白い聖骸布(遊び人のパンツ)
「そろそろ結末を見越した方がいいと思うんだけど」
「そ、それはちょっと気が早いんじゃないか?」
「そう?そんなことは無いと思うけど」
突然の彼女の言葉に、俺は完全に動揺してしまっていた。
声はあからさまに震え、少し上ずってしまっている。
しかし、ほんの数日の間、時を同じくしただけで、こんなにも彼女に心を寄せてしまっているという事実を認めるのは非常に抵抗がある。
それだとまるで、俺がチョロい男みたいじゃないか。それは、どうも、男としての沽券に関わる。
これまでだって、一時的ではあるが女性とパーティーを組んだことはあった。
確かに、その都度、女性と二人きりという状況に心ときめいたこともあった。
だが、別れに際して、ここまで心を揺り動かされたことがあっただろうか、いやないはずだ。
もしかすると、当時は未だ魔王のもとへとたどり着いていなかったがために、俺に多少の緊張感があったということだろうか。
その緊張感が、彼女たちと親密な関係になりたいという俺のリビドーを抑えていてくれたのかもしれない。
だとすれば、今の俺はなんだ。魔王をとり逃してしまうという大失態を犯しながら、仮初の平和に気を緩めてしまっている軟弱者ではないか。
……ならば、これは、男の沽券云々の問題ではない。冗談で済ませられる話ではない。
それは、俺の勇者としての在り方の問題だからだ。
正直に言おう、彼女といるのは楽しい。
だが、それに甘んじ魔王を倒すという使命が揺らぐくらいなら初めから勇者の仕事など引き受けてはいない。
だから、これは自分への戒めとして、俺たちの旅の結末について確りと考えておくべきなのだ。
「だってさあ、もう見張り始めて三日も経つんだよ。路銀だって限られてるんだし。いつまでもこの教会の屋根裏部屋に間借りしているってわけには行かないでしょ?」
「ん?」
ん?
んんっ?
「あれ? 話が通じてない? いや、確かにちゃんとした宿に比べたら教会に間借りするのは安くついてるわよ。でも、無限の収入減が無い限り路銀は減る一方でしょ」
「いつまでも、ここであのあばら家を見張っているわけにもいかないでしょ?」
あー、あー、あー、そういうことね。
これは恥ずかしい。俺は、重大な勘違いをしていたようだ。つまり、彼女の言う『結末』とは、あくまで見張りをいつまで続けるかという話だったらしい。
だ、だがしかし、俺の気が緩んでいたのは事実だ。
今後は、確り気を張っていかねば。
「いやいや、うん。確かに、遊び人の言う通りだ」
「大丈夫?私の言ったこと、ちゃんと理解できてる?」
「もちろんさ! 何を突然! わかっているさ、それぐらいのこと! 俺は勇者だぞ! あなどるなよ!」
「えぇ……本当に大丈夫?」
彼女の言葉に、手を振ることで答え。(答えられていないかもしれないが。)
俺は、魔王軍の連絡員を押さえようと、見張りを続けている現状について改めて思考を巡らす。
確かに、俺たちはミノタウロスから情報を引き出した後、強行軍でこの村まで飛ばしてきた。
それは、連絡員に密造酒倉庫の強襲を悟られる前に動く必要があったわけなのだが。
しかし、現状、ランナー達と連絡員の接触場所である、あのあばら家に人の出入りは一切ない。
連絡員は危険に敏いのが必須スキルだと聞いたことがある。
それは連絡員が敵性の組織に捕まってしまった場合、連絡員が取り扱っていた情報はもちろんのこと、その連絡網自体から組織の体系が漏れてしまう可能性があるからだ。
もし、魔王軍がそういった危険性を知っていたとするならば、当然、連絡員である魔物は特に危険を感知する力に長けている魔族が担当するであろう。
いや、そうに違いない。そうでなければ、この半年の間、俺が一切の情報をつかむことができなかったことは、俺が単なる無能だと世に知らしめることになってしまう。
残念なことに、もしくは喜ばしいことに、勇者たる俺が無能であることなどありえない。だからこそ、俺たちが押さえようとしていた連絡員は、もう逃げたと考えるべきだ。連絡員が自身で危険を察知できなかったとしても、俺たちが襲撃したミノタウロス達に他の緊急用の連絡手段があった可能性もある。
こんなことなら奴らを殺しておくべきだったと、後悔と苛立ちの念がむくむくっと起き上がる。
例え、遊び人が不殺主義の甘ちゃんだったとしても、俺は俺の勇者としての役目を確り果たすべきだった。
だいたい、彼女に指摘されるまで、この程度の考えに今の今まで至らなかった事にも心底腹が立つ。
落ち着こう。今は冷静に、判断を下すべきだ。
……仮に、連絡員に逃げられていたとしたら、時間の経過は痕跡の風化を招く可能性もある。
何処かのタイミングで見切りをつけて、乗り込むべきだ。
「……日の出まで動きが無ければ、乗り込もう」
もし、今日まであのあばら家に人の出入りが無かったのが、連絡員がずっと中に潜んでいるからだとしたら、この強襲はきっとうまくいくだろう。
長時間、あの小さい小屋に身をひそめるというは、肉体的にも精神的にも相当きついはずだ。どんなに強い魔物だろうと、体調が悪ければ力を発揮できない。
それに明け方というのは、生物が最も油断する時間だ。魔物とて、例外ではあるまい。
そうだな、裏の窓を遊び人に押さえさせ、俺が扉から……
俺は、拙いながら少しでも強襲の成功率を上げようと、ふと、あばら家へと視線を向けた。
「……あ」
「どうしたの?」
「あばら家に灯りが灯っている」
俺たちは、あばら家へと駆け付ける。
扉から、小屋の中の気配を探ってみる。絹のこすれる音、床がきしむ音、息遣い、何者かが潜んでいれば必ず発生するであろう事象を全神経を研ぎ澄ませ耳をたてる。
だが、俺の全感覚が小屋の中には誰もいないことを告げていた。もう既に、逃げたのだろうか?
あばら家には扉の向かいに小さな小窓があった。
そこは既に遊び人が回り込んでおり、仮に何者かが潜んでいたとしても、取り逃がすことはないだろう。
俺は、扉を蹴飛ばし中に押し入った。
机の上に置かれた、蝋燭の火がまるで驚いた童のように体を揺らした。
――中には誰も居なかった。
警戒を怠らないで、部屋の中を探る。あるのは質素なベッドと、机のみ。机の上には、羽ペンと1冊の本。
「ちょっと拝見させてもらうよ」
不在の小屋の中で、誰に許可をとるでもなく俺はページを開く。
突然、光が俺を襲った。光は、開いた本のページから放たれている。
「罠か……っ!?」
手のひらで、光を遮り目を凝らす。光っているのは、ページに記載された多数のルーン文字と共につづられた円形の図面。これは、召喚術の魔法陣だ。
光は、その奔流を止めることなくページからあふれ出ている。
家が、きしきしと音を鳴らしはじめる。その音は、次第に轟音となり地面を揺らし始めた。
俺は、慌てて外に出た。
「遊び人! 離れろっ!」
「え? あ、うん!」
俺が、小屋から出ると同時にそいつは、あばら家の屋根を突き破り巨大な体躯を現した。
高さは小屋の倍ほど、月の光に照らされたそれは土色の肌をもち、巨大な手を月へと掲げ、咆哮をあげる。
「ぐおおおおおおおおおおおおおおおお」
その巨大さ最大を武器とする魔道兵器。
ゴーレムだ。
「うわあ、なにこのゴーレム! こんなにでかいのは初めて見たわ!」
遊び人が、緊張感の声をあげる。
「あの蝋燭の灯り自体が罠だったんだ! 中には誰も居なかった」
「なるほどね……。連絡員が一定期間来なかった場合に蝋燭が灯り、侵入者を誘い込むよう仕組んであったってところかしら」
ゴーレムが巨大な手を、地面に叩きつけると、まだ辛うじて残っていた小屋の柱が全て砕け散った。
俺は、飛んでくる木材の破片を、両腕で防ぎながらゴーレムの足元へと迫る。
腰に下げた剣を一閃。ゴーレムの足へと刃を滑らせる。粘土のような手ごたえ、確かに俺の刃は奴の膝から下を切り離したが、切り離した先から順に繋がり、何事も無かったようにくっついてしまった。
「土のゴーレムだ! 斬撃は効かない!」
「そんなの、見りゃわかるわよ! 氷結魔法フリーズ!」
遊び人の魔法が、ゴーレムの右腕を完全に凍らせる。
ゴーレムは気にする様子もなく、その右腕を遊び人のいる方向へと振るう。
「うわぁ、あぶないなぁ!」
やはり、どこか緊張感の抜けた声だ。
遊び人は、難なく攻撃をかわしゴーレムから距離をとる。
ゴーレムの攻撃は、地面に大きな穴を開けていた。流石に、あれを直に食らったら俺でもまずいな。
「遊び人! ゴーレムの倒し方は知っているか?」
「馬鹿にしないでよ! 真理を死へ!」
そう、斬っても斬れず、粉々に砕いても土さえあれば再生してしまう泥人形ゴーレムは、一見無敵にも見えるが唯一つだけ弱点がある。
それは、額に書かれた「emeth(真理)」の文字から「e」を削り取ることで「meth(死)」へと書き換えてやるというものだ。
ただそれだけのことで、ゴーレムは動きを止め土くれに還る。
なんともまあ、先に弱点から考えられたのではないかというほど出来過ぎた弱点ではあるが。
その実際は、それを安全性の担保とすることでしかゴーレムの運用が困難である、ということなのだろう。
だが、今回の場合は……
「あったよ勇者! やっぱり、額の上に『真理』がある!」
今回の相手は、小屋の倍ほどの高さがある、巨大ゴーレムだ。
どう考えても、剣は『真理』に届かないんだよなあ……。あ、「剣は心理に届かない」って、なんか名言っぽいな。我ながらいいセンスだ。
「私に、任せて!」
遊び人が、相変わらず何処から出したかわからないナイフをゴーレムの額めがけて投擲した。
しかし、それは『真理』に辿り着く前にゴーレムの左腕で弾かれてしまった。
「あちゃー、距離が遠すぎて、ナイフの軌道を読まれちゃってる!」
「不意をつけないか!?」
「後ろから狙えっての!? 馬鹿言わないで!『真理』は額、つまりゴーレムの正面にあるのよ!」
なるほど。確かにその通りだ。背後から、額の上を狙うなどできるはずもない。
だが、やりようはある。
「数秒でいい、奴の足を止めてくれ!」
「氷結魔法フリーズ!」
返事をすることなく、遊び人は行動に移る。
即断即決、やはり彼女は強い。相当な修練、もしくは戦闘の経験を積んでいるのだろう。
そして何より、俺の事をパーティーの仲間として信頼してくれているのだ。
ゴーレムの足が、たちまち凍り付き動きが止まる。
俺は、遊び人の魔法とほぼ同時にゴーレムの背後へと回り込んでいた。
「来い! 遊び人!」
片膝をつき、両手を空へと向けて組む。
俺の意図を察した、遊び人がゴーレムを迂回しその俊足をもって駆けてくる。
彼女の足が止まる気配はない、全速力で向かってくる。
いまだ!
「いっけええええええええええ!」
遊び人の右足を組んだ両手で支え、彼女を天高く放りあげた。
俺の鼻先を、彼女の体がかすめた。
「あーっ! いま、おっぱいに触った!!!」
彼女の声が、夜の町に響き渡った。静まり返っている町で、遮るもののない頭上から叫べば、そりゃあそうなるだろう。しかし、あの女なんて言葉を叫びやがる……!
不可抗力だ。わざとじゃない。触ったんじゃなくて、鼻先が当たっただけだ。
誠実さをもって、幾百の言葉をもって弁明をすべきだということはわかっていた。
だが、俺にはそれができなかった。それができない理由があったのだ。
なぜなら、その時、俺は今見ている光景を一切の欠落なく記憶するために、自身の脳にかつてないほどのオーバーワークを強いていたからだ。声など出せる余裕がなかったのだ。
魔王を倒すという使命を忘れ、俺は今、新たなる使命に目覚めてしまっていた。それはすなわち語り部となること。
今、俺の目に映っている光景を、俺は後世へと語り継がねばならない。世界に溢れる、チェリーたちに勇気を与えなくてはならない。
空高く放り上げられた彼女。
月と並ぶ彼女の肢体は、さながら月夜に舞い降りた天使のような荘厳さをもち、薄い月明りが、彼女の清廉さをより研ぎ澄ましている。短く黄金に輝く髪は、草原を疾走する獅子の鬣のように猛々しく揺れている。
そして何より、あのはためくスカートな中から垣間見える、彼女の滑らかな肌に直接触れている白い布地の聖性さの何たることか。
かつて、聖人の遺体を包んだとされる聖骸布。彼の物ですら、あれほどの聖性は宿していなかったであろう。
俺は、この美しき一枚絵のような光景を独り占めするつもりはない。そのような狭量な男ではない。この喜びを、猛りを、共有するのだ、全ての仲間たちと。
真面目に生きていれば、きっと出会えると。拝めると。相まみえると。あの白き布地と。
聖なるパンツは、軽々とゴーレムを飛び越え、何事かを叫びながらゴーレムの額へとナイフを投げつけた。
背後からの完璧な奇襲、そして近距離からのナイフの投擲に、ゴーレムはナイフを防ぐことができず『死』へと誘われた。
ゴーレムは、体制を崩し仰向けに倒れていくと同時に、形を保つことができなくなったのか、ただの土くれへと戻っていった。
当然のことながら、ゴーレムの背後にいた俺は、土へと戻った巨体を頭から浴びる羽目となってしまった。
我にかえり、破壊されたあばら家と、崩れた土に視線を移す。
何かしらの手掛かりがあったとしても、土に埋もれてしまっていることだろう。それに月明りの下の探索は、困難極まりない。
探すのは日が昇ってからにしよう。今は、とりあえず水を浴びたい。
風呂にゆっくりつかる自身を想像しながら、体についた土を叩き落としていると、見事な着地を見せた遊び人が寄ってきた。
彼女の顔は、とても険しい。眉間にしわが寄っている。もしかして怒ってる?
「おっぱい触ったでしょ」
「鼻先が当たっただけです。決して、故意ではありません」
これは、うそではない。だいたい、戦闘のさ中にそんな器用なマネができるものか。いたとしたら、そいつはとんでもない変態だ。
「それに、パンツも見たでしょ」
「……お、覚えてません」
「うそつき」
うそだ。克明に覚えている。更に言えば、俺は人々にこの光景を伝え歩く愛の伝道師となるであろうことが確定している。
「責任取ってよ」
彼女の声は、どこか震えていた。怒りに震えるという言葉がある。つまるところ彼女の怒りは、それほどのものであるのだ。おっぱいを触られて、パンツを見られたぐらいで? 俺を酒場で逆ナンしたり、ベッドに誘ってくるような女が? ……いや、そういう風に俺をからかっていただけで実のところ、今の遊び人のほうが素なのかもしれない。
目は微かに潤み、頬に紅が指しているのも怒りのあまり故ということであろう。
謝罪の言葉を述べるべきなのだろうか? しかし、故意ではないというのは事実であり、それに対して謝るというのも何だか理不尽な気がする。
しかしながら、彼女が怒りを覚えており、それについて債務を果たすよう主張している現況を見るに、俺が彼女の言うところの責任をとらないというのは悪手であろう。
ならば、二人とも面目が立つ提案をするのはどうだろうか。そう、俺が謝罪の意を明確に示すことなく、かつ彼女が機嫌を取り戻すための提案だ。
「それじゃあ、酒でも奢るよ」
彼女からの返答はない。恐る恐る、彼女の顔を覗いてみる。
なんだあの顔は。あれはどういう顔なんだ。彼女は、その愛らしい口と目を全開にし、そのまま表情筋が突然死してしまったかのように、固まってしまっている。
いや、口が徐々に閉じていく。頬の紅潮が、顔全体へと広がっていく。あ、これはまずい。
「いや、今夜一晩! お好きなだけワインをお召し上がりください!」
「……」
その表情は、爆発寸前の火山そのものであった。足りないのだ、彼女にとって一晩飲み放題のワインなど腹ごなしにしかならないのだ。
「朝まで! 朝まで! 好きなだけ! ワインを! 驕ります!」
火山の噴火に一瞬身構えるが、彼女は代わりにため息をひとつだけ漏らし、何かを悟ったかのように落ち着きを取り戻した。
「……わかった。それで手を打つわ」
ふう、見たか諸君。これがネゴシエーション、勇者の交渉術というものだ。
女性の乳に触れ、パンツを拝むという最大のリターンを、酒を驕るという僅かなコストだけで成し得てみせたぞ。
なんだ、女と言うものは意外にチョロいもんだな。勇者の職を辞したら、第二の人生をナンパ師として送るのもいいかもしれない。まさか俺に、ナンパ師としての才能もあったとは。
「それじゃあ、ワインを仕入れて部屋に戻ろうか」
「いえ、行くのは教会のワイン蔵よ」
え?
「水差しが空になるたびにワインを貰いに行く気? 面倒だから、ワイン蔵の中で飲もうって言ってるの」
「じゃあ、水差しを二人で二つずつ貰っていけばいいんじゃないかな。それだけあれば足りるだろう?」
「あら、それなら一人二つずつワイン樽を運んだ方が早いわよ」
彼女は、眩しいばかりの笑顔を俺に向けている……どうやら、俺は見誤っていたようだ。
社会はうまくできている。いくら小賢しいネゴシエーション術を使おうとも最大のリターンには、最大のコストを支払わなくてはならないというわけだ。
俺は、これからも続く長い人生の中でも類を見ない大散財をこれから経験するであろうことに、ただ怯えることしかできなかった。
――――――
「ねえー、勇者ぁー。起きてよー」
ああ、なんと心地の良い声だろう。その声は、俺の頭の中で二重三重と響き渡り、折り重なって、まるでサンドイッチだ?
いや層の重なり具合から鑑みるに、ミルフィーユ、もしくはバームクーヘンかもしれない。
「ねえ、勇者ってばー。おきてってー」
おはよう、マイハニー。もう朝なのだろうか。
しかし予想に反して、部屋は暗い。微かに揺れる蝋燭のみによって部屋は照らされている。
「朝か? いや、部屋は暗いしそれはないか……」
「ワインぐらに陽が指すわけないでしょー。それにまだ、日がのぼるには早い時間よー」
ふむ、どうやら、俺はワインを飲みすぎて寝てしまっていたらしい。どうにか、頭を捻るが記憶があやふやとなってしまっている。
俺には、何か大事な使命に目覚めたはずだ。遍く世界へ、何か……伝えなければならないことがあったはずだが、寝起きのためか、はたまた酔いのせいか思い出すことができない。
水を一杯飲もう。少しは目も覚めるだろう。
ワイングラスへと手を伸ばす。すると、グラスからは鼻を刺すキツイ匂いが漂ってきた。どうやら、グラスにはまだワインが残っていたらしい。
そういえば、ワインの楽しみ方の一つに『匂いの形容』があると遊び人は言っていたな。ならばこれも一興。このワインの匂いを、俺なりの言葉で表してみようじゃないか。
「このワインは、犬のゲロみたいな匂いがする」
「犬のゲロも何も、そのグラスに入ってるのは君のゲロだからねえー」
……忘れよう。この記憶こそ、アルコールの力を借りて今夜という過ぎ去る時の中に置いていこうではないか。
頭を起こし、遊び人に目を向ける。酔いつぶれた俺に比べて、彼女の様子は普段と変わらないようにも見える。いや、少しだけ口元の角度があがっているかもしれない。
それに、少し呂律も回っていない。彼女も、だいぶ酔っているようだ。
「約束は、朝までだ。好きなだけ飲むといいよ」
「そのことなのよ、勇者ぁ……」
声に翳りがある。どうも妙だ。
なにか、嫌な予感がする。とてつもなく、嫌な予感が。
「あの、その……このワイン蔵に、もうワインはないの」
「はい?」
目が覚める。ワイン蔵のワインがなくなった? つまり、全て飲み干したということか?
いったい、どんな膀胱と肝臓を持っていればそんな事態が起きうるというのだ。いや、問題なのはそこではない。
頭の中のソロバンが、パチパチと音を立て始める。音は一向に止まらない、それどころか万来の拍手が如くパチパチパチパチと折り重なり鳴り響いていく。その様は、まるで算盤のスタンディングオベーションだ。
「あの、その……ついキミと飲むのが楽しくて。はどめが効かなくなっちゃって……」
「わ、わたしも、それなりにお金は持ってるからあ! き今日は、わたしが払うからっ!」
……なんだ、いい娘じゃあないか。彼女が神妙な理由は、俺の懐を心配しているからなのだ。
俺は、彼女の唇に、人差し指をスッと伸ばす。
ふふっ、可愛らしい唇じゃないか。それ以上、俺に恥をかかせるのは止めておくれ。
君は何も心配する必要は無いんだ。だが、例えそう言っても君は俺の懐を心配せずにはいられないだろう。
だから送ろう。君自身が俺に教えてくれた。この言葉を。
「ここは、俺に任せて……先に行け……」
ソロバンの音は、まだ止まらずに鳴り響いていた。
―――――――
「いらっしゃいませ……おや、久しぶりだねえ」
「マスターも元気そうで何よりだわー」
「しかも、こんな時間に来るなんて。全く、なんて不良娘だ」
「相方が、酔いつぶれちゃったのよ。でも、なんだか飲み足りなくってさー」
「ははは、大抵の奴は君より先に酔いつぶれるだろうさ」
「そうだっ! 今度、そいつをココに連れてきてもいい?」
「もちろん構わないよ。お前のお友達なら、何人でも大歓迎さ。それで、どんな友達だい」
「すごい面白い奴なのよ。いい年して、私と出会うまで一滴も酒を飲んだことが無いって言うのっ!」
「へえ、真面目な子なんだねえ」
「しかもね、そいつはなんと、あの勇者なの! 魔王を追い詰めた、世界最強の男!」
「……勇者、ね」
「マスター……どうかした?」
「なに、その男。是非、連れてきなさい」
お前には悪いが、世界最強の男……是非とも我の手で、葬ってくれよう。
――――――
つづく
――――――
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