第4話

「飯行こうぜ」

 傑の声で、椎は四限目の授業が終わった事に初めて気づいた。何も書いていないノートと教科書を慌てて鞄に放り込み、立ち上がる。ホームルーム後の出来事が頭の中でずっと繰り返され、全く授業に集中できなかった。

「椎? 大丈夫か?」

 傑が怪訝な表情を浮かべる。

 椎は、何が? といつも通りに振る舞った。

「お前、ずっとぼんやりしてないか? 寝不足か?」

「昨日、寝る前に古いゲームにはまっちゃって」

 その説明に、傑が納得したように、ほどほどにしろよ、と呆れ気味に言って歩き出す。椎もそれに続き、二人揃って教室を出た。

 椎と傑は基本的に食堂で昼を摂る事が多い。その例に漏れず、今回も二人は食堂を目指して一階におりた。一階の廊下は一年生で溢れ返っていた。

「混んでそうだな」

 傑が面倒臭そうに言って、人混みを掻き分けていく。椎は傑の後を追って、楽に人混みを進む事ができた。

 校舎の外に出ると、テニスコートを三年生のグループが使っているのが見えた。その光景をぼんやりと見つめながら、ゆっくりと足を進める。

「あの人、上手いな」

 前を歩く傑がポツリと言う。傑の言う通り、一人だけ経験者らしい動きを見せる三年生がいた。

「もっと前に見つけてたら絶対勧誘してたんだけどな」

 傑は残念そうに呟いて、すぐに興味を失ったように視線を外した。

 テニス部は基本的に緩い部員で構成されている。その中で、傑はこの現状に満足していない事を度々漏らしていた。

 食堂に辿りつき、冷房が効いた中に入る。既に券売機の前には行列ができていた。

「席、とっといてくれ」

 傑が券売機に向かって歩き出す。椎は慌ててその背中に声をかけた。

「ボクの分はカツ丼でお願い!」

「ああ、わかったよ」

 傑は振り返らずに返事だけして、人混みの中に溶けていった。

 残された椎はキョロキョロと周囲を見渡して、近くの誰も座っていないテーブルに座った。鞄を隣の席に置いて、傑の席も確保する。

「ね、ここ良い?」

 不意に、女の声がした。

 顔を上げると、菓子パンを手に持った水無月優香が向かいの席に立っていた。

「あ、えっと、傑も――秋村もいるけど良いかな?」

「うん。こっちも怜奈と亜樹がいるから」

 視線をずらすと、優香の後ろに同じクラスの島田怜奈(しまだ れな)と倉井亜樹(くらい あき)の姿があった。

 怜奈は真っ先に斜め向かいの席に着くなり、ニヤニヤと椎に目を向けてきた。

「如月さあ、優香とはもうキスしたの?」

 かあっと頬が熱くなるのがわかった。

 それを見て、怜奈が声をあげて笑う。

「うわ、漫画みたいに真っ赤じゃん」

「怜奈!」

 優香が窘めるように声を荒げると、怜奈はごめんごめん、と笑いながら謝って、それから優香に目を向けた。

「ふーん。如月と優香がねぇ。まあ、結構合ってるんじゃない?」

「そ、そうかな?」

 優香が満更でもなさそうな顔をする。

「お互い自己主張しないタイプだよねー。如月が男らしくリードしないと進展しなさそうー」

 それまで黙っていた亜樹が値踏みするように椎を見つめて言い、怜奈の隣に座って弁当を広げ始める。

 椎は困ったように笑って、努力します、と冗談っぽく返すに留めた。

「椎くんは何食べるの?」

 優香が向かいの席に腰を下ろしながら言う。

「今日はカツ丼の予定。今、秋村がまとめて買いに行ってくれてる」

「何? 如月って秋村をパシってんの?」

 怜奈がからかうように言う。椎は不服そうに怜奈を見やった。

「ボクが行くと人混みに呑まれそうだからって、いつも秋村が買いに行くんだよ」

「お前、チビだもんな」

 怜奈が笑いながら菓子パンの包装を破り始める。

 ずっと怜奈とばかり話している気がして、椎は優香に目を向けた。

「優香ちゃんは、いつも食堂で食べてるの?」

「うーん、結構バラバラだよ。教室だったり、中庭だったり、食堂だったり。強いて言えば、教室が一番多いかな」

 でも、と優香は柔らかい笑みを浮かべて言葉を続けた。

「椎くんはいつも食堂みたいだから、私もこれからは食堂で食べるつもり」

 椎は優香の笑顔に目を奪われ、息を止めた。

 全ての喧騒が遠ざかり、優香の微笑みだけが五感を支配する。

「なんだ。今日は島田たちも一緒なのか」

 不意に、背後から傑の声が届く。同時に椎の前にカツ丼が置かれた。

 振り向くと、物珍しそうに怜奈たちの方を見る傑の姿があった。

「おじゃましてまーす」

 怜奈がひらひらと手を振って言う。

 傑は、ああ、と小さく頷いて椎の隣に腰かけた。

「カツ丼、ありがと。助かったよ」

「ああ。席サンキューな」

 傑はそれだけ言って、そそくさと日替わり定食を食べ始める。

「えっと、秋村くん、私達がいると迷惑かな?」

 無言の傑を見て、優香が躊躇したように言う。

 傑は顔を上げて、いや、とそれを短く否定した。

「えっとね、傑はいつも食べてる時は喋らないから。怒ってるわけじゃないよ」

 不器用な友人に思わず苦笑してフォローすると、優香は安堵したように小さく息をついた。

「ね、明日も一緒に食べて良い?」

「ああ。好きにするといい」

 傑はそれだけ言って、食事を再開する。

「ま、男二人で食うより華やかで良いだろー?」

「もっと美人が相手なら文句ないんだがな」

 ぼそっと呟いた傑に、玲奈が面白くなさそうな顔をする。

 こうして、穏やかに昼休みは過ぎていった。

 二十分ほどかかって全員が食べ終わると、五限目の用意してくる、と言って傑が席を立った。

 それに釣られるように、僕も、とお盆を持って立ち上がる。

「オッケー。私たちはまだ残ってるから」

 怜奈が言って、それに優香と亜樹が頷く。

「じゃあね」

 椎はそう言って、傑とともに返却口に向かって歩き出した。

「ついでに何か買っていくか」

 お盆を返却すると、傑は傍にあった自動販売機の前で立ち止まり、硬貨を入れた。

「椎は何か飲むか?」

「僕はやめとく」

「そうか」

 取り出し口からコーヒーの缶を取り出す傑を見つめていると、ふと背後に視線を感じて椎は振り返った。

 人で溢れる食堂。

 その奥。

 遠くで数人の女子と食事をしている弥生と目が合った。

 黒く、濁った瞳。

 弥生はただじっと椎を見つめるだけで、何も行動を起こそうとはしない。

「行くか」

 傑が言う。

 椎は弥生から視線を外して、うん、と歩き始めた。

 食堂から出る直前にもう一度振り向くと、じっとこちらを向いたままの弥生と目が合った。椎はその視線から逃げるように食堂を後にした。

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