第3話
無言で自転車を押す弥生の後ろ姿を見ていると、全てが夢であったかのような錯覚に襲われた。
しかし、生々しい記憶の断片が椎の頭で何度も蘇り、あれが現実であったことを告げる。
残暑を残した九月の太陽の下、椎は黙々と弥生の後に続いた。
「二限目の数学って、小テストあるよね。復習した?」
不意に、弥生が沈黙を破った。
いつも通りの、何気ない会話。
椎は答えず、じっと弥生の背中を見つめた。
何を考えているのか、わからない。
なかった事に、したいのだろうか。
あれは一度だけの過ちで、これからは日常の、いつもの関係に戻ろう。
暗にそう言っている気がした。
椎は背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、ゆっくりと口を開いた。
酷く喉が渇いていた。
「……勉強、何もやってないよ」
「それ、まずいんじゃない?」
弥生は振り返らない。
椎は大きく息を吸って、言葉を続けた。
いつも通りに、何もなかったように。
「うん、まずいよ。前の小テストもあまりよくなかったし」
「それ、結構やばいじゃん」
クス、と笑って弥生が振り返る。
いつも通りのどこか気怠い印象を受ける笑い方だった。
すうっと気が楽になっていく。
あれほど憂鬱だった弥生との顔合わせは、思っていたほど大した事がなかった。
弥生はいつも通りで、だから、多分、あれは一度きりの間違いだったのだろう、と思った。
何かの弾みで、日常から外れてしまっただけ。
すぐに引き返せば、何事もなかったように全てが解決する。
椎の思考を肯定するように、弥生は穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。
「今日、熱くない? 天気予報だと曇りだったのに」
思わず、椎は空を見上げた。ちょうど、太陽が黒い雲に呑み込まれていくところだった。
◇◆◇
学校に着いた時には既にホームルームが始まっていた。
静かに教室に入った椎と弥生にクラス中の視線が集まる。担任は二人を見ても何も言わず、無言で着席を促した。どうやら見逃してくれるようだった。
弥生は廊下側の席に、椎は窓際の席にそれぞれ向かう。途中、最後列の席に座っていた水無月優香が小さく笑いかけたのが分かった。椎はチラリと目で挨拶して、そのまま自分の席に座った。
「珍しいな。寝坊か?」
隣の秋村傑(あきむら すぐる)が小声で話しかけてくる。傑は椎と同じテニス部の一員だ。
「今日は歩いてきたから時間かかっちゃって」
椎はそう言って、一限目の準備を始める。傑は何か言いたそうな顔をしたが、すぐに担任の方へ視線を戻した。
「既に大学受験は始まっているようなものだ。指定校推薦を狙っている場合は、今から常日頃の行いを正し、予習復習する癖をつけておく必要がある。それ以外も同様だ。この二年で、お前たちの人生が決まると言っても過言じゃない。学歴が全てを決める訳じゃない。しかし、それによって選択肢が増減するのは事実だ。今の段階では大きな夢もなく、全入時代だからと、とりあえず進学を目指す奴が多いだろう。だからこそ、選択肢を増やす為に勉強しろ」
担任の中年教師が何回も聞いた話を繰り返しているのを聞き流しながら、椎は何となく後ろを振り返った。
水無月優香と目が合う。
優香は小さく首を傾げて、可憐な笑顔を見せた。椎はその笑顔に見とれて、動きを止めた。
「家で何時間も勉強しろ、とは言わん。ただ、学校にいる間は勉強に力を入れろ。時間を無駄にするな。遊ぶ時は多い遊び、勉強する時は勉強に集中しろ.余った時点でバイトでも何でもして、色々な経験を積め」
担任の声が大きくなり、椎は我に帰って視線を担任に戻した。
「以上」
最後に教室を見渡して、担任は教室から出て行った。途端、教室が騒がしくなる。
「なあ、今日は部活来るか? 昨日サボっただろ」
傑が一限目の用意をしながら声をかけてくる。椎は一瞬躊躇する素振りを見せた後、結局頷いた。
「今日は行くよ。昨日はごめん。急用が出来ちゃって」
いつも通りに。
日常から離れないように。
「ちょっとジュース買ってくるね」
椎はそう言って、席から立ち上がった。
ああ、と生返事する傑に背を向けて、教室の後ろから廊下に向かう。
廊下に人影はなく、各教室からざわめきが漏れているだけだった。
一階に下りて、剣道場前に続く裏口に進む。
その時、背後から足音と共に透き通った声が響いた。
「椎くん!」
振り返ると、水無月優香が小走りで駆け寄って来るところだった。
「飲み物買いに行くの?」
「うん。みなづ……ゆうかちゃんも?」
「うん。一緒に行こ!」
優香は満面の笑みを零し、極自然な動作で椎の手を握った。
とくん、と心臓が跳ねる。
「ね、今日も部活あるの?」
「うん。基本的に毎日あるよ。ボクと傑以外はあまり来ないけど」
「へえ。皆あまり熱心じゃないんだね」
「顧問も何も言わないから」
自販機に辿りつき、椎は足を止めて無言で優香に先にいくように促した。
「椎くんは、何飲む予定?」
「カフェオレ」
「じゃあ、私も!」
優香はそう言って、財布から硬貨を取り出す。自然と、椎の視線は優香の横顔に吸い寄せられた。綺麗だった。
カラン、と軽い音とともに取り出し口に紙パックが落ちてくる。優香はそれを取り出して、一歩後ろに下がった。椎は一歩前に出て、優香と同じように財布から硬貨を取り出し、自販機がそれを呑み込んだ。その後ろで、優香が紙パックにストローをいれて、口に含む。椎はその様子をぼんやりと眺めながらボタンを押した。次いで、取り出し口から紙パックを取り出すと、何故かいちご牛乳の紙パックが手に収まっていた。どうやら、ボタンを押し間違えたらしい。
「あれ? いちご牛乳にしたの?」
優香も気づいて、声をかけてくる。
「ボタン押し間違えちゃったみたい」
椎が苦笑いしながら言うと、優香は少し考える素振りを見せてから、はい、と飲みかけのカフェオレを差し出した。
「一口飲んじゃったけど、交換しよ!」
半ば強引にイチゴ牛乳が奪われ、カフェオレが押しつけられる。椎が何か言う前に優香はいちご牛乳にストローを差し込み、笑顔でストローを口に含んだ。
椎はその様子を見て何度か瞬きしてから、機械的にストローを口元に持っていった。いつもより甘ったるい味がした。
「椎」
不意に、低い声がした。声のした方に目を向けると、裏口の前に神無月弥生が無表情で立っていた。
「テニス部のことで、話がある」
弥生はそう言って、椎の隣に立つ優香に冷たい目を向けた。
優香がその視線に気づき、申し訳なさそうに両手を顔の前で合わせる。
「あ、ごめん。じゃあ私先に行くね」
「え、あ、うん」
椎が言い切る前に、優香が弥生の横を通り過ぎて校舎の中に消えていく。
後には、椎と弥生だけが残された。
弥生は無言で椎に歩み寄ると、椎の手から紙パックを奪い去り、それをゴミ箱に向けて放り投げた。中身がぶち撒かれながら、ゴミ箱の前に落ちる。
冷水をかけられたように、一瞬にして全身が硬直した。
「や、弥生?」
椎の問いかけに弥生は何も言わず、財布から硬貨を取り、自販機に突っ込んで新しいカフェオレを取り出す。それを椎の手に握らせてから、ねえ、と低い声をあげた。
「今日、いつも通りに部活来るよね?」
確認するように言いながら、弥生の手が突然椎の腰に触れ、それから撫で回すようにお尻の方へ移動する。
椎は金縛りにあったように動く事ができなかった。
「ねえ?」
吐息が首元にかかるほどの距離で、弥生が質問を繰り返す。
その間、弥生の手が椎のお尻を鷲掴みにした。それから揉みしだくように激しく手が動き出す。
「……うん……行くよ」
何とか声を絞り出すと、弥生は手を止めて満足そうに笑った。
「椎のそういう仕草、本当に可愛い」
それから、弥生はストローを取り出して紙パックに差し込んだ。そして、ゆっくりと口に含み、それを椎に向ける。
「ほら、飲んで」
奇妙な圧力を覚え、椎は言われるがままに弥生が口を付けたばかりのストローで一口飲んだ。何の味も感じられなかった。
「放課後が楽しみ」
弥生は妖艶な笑みを残し、残ったジュースを飲みながら椎に背を向けて校舎の中に消えていった。椎は、チャイムが鳴るまでその場から動く事ができなかった。
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