第一話 広がる世界(2)

 学長室の扉を前に、ソラはドキドキしていた。

 何年ぶりだろうか。幼い頃に別れたが故に、楓やアビーほどに多くの記憶はない。だけど、愛されていたことだけは、はっきりと覚えている。

 その気持ちを胸に、ソラは扉をノックした。

「どうぞ」

 短い、だけど懐かしい声が、扉越しにも凜とソラの耳に届く。

 ソラは扉を開け、顔を覗かせた。

「……ソラ」

 鳶色の重厚な執務机の向こうに座る女性。

 別れたころから少しも――それどころかまったく変わっていない三人目の母親の姿がそこにあった。

 亜麻色に艶めく長い髪。

 鋭くも優しい目。

「ミュール」

 名前を呼ぶと、イリダータ・アカデミーの学長であるミュール・ミラーが立ち上がり、ソラの前まで駆け寄ると、膝を付いた。

 ミュールは女性の平均より背が高く、ソラが平均よりも低いのも相まって、膝立ちしてようやく同じ高さになる。

「私のこと……覚えてる?」

 ミュールの表情が不安げに、そして瞳が揺れる。

 そんなミュールを安心させてあげたくて、ソラは彼女の胸に飛びこんだ。

「昔、よくこうやって抱きしめてくれたこと、今でも覚えてるよ」

「ソラ……」

「ミュールに抱きしめられるたびに、すごく安心できたんだ」

「覚えててくれたのね。嬉しい。さあ、もう一度、よく顔を見せて」

 体を離すと、ミュールの両手が頬に添えられる。細く白い指。

 楓の手は皮が硬く強いという感じだが、ミュールの指は柔らかかった。

「小さい頃から変わらないわね。可愛いわ」

「も、もう……」

「それに――」

 ふっ、とミュールの表情が陰る。

 だが、それも一瞬で、

「なんでもないわ」

 と誤魔化すように微笑み、立ち上がる。

「それはそうと、楓は相変わらず元気なの?」

「うん。毎日一緒に稽古してたから」

「本当に相変わらずね」

 手で口を隠し、くすっと笑う。

 それからもう一人のこと思い出し、ミュールの表情が沈み込む。

「アビーのことは残念だったわね」

「……うん」

「私は何もしてあげられなかった」

「そんなこと……」

 ない、と言い切ることができず、ソラは口をつぐんだ。

「アビーは……苦しんだ?」

「眠るようにして逝ったよ。すごく、安らかな顔で……僕が看取って……」

「そう。最期まで傍にいてくれて、ありがとう。それを聞いて少し楽になったわ」

 そう言って、互いにほのかな笑みを浮かべる。

 アビーは、ミュールとはまた違ったやさしさを持っている女性だった。

 静かというか、常に心を穏やかに、決して声を上げることもなく、いつもソラを諭してくれた。

 賑やかで騒がしい、悪いことをすれば叱る楓とは正反対の存在だった。

「アビーと楓には、だいぶ任せっぱなしにしてしまったわね。でも今日からは、私があなたの母親として見守らせてもらうわ」

「今日からお世話になります」

「ふふ、そんなに硬くならなくていいのよ。家族でしょ?」

 頭を下げていたソラは、ミュールに顔を上げさせられ、

「だから――ただいま、よ」

 そう言って微笑むミュールに、ソラは破顔し、

「ただいま」

 と屈託のない笑みを浮かべた。

 

           ※


 ミュールの話によると、入学式は明日らしい。

 家を出てからイリダータ・アカデミーに到着するまでの正確な日数が分からなかったので、ぎりぎりで間に合ったことになる。

 そのため、その日はそのままミュールと共に帰り、彼女に家に泊まることになった。

 イリダータ・アカデミーの敷地内には、教員や事務・用務員専用の宿舎がある。

 アルコイリスから通う者もいるが、ほとんどがこの宿舎で生活している。

 だが、ミュールはアルコイリスに家を持っており、毎日イリダータとアルコイリスを行き来しているのだ。

 本当は寮に行って荷物の整理や同室となる生徒と挨拶などをしなければならないのだろうが、荷物は袋に入っているだけで、挨拶も後日行えばいいと半ば無理やりミュールに押し切られる形で一日だけミュールの家にお世話になることになった。

 ミュールは学長で多忙な生活を送っており、これを逃すといつ一緒にいられるか分からないらしい。

 それにソラも、今日くらいは一緒にいたい気持ちは一緒だった。

 それを口にすると、ミュールは「こらっ」と怒りながらも、頬を緩めていた。

 アルコイリスに着くと、夕食の買い物ついでに町を簡単に案内してくれた。

 主に利用する店や施設。

 夕暮れ時だけではとてもではないが回りきれず、他はまた時間をつくって案内してくれると約束した。

 ミュールの住まいは一軒家だった。

 家に上がり、早速二人で料理をつくった。

 今まで暮らしていた環境は、近くに町はおろか村すらなく、楓とアビーの三人で暮らす世界がすべてだった。

 何度か楓と最寄りの村まで行ったことがあったが、その時の人の多さ――そもそも自分たち以外にも人がいるという事実に驚いた。

 アビーは体が弱かったため留守番をしており、帰ったときには見て聞いて感じたことを眠たくなるまで話した。

 自然の中で育ったソラは、楓から教わった風のエレメントで狩りを行い、それを自分で捌いて食事をつくっていた。

 それをミュールに自慢げに話すと、彼女は何故か頭を抱えて首を振っていた。

 ミュールと一緒につくる料理は、これまでソラが食べてきたものと全然違っていた。

 捌いた肉をそのまま焼いて味付けするのと違い、ミュールのつくる料理は量も少なく、色々と野菜で飾り付けたり、凝った味付けをしたソースをかけたりして、手間がかかっていた。

「これが、ここでの一般的な料理だから」とミュールに念を押された。

 どうやらミュール曰く、楓に教わった料理はあまりにも原始的な食べ方だったらしい。

 食卓を挟んで料理を食べながら、お互いの思い出話に花を咲かせた。

 ソラは、楓とアビーとの日常。そして、二人から学んだエレメントについて。

 ミュールは、イリダータ・アカデミーの運営に誘われてから学長になるまで。

 そして、そこでの仕事の内容――愚痴と言ってもいい。

 それから別々に風呂に入った。

 ソラは当然のようにミュールと一緒に入ろうとしたが、慌てて止められた。

 アビーが生きていたときには彼女の世話をしていたし、楓に至っては彼女の方から引きずり込まれる勢いで浴槽を一緒にした。

 ということを話すと、ミュールはまた頭を抱え、「やっぱり楓に任せるんじゃなかった」と呟きながら、ひとり浴室へと消えた。

 ミュールの後に風呂をいただき、あとは寝るだけと思ったところで、ソラはふと思った。

 これまで寝るときも、楓やアビーと一緒だった。

 住んでいた家が狭いというのもあったが、それ以上にひとりで寝るのがすごく寂しかった。

 だけど、風呂を一緒にしようとしたときのミュールの慌てっぷりと呆れ方から、眠るのは別々にした方がいいのかと思い、ミュールに自分が寝るための場所を聞くと、

「一緒に寝ましょう」

 と誘われ、ソラはよく分からない心境に至った。

 ミュールの寝間着姿は、シルクの淡い水色をしたワンピースで、すごく綺麗だった。

 アビーのような病的な痩躯でもなければ、日々肉体を鍛えていた楓ともまた違った肉感。

 ベッドでお互いに向き合う形で横になり、これからのことを訥々と話す。

 最後にはミュールに抱き寄せられ、彼女の胸の中で眠った。

 楓やアビーと同じようで、だけど違う。

 二人とは違う感触、そして匂い。

 ミュールから感じる香りに安らぎを感じながら、ソラはいつの間にか眠ってしまっていた。

 その頭を愛しむように、何度もミュールに撫でられながら。


            ※


 目が覚めると、ミュールはすでに学長としての服装に着替え、朝食もつくり終えていた。

 ミュールの朝は早く、ソラにイリダータに来る時間を伝えると、次からは寮生活になるため、しばらく会えなくなると改めて言われた。

 だけど、それは嫌だった。

 ミュールは、ソラにとって母親だ。

 せっかく会えたのに、同じ土地にいながら一緒に暮らせないなんて、それはとても寂しいことだと思った。

 それを伝えると、週末の休息日にミュールの家で一泊することに決まった。

 無理を言っているようにも思ったが、ミュールがどこか嬉しそうな顔をしていたので、やっぱり言ってよかったと思った。

 ミュールが出かける間際、

「アビーはともかく、楓に任せるのは心配だったけど、あなたがとても純粋に育ってくれて嬉しいわ」

 そう言い残して家を後にした。

 今日から夢にまで見たイリダータ・アカデミーでの生活。

 ミュールが用意してくれていたイリダータの制服は、身長が低めのソラにちゃんと合っていた。

 黒を基調とした制服で、ネクタイの類いは用意されていなかった。

 荷物を肩に担ぎ、家を出る。

 イリダータがある方へ顔を向けると、思い出したのは、あの赤毛の女性だった。

 ストレートのロングヘアーが風に揺れていた様は、今でも鮮明に記憶に残っていた。

 また会えたらいいな、と思いながら、ソラは心なしか駆け足でイリダータへと向かった。

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