不条理の修復者
「……!?」
世界が、変わった。
「あれ、確か……俺、は」
意識が朦朧としている。記憶がはっきりとしない。
いつも通り残業で遅くなり、九時半過ぎに電車に乗ったのは覚えている。そこから一時間と少しかけて、自分が住んでいるマンションの最寄駅に着いた。そしてまた雨か、と若干憂鬱になりながら、コンビニでいつも通りの弁当とエナジードリンクを購入し、帰路についた。
夏の熱さのせいもあろう。空調を効かせ、ガンガンに冷えた社内と外のむわっとした空気のギャップは半端ではない。それにいつもコンビニ弁当という偏った食生活をし、足りないエネルギーを何とか栄養剤を飲んでごまかすという、若いからこそできるかなり捨て身な生活習慣をしていた。
だから、まぁ、頭痛や目まいの一つや二つなら頷ける。
だがこれはどうしたものか。まるっきり世界が異なるではないか、と覚醒した一会社員、越智は目を見開く。
世界の色彩は薄れ、通常ならどこからともなく聞こえる話声や車の騒音などの人工的な音はおろか、風や先ほどまで降っていたであろう雨の音も今はぴたりと止んでいる。
そんな凪の世界で、唯一変わらないモノがあるとすれば建物。建築物や、木などの自然…いわゆる風景の類は、色が欠けている事を除き、先程までとそう相違はなかった。
「ど、どうなって……ッ!?」
ふと、自分の身体の違和感に気づく。
……服が、ない。というか裸だ。
いや、いやまて。正確には違った。ほぼほぼ裸のようなものではあるが、乳首や性器など、デティールに凝ったものではない。人の形の原型を保ってはいるが、よくよく見てみると肌に相当する部分は真っ白になっており、特に手先や首筋なんかは輪郭が安定しないのかもやもやとしている。
いわば幽霊のような不安定な存在になってしまった事に顔が歪む。
「う、う……ッ、……!!??」
本来、直後に喉から出る悲鳴は、ある事に気づいたため引っ込んでしまった。
背後の気配。
一瞬で身体が凍る。
自分の目だけが、無意識に、ゆっくりと見開かれていく。
背中の産毛(この身体にあるかは定かではないが)が全力で危険信号を発している。
このままでは、まずい。
かといって、振り返ってはいけない気がする。
「………ッ、」
ごくり、と息を飲む。
確実に、何かがいる。
意識した途端に、余計に身体が動かなくなってしまった。計り知れない恐怖が四肢を震わせ、顔と唇の色を蒼白にさせる。
ほのかに漂う、吐息と思しき暖かい空気。視界の端に見える、歪な影。何より、ひしひしと伝わってくる謎の重圧。
プレス機に徐々に押しつぶされているような感覚に、思わず今まで出なかった声が漏れる。
「……………ぁ、」
それが合図となった。
『ギィイイイイイイイイイイイイッッ!!!!』
耳をつんざくような声に思わず反射的に振り返る。振り返って、しまった。
怪物だった。
頭は魚…ピラニアの様な肉食魚。だが目の前のモノは水族館でみた記憶の何倍も醜悪で凶暴だ。
左右二対の目は飛び出、顔の半分以上を占め並んでいる鋭い歯という凶器。こまめに頭を振っているせいなのか、そこから染み出る唾液が頭や顔の側面から生える長いひれに飛び散る。
そして次に見えたのは長い手足。人間のそれではなく、一言で表すなら、カエルのモノ。
跳躍のあとだろうか。気づけばそれらが上下に伸び、今にも襲い掛からんとこちらに向かってきていた。
一瞬が何秒にも感じる、この瞬間。
嬉々として自分を捉え、捕食しようとしている怪物の顔がくっきりと瞳に焼き付く。
「――――――――あ」
最後に出てきたのは、言葉とも取れない嗚咽だった。
後悔と未練と懺悔を凝縮した、一文字。
……結局、自分は何も今までできなかった。してこれなかった。
こんな死の瀬戸際で思い出されるのは、どうでもいい嫌な記憶ばかり。
まず最初に浮かんだのは親の顔。今思えば、よくしてくれていた方だと思う。
たいして裕福な訳でもないのに自分を私立の高校、大学に行かせてくれた。中学の時は反抗もたくさんした。……部屋に一週間ほど、引きこもった時期もあったかな。
社会人になって自立してから、ようやく親のありがたみが痛い程分かった。
帰る場所があるという事、自分のプライベートな空間があるという事、生活が保障されているという事、
……帰ったら、暖かなご飯と笑顔が待っていてくれた事。こんな何もない自分に、『おかえり』と優しく声をかけてくれた事。
それを筆頭に、次々と友人や同僚の顔、挙句の果てにはあんなにも毛嫌いしてた上司の顔まで浮かんでくる。
嗚呼、運命は、こんなにも残酷だ。不条理だ。
――こんな、何もできない自分を無用だ、不必要だと嘲笑うかの如く、こんな怪物に始末されるのが自分の最後だというのか。
怪物の、手に捕まる。
容赦ない握力が、自分の身体をきしませる。
――まだ、何もできてないじゃないか。何も成せていないじゃないか。
ギギギギギィ、と気持ちの悪い笑みを浮かべる怪物。
魚が顔、カエルが身体のそれは、グパッ、と巨大な口を開け、今自分を捕食しようとする。
――まだ、仕事が終わってない。まだ、あのクソ生意気な上司にひと泡吹かせてない。
――まだ、なんだかんだ言って可愛い後輩と釣りにも行けてない。まだ、顔知らぬ未来の嫁とも会ってない。
――――まだ、親にきちんと『ありがとう』って、言えてない!
『ギィイイイイイイ!!』
長い、粘液に塗れた触手が近づいてくる。それでも、確かに、まだ自分の目に光はあった。
――こんな、ところで。
――こんなところで!
「終わりたくないッッ!!」
死にたくない、死にたくない!!
嫌だ、まだ生きたい!まだたくさん、色んな事がしたい!!
こんな一方的に殺されるなんて嫌だ!理不尽だ!!
こんな不条理、こんな、不条理で―――ッ!!!
「――その不条理、断ち切ったぁあアアア!!!」
突如、視界が赤色に包まれる。
飛び散る飛沫。弾ける手と舌。それより響くは苦悶の咆哮。
鮮明に彼の瞳に映ったのは、炎を纏った一閃だった。
優しいようで激しいその紅蓮は、確かに、自分を縛っていたあらゆる苦から解放してくれた。
そして、目の前には一人の少年。
朱色の視線が、こちらに向けられる。
「――怪我は、ありませんか」
そう言い、手を伸ばしてくる少年。よく見れば、先程すれ違った高校生の男子生徒と酷似している。
だが、髪は黒から橙に近い明るい赤色に染まっており、新設された学校の制服だったものは全く別の赤を基調とした、少し歪なパーカーのようなラフなものに変わっている。
「あ、あぁ……」
数秒経って、ようやく返せた言葉を口にした途端に、力が抜けた。ぺたりと地面に座り込み、あまりの衝撃に腰が抜けてしまう。
だが、そんな悠長にしている場合ではなかった。ひっ、とまた顔が歪んでしまう。
原因は、勿論彼の背後。つい今しがた、舌と手をこの少年の一太刀で切断された筈の怪物がまだゆらゆらと蠢いている。
「…ッ、美紋!!」
「わかってるって、のッ!!」
瞬間、大量の水が視野に飛び込んできた。洪水のように勢いのあるそれは、人面魚の怪物を紙くずのように吹き飛ばしてしまう。
「…ちょっと、危なかったんじゃない?気を抜かないでってあんなに毎回言ってるのに!」
「いやいや、大丈夫だよあれくらいなら…それに、そのために美紋がいるんだろ?」
「…ッ、それは、そう……だけど」
少年の自然な笑みに頬を染めながら目を逸らす少女。美紋と呼ばれたこの少女も、先程見た二人組の女子生徒だろう。
ただ、髪は少年同様流れるような黒髪から淡い水色に変化しており、ポニーテールの先端は前にはなかったウェーブがかかっている。
当然服も異なっていた。肩周りを出す仕様の青色の上着に白いスカート。慎ましい胸は同じく白を基調としたトップスで飾られており、腕には紐で縛られたようなアームカバーが目立っている。
彼女は自分に気づき次第、微笑と共に軽い会釈をした後、きびきびと行動に移る。
「燎平はあの『
「了解了解、っと。じゃあ…やるとしますか」
「ええ……これより、チーム『カスイ』、本格的な戦闘に移ります」
少女がスマホに何か録音のようなものをし終えた時には、燎平と呼ばれた少年は地を蹴っていた。
「オオッ!」
気合いと共に、先程の怪物に切りかかる少年。紅を纏ったそれが空を切ると、その軌跡がボッ!!と瞬時に発火する。
『
「ッ、この、待ちやがれ……!って、オイ、もしかしてコイツさっきのお前の水で元気になってんじゃないだろうな!?」
「えっ!?そんな……いやいや、いくら魚介系でも、いくらなんでも、それは~……」
明後日の方向を向きつつ、額に汗を滲ませる彼女。炎を操る剣士の彼が時間を稼いでいる間、自分と少女は歩道橋から少し離れたところに避難していた。
数秒経ち、ふぅと一息つく美紋。口端を歪ませながら、渋々といった風にスマホを用いて彼に再度連絡する。
「……今調べたんだけど、そいつ個体名『ピガル』って言うんだって。ランクは
「…………あの、美紋さん」
「…何でしょう燎平さん」
「もしかして、知ってた?」
………、と口を閉ざす彼女。残念ながらこちらからは表情が見えるので言ってしまうと、完全に悟りのそれだった。
「沈黙は図星と見受けます!」
「……てへっ☆」
「おのれぇえええええええ!!!」
こつんと額に手を当てる美紋。だがその可愛さも彼の悲鳴で台無しだった。
「オイオイオイ!俺死ぬわコレ!!」
「が、頑張って!ううん私頑張って応援する!」
「応援は嬉しいけどなら早く応援(物理)してくれませんかねぇ!」
畜生、楽してボーナスゲットしようって算段だなぁああとスマホから少年の嘆きが聞こえっぱなしだった。それが煩わしかったのか、ピッと無表情でボタンを押す彼女。
「はぁ…まったくもう。男の子ならあのくらい一人でなんとかしてほしいんだけど…まぁ、仕方ないか。燎平だしね」
水色のポニテを揺らしながら少女はフフッ、と笑みをこぼす。それは先程までの楽しんでいる笑みというより、慈しむような、年下に対する温かみに近いものがあった。
○○○
「お待たせ~って、うわぁ……」
数秒とかからず現地へ到着する美紋。そこは燎平が空振ってつけた焼き後が大量にあった。
「下手くそかよ……」
「しょうがないでしょ!ってか誰のせいよ誰の!!」
未だに追いかけっこをしている燎平はかなり息が荒い。彼に欠けるのはその時と場合によった応用力なので、一人で対処し、その素養をつけるにはいい練習になると思った美紋だが、それもここまでのようだった。
「はいはい。じゃあ助けてあげるからかっこいいトコ、見せてね」
「はぁ、ぜぇ……お、おう……」
(あ、もう既に無理っぽいわコレ)
はぁ、と美紋は今日何度目かも知れぬ溜息と共に肩を落とす。そして、それを区切りに目の色を変えた。
「じゃあいくよ!『
美紋がバッと前に手を伸ばす。するとどこからか大量の水が出現し、形を変えながら燎平の元へ急ぐ。
「さんきゅ、っと!」
燎平がジャンプすると、丁度そのタイミングに合わせて水のスクーターが彼と地面の間に滑り込んだ。
「この速さなら……ッ」
目を見据える。これで敵の察知と追走は美紋の役割となった。明快になった自分の責務を背に負いつつ、愛刀を構える。
「…そこッ!!」
燎平が腕を払うと、その延長戦上に小さな炎の壁が出来る。突然現れたファイヤーウォールに、今まで逃げていた『
「ここだッ、『
轟ッ!!と大量の熱と共に一薙ぎの焔が線を成す。舞い散り、踊る紅の火花と共に送る火葬は、ピガルと呼ばれた『
キン、と燎平が刀身を鞘に収める頃には、灰色の世界となっていた歩道橋一体の地域も元に戻っていた。彼が所々建物や木につけた傷も、何事もなかったかのように消えている。
「…ふぅ。お疲れさま」
世界の修正と共に、美紋も元の学生姿に戻る。同じく朱色から黒に髪の色が戻った燎平は、当然の如く口をへの字にしていた。
「……美紋、お前なぁ…」
「ん?何の事かしらね?あ、そうそうかっこよかったわよ~最後。見直しちゃったなぁ私」
「…その棒読みで本気で俺の機嫌が直ると思ってるんならチーム『カスイ』はしばらく非番になるぞ。主に俺のボイコットで」
「あら、別に私はそれでも構わないけれど?それで損するのはどっちなんだろな~」
……ぐぬぬ、と下唇を噛む燎平。どうやら、舌上での勝負は彼の負けっぱなしらしい。
悔しがる彼を見て、再び顔が綻ぶ彼女。そんな微笑ましいやりとりが、晴れ上がった夜の歩道橋の上で続いていた。
○○○
…改めて、目を見開いた。
完全に、アクション映画のワンシーンでも見ているような心地だった。
驚くとか、あり得ないとかと思考するよりもまず見入ってしまっていた。彼らが宙に描く魔法のような軌跡の、その美しさたるや。
「……すごい」
思わずそんな言葉が口から零れる。今、彼の心は何故か満たされていた。このような気持ちを迎えたのはいつ振りか……そう、飛び切り感動する映画を見終わった時の様な充実感。たかが数分の出来事だったとはいえ、彼の人生の中で最大限の刺激になった事は間違いない。
「……あ」
気づけば、幽霊のような身体も元の姿に戻っていた。元々持っていた傘も鞄も周囲にはなかったが、気持ちはこの夜空と同じく、晴れやかになっていた。今まで何かすごい事を悩んでいた気がするが、そんな事はもうどうでも良くなった。肩の荷がスッと降りたように、身体も心も軽い。
「あの……すいませーん」
おずおずと、先程助けてくれた少年少女が顔を見せる。先程の勢いは何処へ行ったのか、こうして改めて見ると本当にただの学生にしか見えない。
「本当に、お怪我などはありませんか?…他に、気分が悪い等々…」
「あ、あぁ……大丈夫だとは思うが…」
良かったぁ、と胸を撫で下ろす二人。未だに信じられないが、それでも確かめないわけにはいかない。
「あの、君たちは……」
「あぁ!えっと、俺たちはただの高校生なんでぶへぇ!?」
「あー!すいません隣の馬鹿が!ほんっとどうしようもないですよね!…少々待って下さいね」
少女は隣の少年の腹に一発キツいのをキメたかと思うと、襟首を掴んで少し離れたところに彼を連れていく。
「……ちょっと、この時はアンタは黙ってなさいって言ったでしょ!」
「いやせめて最後まで言わせてよ!ってか一回言ってみたいんだよこういうの!分かれよ!男心をさぁ!」
「女の私にそんな回答を求めるな!まるっきり分からんわ!兎に角、ややこしくなるから黙ってなさい!」
男に対しては女は女心が分かってないなぁとかよく言うのに……とまたもや不条理に晒される燎平であった。
数秒経過し、再び仲良く戻ってくる二人。何となく話している事が少年の顔から察してしまい、お気の毒にと心の中で合唱する。
「あー、すいませんお待たせしてしまって。えっと、私たちは……」
「あ、ごめん。ちょっと待ってほしいんだ。その前に一つ言わせてくれ」
そう断り、彼女の言葉を遮る。少し申し訳なく思うが、これだけは譲れなかった。
今まで捻くれた価値基準で物事を判断してきた。本当に自分に必要なものは何か?それ以外は切り捨てればいいと心のどこかで思っていた自分。今でも、それは間違ってはいないとは思うが、やはりその心理で思考することがより良い選択なのかと言われれば、はっきりとイエスと言えない。
だから、これからは、利益不利益を基準にするのではなく、その選択が後々後悔するかしないかで、決めていこうかと思う。
きっと、今これを言わなかったらこの先ずっと後悔してしまうだろうから。
時間の無駄?無用な気遣い?プライドが崩れる?……もう、そんな自分の中の古い固定観念までには、縛られたくない。
ほんのちょっと、素直になればいいだけの事。
「……その、なん、だ。あ……あり、がとう。……、ありがとう。本当に」
「……!」
パアッと、無邪気な笑顔が目の前に咲く。
ああ、……ああ。久しく、忘れていた。この心のうちが温かくなるような感覚。
拙くてもいい。かっこ悪くてもいい。こんなにも、簡単な事だった。たった一言、これを言うだけで世界がこんなに変わるとは。
あの色がない世界は、正しく『過去の自分の心の中』だったのかもしれない。
だがもう、これからは違う。確かに今から全てを変えるのは難しい。けど、今の一歩は小さく、だが確実に正しい方向へと進んでいた。
「……改めて、聞かせてほしい。私を助けてくれた君たちは、何者なんだい?」
自然と口角が上がる。しばらく忘れていたこの表情と同じ顔をした、少年少女達は言う。
「俺たちは、修復者。不条理の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます