤツだな、と、俺はそのとき思った。
「あの本、あまり面白くは無かったわね」
確かに佐倉の言う通りで、あのとき買った本はあまり面白くは無かった。
でも何故か、俺はその本を大切にしていた。
「表紙が綺麗で、有名な芸術家の絵と似ていたけど、もっと魅力的だった。けど──」
けど、何だ?
「そんなこととは関係なく、机の引き出しに大切に仕舞ってる」
お前の存在など、無いに等しいと思っていた俺を、お前は何でこんなにも揺さぶるのだろう。
「責任取ってよね」
「はあ?」
「面白く無かった本を、大切なものにしてしまった責任」
……それは、魔法みたいな言葉だ。
恋愛とか、彼女とか、自分には縁の無いことだと思っていた俺に、佐倉は魔法をかけるのだ。
「魔法少女かよ……」
小さく呟いた俺の声など、聞こえるはずが無いと思ったのに、佐倉は俺の顔を覗き込む。
「そうだ、責任取って魔法使いになってよ」
ええっ!? 責任って、三十まで童貞を守り続けることなのか!?
いや、それって結構簡単に守れそうな気もするが。
それどころか、守らなくても守れるんじゃ……。
「嘘よ。もう責任は取ってもらってるから、これ以上、私の我儘は聞かなくていい」
佐倉は笑う。
笑顔なんて、学校ではほとんど見せなかったから、それすら魔法みたいに思える。
俺の心をくるくる掻き回して、時間とか、重力とか、そういった存在を忘れさせる。
まるで、夢を見てるみたいに。
「ここでいいわ」
佐倉は立ち止まって、俺を制止するように腕を掴んだ。
指の絆創膏が目に入る。
「ここから近いのか?」
「あと10分くらい」
「せめてあと1分のところまで送らせろ」
佐倉は何故か目を伏せる。
「私の家、厳しいから、近所の人に見られたら大変なことになるの。だから、ここまで」
もしかしたら、付き合えないのは、それが原因か?
「恋愛禁止条例でも出てるのか?」
「まあ、そんなとこ」
「ブサメン禁止条例じゃ無いんだな?」
佐倉が目を丸くする。
それから俺の頬をつねって、一頻り笑う。
「安心して。あなたに悪いところなんて無いから」
それは逆に、困ってしまう。
俺に悪いところがあるなら直せばいいし、直せないことなら、それを補えるだけ他のことを頑張ればいい。
でも、俺自身の力が及ばない事柄に対して、俺はどうすればいいのだろう?
「送ってくれてありがとう。じゃあね」
俺は佐倉の後ろ姿が見えなくなるまで、ずっとその場に立っていた。
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