第23話
「神無月さんって、不気味じゃない?」
勉強会が終わった帰り道。
優香が不機嫌そうに愚痴を零した。
「今日のあれ、何? 神無月さんのああいうところ初めて見たからビックリしちゃった」
優香がここまで他人に露骨に嫌悪の感情を示すのは、見た事がなかった。
椎は黙って自転車を押しながら、彼女の言葉に耳を傾けた。
「前から変わってるなぁって思ってたけど、今日のはちょっと異常だよ」
ふと、脳裏に弥生の姿が浮かんだ。
暗く、広い家の中でポツリと佇んでいる弥生。
気怠そうに、そしてどこか寂しそうに笑う弥生の表情。
「椎くん?」
優香の声に、椎は小さく肩を震わせた。
「あ、ごめん。少し、ぼんやりしてた」
「……神無月さんの話してたんだよ。ああいうタイプは予想もしない行動をとるから気をつけてね、って」
「……うん」
椎は適当に相槌を打って、足を止めた。
いつもの分かれ道だった。
「じゃあ。僕はこっちだから」
そう言って、別の道に進む。
「椎くん!」
不意に、優香が叫んだ。
何も言わず、振り返る。
「また明日!」
右腕を力いっぱい振る優香の姿があった。
「うん。またね」
椎も小さく手を振って、帰路についた。
◇◆◇
その日は、酷い雨が降っていた。
バケツをひっくり返したような豪雨で、傘を差していても足元がずぶ濡れになった。
昇降口に辿りつく頃には靴の中が水でいっぱいになり、歩く度に不快な音と感触があった。
靴を履き替えて教室に向かうと、教室の一角でドライヤーに群がってる女子の姿があった。
誰が持ちこんだのか、ヘアーアイロンもあった。
「椎くん、おはよう」
椎に気付いた優香が笑みを浮かべて近づいてくる。
雨に濡れて前髪が額に張り付き、いつもの髪型が崩れていた。
「おはよう」
答えて、自分の席に向かう。
そこで弥生の姿がないことに気づく。
珍しい、と思った。
席についてタオルでズボンを拭く。
水を吸ったズボンが重い。
ホームルーム間近になると、ドライヤーに集まっていた女子が一斉に散り始めた。
持ち主らしき一人の女子が遅れて席につく。いつの間にかヘアーアイロンもなくなっていた。
引き戸が開き、担任教師が現れる。
「今日の雨は酷いな」
担任がそう言って、日誌を開く。
「出席いくぞ。青山」
はい、と前の方から声があがる。
担任はチラリと声の主を見てから、次の名前を順番に呼んだ。
椎はじっと弥生の席を見つめた。まだ空席のままだった。
結局、神無月、という担任の無機質な言葉に声が返ってくることはなかった。
二限目が終わる頃になっても、雨は止む様子を見せなかった。
授業間の休憩時間、教室の中はいつもより騒がしかった。
外に出る者が少ないせいだろう。
喧騒の中、引き戸が勢いよく開けられた。
椎は視線を向けて、息を止めた。
引き戸の奥に立っていたのは、神無月弥生だった。
傘を差してこなかったのか、頭からびっしょりと濡れていた。ポタポタと水滴が床に落ちている。
「弥生?」
椎の呟きに反応したように、弥生が教室の中に一歩踏み出す。びしゃ、と靴から水の音が聞こえた。
そこで、気づく。
弥生は上履きに履き替えていなかった。
外靴のまま、教室まで上がってきているようだった。
「弥生、靴――」
椎が立ち上がって口を開いた途端、弥生は足を止めてにんまりと笑った。
見たことがない笑みだった。
弥生の近くにいた生徒たちが怪訝そうな顔をして、視線を向けてくる。
「ねえ、椎」
他の生徒の喋り声に混じって、弥生の声が妙に大きく響いた。
「私ね」
窓の外で閃光が走った。
教室の中が一瞬だけ明るくなる。
「妊娠したよ」
一拍遅れて、雷鳴が轟いた。
教室中が水を打ったように静まる。
椎は弥生の言葉が理解できず、ただ彼女を見つめる事しかできなかった。
弥生は笑みを深くして、幼い子供に説明するようにゆっくりと繰り返す。
「子どもができたの。椎と、私の赤ちゃん」
弥生は幸せそうに、腹部をゆっくりと撫でた。
妊娠。
言葉の意味が、徐々に頭へ染み込んでいく。
椎は呆然と弥生の腹部を見つめた。
今更のように、避妊していなかったことを思い出す。
周囲で静かなどよめきが起こった。
「ちょっと、妊娠って、どういうこと?」
優香が青白い顔をして近づいてくる。
弥生は仮面のように張り付いた笑みを浮かべ、穏やかな声で答えた。
「椎の子どもが、ここに宿ってるわけ」
周囲の女子のざわめきが大きくなる。
優香は信じられない、といった表情で弥生と椎を交互に見つめ、なんで、と呟いた。
「嘘、なんで、だって――」
「なんでって、それはもちろん……」
弥生が椎に視線を移し、クス、と笑う。
「貴方が恋人ごっこをしてる間に、私が椎といっぱいセックスしたからに決まってるじゃない」
優香がゆっくりと椎に視線を向ける。
優香だけではない。教室中の視線が集まり、誰もが動きを止めていた。
「うそ。椎くん、ねえ、嘘だよね?」
椎は言葉を失って、視線を落とした。
眩暈がした。
黙った椎に代わって、弥生が答える。
「本当だよ。部室でもね、何度もセックスした。水無月とデートした後だって、私達、ずっとセックスしてたんだよ」
優香の足がよろよろと椎に向かう。
「何で、何で……椎くん? ねえ、椎くん?」
優香の声が震え、徐々に大きくなる。
椎はただ、ごめん、と小さく呟く事しかできなかった。
それを聞いた優香の顔が徐々に歪んでいく。
「水無月。言ったでしょう。私の勝ちだって」
弥生が嘲笑う。
興奮しているのか、いつもの抑揚のない声ではなく、どこか楽しそうな声だった。
「いつから? ねえ! いつから!?」
優香が声を荒げる。
椎は黙ったまま、弥生に目を向けた。
言葉が出てこない。
無意味に呼吸だけが早くなっていく。
「今から五週間前。水無月が椎に告白した日からだよ。だから、あんたが恋人ごっこやってるの見て、凄い滑稽だった」
あは、と弥生が歪んだ笑い声をあげる。
直後、パン、と乾いた音が響いた。
同時に周囲から悲鳴があがった。
優香が弥生の頬を叩いたのだと、遅れて理解する。
頬を抑えた弥生がゆっくりと顔をあげ、にい、と笑う。
「負け犬」
「この――」
激昂した優香が近くの椅子を両手で掴み、弥生に向かって振るう。
それは周囲の机にぶつかり、甲高い音が響いた。
女子の悲鳴に混じって、おい、と男子生徒の制止の声がかかる。
優香はそれを無視して、別の椅子を掴み、弥生に向かって振り被る。
「水無月! おい! やめろ!」
男子の制止を振り切って、椅子が投げられる。
激しい音を鳴り響き、女子の甲高い悲鳴が多く上がった。
「だれか、先生呼んできて!」
怒声と悲鳴が上がる中、優香の呪詛のような声が一際大きく響いた。
「そのお腹、潰してやる」
横薙ぎに振るわれた椅子が、弥生の腹部へ向かう。
「優香ちゃん!」
椎は叫び声をあげて、優香を横から抑え込もうとした。
「うるさい!」
優香が金切り声をあげて、手にしていた椅子ごと椎を振り払う。
椎は後ろに大きく押し飛ばされ、周囲の机を巻き込みながら倒れた。凄まじい音が教室中に響く。
「椎!」
傑の声がした。
椎は打ちつけた頭を抑え、その場に突っ伏した。
「水無月! 落ち着け!」
複数の男子生徒の声。
「殺してやる」
騒音に紛れて、優香の低い声が聞こえた。
「おい、椎」
傑の声。
立ち上がろうと床に手をついたところで、違和感を覚える。
力が入らない。
思った以上に強く頭を打ったようだった。
「絶対に殺してやるッ!」
優香の怒声。
彼女が振り回した椅子によって、周囲の人だかりが後ずさる。
どこか勝ち誇った顔で立ち尽くす弥生に、再度それが向けられた。
「弥生!」
弥生を守るように、優香との間に飛び込む。
横薙ぎに振るわれた椅子が、椎の側頭部を強く打った。
視界が大きく揺れる。
「なんでッ!」
優香の叫び声。
急速に、全ての音が遠ざかっていく。
視界がぼやけた。
担任教師の怒声が耳に届いたところで、如月椎の意識は失われた。
◇◆◇
全てが遠い昔のことのように思えた。
一体何が正解で、何が間違いだったのだろう。
入学当初、椎はずっと弥生の事を視線で追っていた。
多分、初恋だった。
あの時、想いを口にしていれば全てが違っていたのだろうか。
いや、それも違っただろう、と椎は思った。
きっとあの頃の弥生は、椎に興味を持っていなかった。
すれ違った想いは、もうどうにもならない。
あるいはもし弥生が想いを口にしていれば、何かが変わっただろうか。
多分、それも違う。
椎は長い間、水無月優香に片思いをしていた。きっと、弥生の告白なんて断ってしまっていただろう。
崩れてしまった恋心は、原型を残さず粉々に壊れてしまった。
バラバラになったそれはパズルのピースのようで、どこにもうまくあてはまらない。
「だって、離婚だってそうじゃない? 一度愛し合った人たちが、徐々に冷めていっちゃう。そこに明確なきっかけなんて、ないと思う。小さな事が積み重なって、ゆっくりと心が離れていくんじゃないかな」
ふと、水無月優香の言葉が頭に浮かんだ。
多分、きっかけなんてなかった。
徐々に好きになって、徐々に離れていった。
そうして生まれたすれ違いは、気がつけばどうにもならないほど大きくなっていた。
無数にあった選択肢の中、どこにも正解なんてなかったように思えた。
目を覚ますと、清潔感のあるベッドに横たわっていた。
消毒液の香りがした。
保健室なのか病院なのか、判断がつかない。
薄く目を開けると、すぐ傍から声がした。
「おはよう」
神無月弥生が薄い笑みを浮かべ、ベッドの傍に立っていた。
椎はぼんやりと弥生を見つめて、目を瞑った。
「妊娠したって、本当?」
「本当。市販の複数の妊娠検査薬ではっきりと陽性反応が出た。生理も来てないし、強い眠気とだるさがある。病院に行ったけど、胎のうはまだ確認できないから一、二週間後にまた受診することになる」
椎は目を瞑ったまま、弥生の言葉に耳を傾けた。
「産むの?」
「もちろん」
「そう」
短いやりとりの後、椎は小さく息をついた。
「学校は、どうするの?」
「辞める。暫くは困らないだけの財産がある。どうせ妊娠中は何もできないから、その間に高認のための勉強をする」
椎は弥生の瞳をじっと見つめた。
弥生の瞳には揺るぎのない光が宿っている。
「はじめから全部、決めてたの?」
「こうなればいい、とは思ってた」
弥生の意思に関わらず、この高校には在籍できないだろう、と思った。
そして、それは椎も同じだった。
親には、何と説明すればいいのだろう。
最後まで裏切り続けた優香には、何と謝罪すればいいのだろう。
結局、テニス部は傑に全て押しつける形となってしまった。
これから産まれるであろう子どもに、どうやって接すればいいのだろうか。
わからない。
眩暈がした。
椎は自らの額を抑えた後、ゆっくりと弥生に目を向けた。
「弥生、お腹、触ってもいい?」
無言で弥生が前に出る。
椎はそっと、弥生の腹部を撫でた。
当然ながら、生命の名残はまだ感じ取れない。
ただ、命の源が宿っているのは確かで、椎は大きく息をついた。
「ねえ、弥生」
遠くから、複数の足音が聞こえた。
「ボクたちは多分、色々な、本当に色々な環境に投げ出されることになると思う」
足音が近づいてくる。
学校の関係者か、親か、医者か。
きっと、大人たちが大勢やってくる。
「ボクたちは今の環境で過ごし続けることはできないし、とても苦労する事になると思う」
外で声がした。
揉めているような声だった。
「色々な人に迷惑をかけることになって、多分、ボクたちは上手く立ち回れないと思う」
部屋の中に複数の人達が入ってくるのがわかった。
「でも、一つの生命が生まれた事は絶対的に祝福されることで、弥生の身体に大きな負担がかかることになっても、どんな困難が待っていても、ボクは出産するべきだと思う」
弥生の瞳に、驚きの色が宿る。
椎は弱々しい笑みを浮かべて、呟いた。
「だから、精一杯の虚勢を込めて言うよ。これが最善の選択肢で、ハッピーエンドだって」
大人たちの声とともに、カーテンが開かれる。
椎は弥生の小さな手を握った。
弥生が驚いたように椎を見る。
椎は一度頷いて、それから降り注ぐ複数の視線を受けとめた。
不思議と、不安はなかった。
そして少年と少女は、子どもであることをやめる。
2012/02/15連載開始
2012/07/16連載完結
2018/06/14リメイク開始
2018/08/04リメイク完結
崩恋 ~くずこい~ 月島しいる @tsukishima_seal
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