そこにないブループリント

瀧本一哉

そこにないブループリント

 思い出補正、なんて言葉がある。小さなころや、昔のことを思い出すとき、そこで経験したものが実際よりも良かったように思いこんでしまうこと。人は毎日たくさんの事象に出会い、そして同じくらいたくさん、別れて、つまりは忘れていく。そんなすり減っていく記憶の中で、人間というのはなるべく美しいものだけを残したいと本能的に思うのだろう。要するに、補正されている、というよりかは自分の理想以外のものを忘れている、ということなのだ。

 その日訪れた場所はやけに白いものが多くて、装飾も色鮮やかなはずなのに、その白のせいでモノクロの世界に見えた。いやあるいは、それがずっと踏み出せなかった人の結婚式だったからかもしれない。そのくらいには僕はなんだかぼうっとした心持ちだった。

 そもそも「結婚式」というものに来たのはいつぶりだっただろうか。数少ない経験の中で一番新しく感じるのは、中学生のころだから、もう、10年以上は経っていることになるのか。白に近いネクタイを締めるというのも初めてだ。

 丹野希美。それが新婦の名前。いや、西川希美、というのが正しいのだが、僕にとっては「丹野」という呼び方がしっくりくる。これからは何て読んだらいいのだろうか。そもそも呼ぶことはあるのだろうか。そういえば昔好きだった漫画で、結婚して名字が変わり、呼ばれ方が下の名前に変わったキャラクターがいたっけな。

 そんな僕以外にとってはどうでもいいこと(他にも同様な小さな悩みを持った人もいたかもしれないのだが、小さな悩みにすぎないだろう。僕にとっては大きな悩みかもしれない。)を考えながら、モノクロの結婚式を、さびれた映画館で無声映画でも見るように眺めていた。ひときわヒロインは美しく見えた。同時に昔のヒロインの姿が思い浮かんだけれど、何一つ変わった様子はないように感じた。踏み込んでないがゆえに、彼女の理想的な部分しか見えていないからかもしれないけれど。

 

 「ねぇ、橘さん・・・酔ってます?」

 はっと目が覚めた。ぼーっと据えあっていたのは映画館のシートではなく、バーのカウンターだった。披露宴の二次会の会場がホテル内のバーで移動もないからと流れのまま参加したんだっけ。

 「いや、ぼーっとしてただけ。」

 本当は少し酔っている自覚はあったけれども、見え透いた嘘をついた。

「それ、大学の時から飲み会の度に言ってるじゃないですか。」

やっぱり、丹野にはお見通しだった。ウェディングドレスを着て、自分から遠い場所でほほ笑んでいた彼女は、仲が良かったころにもよく来ていた白いワンピースに身を包み、僕の隣の椅子に座っていた。僕は一人で来ていたから、新郎の彼に妬まれたりしないだろうかと思い、周りを見回してみたが、大きめな店内の(僕とちょうど対角線になる)角のあたりで友人たちとウイスキーの瓶を囲んで笑いあっていた。

「直之さんなら大丈夫ですよ。きっとあのまま寝ちゃいます。」

 また見通されてしまった僕は、観念したように笑って彼女のほうに向きかえった。

 「余計な心配だったかな。ともかく、今日はおめでとう。それと、呼んでくれてありがとう。」

 随分と社交辞令的でよそよそしかったけれど、さっきの披露宴ではほとんど話をしなかったから、そうなるのも仕方がない。

 「なんだか橘さんらしくないですね。でもまぁ、私の知っている橘さんとは4歳も違うわけですけど。」

 彼女は小さく吹き出すように口を押えて、そんなことを言った。彼女と会わなくなったのは僕が大学を卒業した時で、ずっと連絡は取り合っていたが、一年後に彼女も卒業して、2か月くらいしてから連絡の頻度は減っていった。もちろん、西川直之との交際が始まったのがそのころ、というわけだ。

 「そうか、4年か。」

 「4年、です。大学入ってから卒業できるくらいの期間。」

 「うわぁ、そう聞くとなんだかリアルだなぁ。嫌だなぁ。」

 「リアルも何も、現実ですよ。ふふっ。」

 「なんだよ。」

 「いや、前言撤回します。橘さん、変わってない。」

 「褒められてるんだか、貶されてるんだか、わからないな。」

 彼女が言ったように、大学生の時と同じ、僕らだけの時間が流れていた。丹野とはバイト先が一緒で、よく僕の家に上げてお酒を飲みながらバイトの愚痴やどうでもいい話や、たまにまじめな話もして、朝まで一緒に過ごした。僕は自分のベットで寝て、彼女は客用の布団で寝ていた。何回か、同じ布団で寝たこともあったけど、それだけのことでしかなかった。お互いに、いや丹野がどうだったのかはわからないけれど、僕は彼女のことが好きで、だから、踏み込むことはしなかった。出来なかった。特別じゃなくても、少しでも仲良くしていられるだけでよかったのだった。

 そんなことを思い出しながら、僕は少し薄くなったモスコミュールを流し込んで、バーテンダーに「オペレーターできます?」と告げ、カウンターの向こうの彼は「ご用意します。」と言って、空になったグラスを下げた。モスコミュールとオペレーター、正直このくらいしか名前と味が一致しない僕にとってはありがたかった。

 「相変わらず、ジンジャーエールが好きなんですね。」

丹野はつぶやくように言って、

「橘さんの部屋、いつもこたつの上にカナダドライが乗ってましたね。懐かしいなぁ。」

「ビール苦手だったからね。今もだけど。」

「それも変わってないんですね。ほんとに変わってない。」

僕は笑いながら、思い出話で胸が暖かくなっているのを感じた。

「お待たせ致しました。」

会話の切れ目に合わせるように、黒いベストに蝶ネクタイが似合う初老の男性が僕の前に酒をサーブした。僕はそれを一口飲む。

少しの間があって

「ねぇ橘さん、」

最初に僕に話しかけたのと同じ言葉で、でも少し小さな声で彼女は切り出し、手を口に添え僕の耳元でささやいたのだった。

「わたし、橘さんのこと好きだったんですよ。あの頃。」

突然の告白に頭のもやは晴れてしまって、彼女のことを見る。自分でも目を見開いているのがわかる。彼女は口に人差し指を当てて、

「結局言えませんでしたけどね。橘さんすぐ東京行っちゃったし・・・。秘密ですよ?」

「秘密も何も、丹野はあんないい人に出会って幸せになれたんだからいいじゃないか。言わなくてよかったよ。」

僕は冷静を装って、またグラスに口をつけた。西川直之は地元の県庁に勤め、快活で顔もいい。明るく、笑顔がかわいい丹野とお似合いだな、と招待状を見たときに思ったのだった。

「えぇ、もうちょっと動揺してくださいよぉ。」

「しないしない。幸せになるんだよ。ね、「のぞみさん」。」

してると、なんて思いながら揶揄うような言葉を紡いだ。それくらいしかできなかった。

「独身の橘さんに言われたくありませんよ。「隼さん」って呼んでくれる人、探してください。」

「余計なお世話。」

そんな風に、また大学生みたいに笑いあって、そこからはぼんやりとしか覚えていない。


なんとか、最寄りの駅で地下鉄を降りて、帰り道にある公衆トイレに駆け込んだ。胃の中から全部が逆流してきて、何回もトイレの水を流した。枯れた声しか出なくなって、口を紙で拭いて、もう一度水を流した。白だけの便器の中に水滴が垂れた。

「何してんだろ俺。」

嘲るようにつぶやいて立ち上がり、目のあたりを袖で拭いた。ポケットからスマホを取り出すと丹野からメッセージが来ていた。

「今日はありがとうございました。橘さんに言われなくても、幸せになりますから!」

黒い猫のスタンプが胸を張っていた。

「こちらこそありがとう!お幸せに!」

そう送って、丹野のプロフィールを開く。右上にある緑色の小さな星を、空白に戻した。「お気に入り」の欄から「たんの のぞみ」がいなくなって、スマホをポケットに押し込んだ。

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