第一章 オーバーワールド
ことの始まりは父からの一言だった。
「いつまでも家にいないで働いてくれ」
世間一般からすれば正しい言い分だろう。専門学校を卒業してから五年も経つが、オレこと
「……働け、って言われても……」
オレだってできることなら働きたい。オレの作業スピードを遅いと怒らないところであるならばすぐさま就職させてもらいたい。けれど、そんな職場、実際にはなかなかないのが現状だったりする。世の中、素早さが命だ。素早さこそが求められるのだ。素早くて丁寧なのが当たり前なのだ。丁寧だけでは世の中を渡っていけない。オレは丁寧な方だけれど、素早さは壊滅的だった。しかも、ずば抜けて丁寧かと言われるとそうでもない。オレよりも丁寧にできる人なんて世の中にごまんといる。時間がかかってその程度のことしかできないなら需要はない。致命的だ。素早さを欠くオレはどこへ行っても怒られる天命にあった。
「働けるものなら働きたいけど……、ああ! ダメだ! 遅いって言われたくないーーーっ!」
遅い、遅い、遅い、遅い。
そんなこと、言われなくてもわかっている。けれど、自分ではどうしようもない。丁寧にやろうとすれば遅くなるし、速くやろうとすれば雑になる。オレなりに工夫をしても、どうしても丁寧さと速さを両立させることができなかった。最高スピードを遅いと言われてしまってはどうすればいいというのか。
それに、オレの作業スピードを遅いと初めて指摘してきたある先輩の表情。呆れ返った目。怖いとさえ感じるものだった。怖いのも怒られるのも精神が脆くて堪えられないオレには、それがトラウマになってしまったのだった。
その人に呆れているとか怒っているとか、そんなつもりはなかったとしても、オレにはそう見えた。だから、遅いと言われるとその顔がちらつき、そのたびに恐怖を感じているのである。いや、最早言われなくても言われる可能性があるというだけでびくびくしてしまう。
「はぁー……。いつからこんな感じになったんだ? もうちょっとまともな人生になると思ってたのに……」
成功、とまではいかないにしても普通の、最悪でも最低限の暮らしはできるものだと信じていた。ところが、蓋を開けてみれば家計は大ピンチ。働いていないオレの所為で火の車だ。
ここまできてもオレのメンタルは虚弱のまま。本当になんて面倒くさい性格なのだろう。こんな性格でなければ家族に多大な迷惑をかけることもなかったのに……。
このままでは家族全員、路頭に迷ってしまう。
オレの家族は現在、誰も働いていなかった。両親は高齢で既に会社を退職している。年金で生活しているのだ。親が苦労していたことでもらえるお金をオレは食い潰していたのである。それはオレが両親を殺すということと同義ではないのか。そんなことはしたくない。ここまで養ってくれた二人を殺してしまうだなんてあまりにも親不孝すぎる。とはいえ、働くことが怖い。遅いと言われることが怖い。あの顔をされることが怖い。なんて意気地がないのだろう。それなら、せめて両親を巻き込むわけにはいかない。
オレは台所へ向かった。
「……死ぬのはオレだけでいい……」
……
…………
………………
そうしてオレは死んだ。自殺した。正しい行為でないことはわかっている。それでも、こうする他に思いつかなかった。
何も見えない。
何も聞こえない。
何の臭いもしなければ、何の味もしない。
何も感じない。
何もない。
暗闇の世界をただただ漂う。
眠くもならないし、お腹も空かない。
もう、身体の感覚はなくなっていて、自分がどうなっているのかも把握できなかった。
周りはどうなっているのか。
太陽が何回昇って、何回沈んだのか。
地球が太陽の周りを何周したのか。
これから、どうなっていくのか。
何もわからない、わからない……、わからない…………。
いつまでこんな状態が続くのか。死んだらそこで終わりだと思っていたのに、身体も精神も綺麗さっぱりなくなって何も考えなくてよくなると思っていたのに。感情はなかなか消えてくれない。怖い。怖くて堪らない。こんな真っ暗な世界に閉ざされて、あれからどれほどの時が経ったのかもわからなくて、何もできなくて。話し相手がほしい。今がいつなのか教えてほしい。何でもいいからものを見たい。音を聞きたい。温もりを感じたい。嗅覚でも味覚でもいいから機能してほしい。けれど、その願いは天には届かなかった。
長い、長い、長い、長い。
気がおかしくなりそうだった。叫びたいのに声は出ず、泣きないのに涙は出ず、頭をくしゃくしゃに掻き回したいのに腕は前に出てくれない。こうなって漸く、オレは馬鹿な真似をしたと後悔した。
――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――
謝ることしかできなかった。謝る。謝り続ける。時間が経つにつれて、何に対して謝っているのかわからなくなっていったけれど。
――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――
――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――
……
…………
………………
何秒? 何分? 何時間? 何日? 何週間? 何か月? 何年? 何世紀?
どれくらいそうしていたことだろう。祈りが通じた。感じたのだ。微かな温かさを。オレが今、普通に生きていたなら涙を流して喜んでいたに違いない。
そして、聞こえてくる声。耳にではなく、心に直接語りかけてくるような響きだった。
――あなたは自分のした行いを反省していますか?――
――は、反省しています! だから、どうかこの苦しみから解放してくださいっ!――
オレは即答した。到頭気が狂ったのかとか、幻聴ではないかなどと疑える精神状態ではなかった。助かりたい一心でその声に縋った。
――わかりました。それではあなたに新しい人生を与えましょう――
そう言われた後、全身がぽかぽか温かくなってくる。優しさに包み込まれているような、そんな感覚。ここで初めて、これは夢なのかもしれないと思った。けれど、それでもいい。今まで夢すら見させてもらえなかったのだから。久し振りに声らしきものを聞けて、久し振りに温かさを感じられて嬉しかった。心の底から嬉しかったのだ。
感動していて、あまり深く考えていなかった。その声が言っていたことについて。「新しい人生」の意味について――。
――差し当って、あなたが求めるものはなんですか?――
――自分の弱さを克服したい――
と。
………………
…………
……
目が覚めると、オレの状況は一変していた。
「うぅん、どうなって……? えっと、あれは? なんだっけ……、そ、そうだ! 空だっ!」
そこはもう暗闇ではなかった。長い間、見ていなかったのでぱっと思い出せなかったが、今、オレの目の前には綺麗な青い空が広がっていた。
「見える……、見えるぞ……! あっ、声も!」
見える。聞こえる。オレは確かめたくなった。
感覚がある。力を入れられる感覚が。鉛みたいに重いそれを動かし続ける。視界に入ってきた。それは自分の手。
「手だ……! う、動くぞ!」
嬉しくて仕方がなかった。空と雲のある光景、そよ風の音、草花の匂い、草の絨毯に寝転んでいる感覚。今まで何もわからなかったものを感じられるのだ。視覚、聴覚、嗅覚、触覚。それらが情報を伝えてくる。オレは五感を取り戻せたことの喜びに暫くの間浸っていた。
ふと、あることに気づく。
「どこだよ、ここ……!?」
見渡してみると辺り一面、草原だった。こんな場所、家の近所にはない。オレが死のうとした場所でもない。
オレが自害を計ったのは自宅。死ぬために自分を傷つけたのである。
ないといえばオレの身体にある筈のものがなかった。死ぬためにつくった傷と痛み。それが消えていたのである。治療を施されたにしては完璧なまでに痕が残っていない。そんなもの、最初からなかったというように。これほどの施術ができる医療はこの時代にはない筈なのに、これは一体どういうことなのか。
オレは周囲を見回した。自分の姿を確認できるものがないか探した。すると、幸いにも近くに水辺を発見することができた。湖のようで波はない。あれなら姿を映せるだろう。
急いで湖まで走っていき、水面を覗き込む。正直、少し怖かった。自分がどうなっているのかを知るのは。あれだけ長い間暗闇の中にいたのだ。当然、その時間分は老けているわけで。思いの外老け込んでいたらどうしようと緊張していた。
「……ん? 老けて、ない……? 大体こんな顔だった、ような……。ずっと見てなかったから曖昧だけど。……にしても、ぱっとしない顔だなぁ……」
映り込んだのは馴染みのある自分の顔。マンガやアニメだったら描かれないような、そんなどこにでもいそうな特徴のない顔だ。親しみはないけれど、気にしていたものだから形をよく覚えていた。
思ったより時間は経っていなかったようだ。感覚とは恐ろしい。閉ざされていた恐怖から、時が長く感じたのだろう。
一つの問題はおおよそ解決したけれど、まだ二つ、謎が残っていた。どうして傷が消えているのかということと、この場所はどこなのかということ。オレは自宅で死んでいた筈なのだ。それなのに今、見たこともない草原にいる。辺りに人工物が見当たらない大自然の中に。これは夢なのだろうか。いや、死んでいたら夢は見ないだろう。それよりも死んだことの方が夢だった可能性がある。死んだのが夢だったなら傷や痛みがなくなっていることにも合点がいく。
とはいうものの、記憶にない場所にいるというのは釈然としない。最初に夢中遊行症を疑ったが、住宅地にあるオレの家からこんな大自然まで自分で移動してきたとは思えない。オレはそんなにお金もないし、車の免許だって持っていないのだから。
オレの身に何が起こったのか。場所の移動と傷が消えるという現象、この二つの謎に矛盾が生じないよう成立させて今に至らせる出来事とはなにか、と頭を悩ませる。一つだけ、思い浮かぶことがあった。
――ヤバい薬か何かをつくっている組織が存在していて、ここはその施設の中だという説――
何とも荒唐無稽だが、それならば場所が移動していることも傷が跡形もなく治っていることも両方とも説明がつく。オレが死のうとして絶体絶命だったから、両親が藁をも縋る思いで助けようとしたのではないか。子を思う親の心が、いかに怪しかろうとも救いたいという気持ちが勝って、そのような組織に委ねたのかもしれない。それ以外でこんな状況になる経緯が思いつかなかった。
「……なにされたの、オレ……。なにをしたらこんなに綺麗に治るんだ? 副作用とか後遺症とかが酷い治療じゃないよな? うぅ、帰りたい……。お願いしたら帰らせてもらえるかな……。いや、そんなにすんなりいくか? 治療した代償を払わされるかも……! 薬漬けにされるとか、変な機械を埋め込まれるとか、人体実験の協力を強いられるのかも……っ! じ、自殺なんてしなければよか――」
「グォオンヴォオオオオオオオオオッッッッ!」
戸惑っているところへ突然の咆哮。地面が揺らぐほどの。獣か。いや、明らかにそれが出せる声量を越えていた。それに、聞いたことのない鳴き声。
危険を感じて身を屈める。その時、急に辺りが暗くなった。太陽に雲がかかったのかと空を仰ぐ。
絶句した。
「あ、あああ、あ、あ、ああ、ああああああ……っ!」
喉に引っかかったような変な声が口から漏れ出る。
尻餅をついた。
震える。
驚かざるを得ない。
生き物が太陽を覆っていた。
それはヘビのような尻尾を持ち、鱗が生えたゾウのような身体をしていて、その背中から巨大なコウモリのような翼が生えていて、キリンのような長い首があり、ワニのような頭で、クジラよりも大きい生き物。
現実では、まず見ることがない――
「ど、どどどどどど、ドラゴンーーーーーッ!?」
そんな空想を代表するような生物が頭上を通過して行ったのである。受け容れきれない。思考が停止して、ぽかんとしてしまう。
正気を取り戻したのは、それが完全に見えなくなった後だった。
「……はっ! いやいやいや! ドラゴンはないでしょ、流石に! 見間違いだって!」
自分に言い聞かせていた。今までに存在が確認されていないものを見つけたとなれば大発見かもしれないが、あんなものが実在していたとなれば大厄災レベルだ。逸話などに登場するドラゴンは大抵の場合、狂暴な性格をしていることが多い。口から火を
幻であってほしかった。疲れていたからで片づけたかった。けれど、音が戻ってくる。暴風を伴う巨竜の羽ばたく音が。
「そ、そうか、夢だ! 悪い夢を見てるんだ! 抓って確かめれば、ほら、痛くない、痛くないだだだだだっ!」
無情にも痛覚があった。夢ではないのか。それなら、こんなことをしている場合ではない。
「や、やばい! と、兎に角、か、隠れなきゃ……っ!」
とはいえ、ここは草原。草の背も高くはなく、隠れられるポイントではない。所々に木が生えているのだが、ドラゴンと比べると何とも頼りない幹だった。巻き起こされた風に直撃してへし折られるところを目撃する。駄目だ。あんなものの陰に隠れたら下敷きになってしまう。どこか安全な場所に身を潜めないと、と死に物狂いで探している最中、急に後ろの方から突風が吹いてきた。よろめく。生暖かいというか妙に熱いというか、変わった風だった。更に、ぼたぼたと何かが落ちる音も背後から聞こえてくる。嫌な予感がした。がちがちに固まった身体でかくかくとぎこちなく振り向く。すると――
「グウァシャウァヴォウァシャァアアアアアアアアアッッッ!」
ドラゴンがすぐそこまで迫っていた。距離にして約二、三メートル。巨大な生物からしてみれば造作もない距離だ。
その口からは粘質の液体が垂れ流しになっていた。地面に落ちたそれはジュワーっと湯気を出しながら微小の泡を発生させ、草花を瞬時に溶かす。液体はすぐに蒸発し、跡には何も残っていなかった。土すら養分を失ってカラッカラになっている。液体による影響なのは明らか。これはダメなやつだ。
逃げたいのに動けない。早くしないと大変なことになるのに身体が言うことを聞いてくれない。しっかりしないと駄目なのに思考が纏まらない。
「……嫌だ……! こんな最期、あって
我武者羅だった。この状況を脱したい。頭の中はそれだけになっていた。
手元にあった草を掴めるだけ掴んで毟り、ばら撒くように放り投げる。相手が怯んでくれれば。逃げる時間が稼げれば。そう思って。しかし、対するはドラゴンだ。こんなハッタリなんて全く通用しなかった。
はらり、はらりと舞う草。
そんなものには目もくれず、近づいてくるドラゴンの顔。
大きく開けられた口。
オレを狙う双眼。
オレは食われるのか?
待ち受けているのは草を溶したあの液体。
そんなところには行きたくない!
「う、うわぁあああああああああっ!」
なんだか無性に腹が立ってきた。こんな実在するかどうかも不確かな存在に食われて死ぬのが決められた運命なのだとしたら、オレの人生とは一体何だったのか。そんな不条理極まりない結末なんて望んでいない。
気がついたらドラゴンの顔目掛けて何かを投げていた。それは地面に転がっていた石。片手で持てて投げられる大きさで、ドラゴンにとっては取るに足らない何の変哲もない矮小の石ころだ。しかも、オレは非力で且つ、ノーコンだった。学生だった頃、体力測定にあるソフトボール投げで二桁までいった試しがない軟弱な肩だったのだ。こんなことになるんだったら鍛えておけばよかった。
勢いが弱まっていく。これでは思ったところに命中しない。怯ませることも時間を稼ぐこともできない。もう、絶望でしかなかった。目の前が真っ暗になる。
――ピカッ
急な閃光。目を閉じていても感じるほどの眩しさ。今度は何だ、と手で入ってくる光を調節しながら瞼を薄く開く。視界に入ってきた光景に驚愕した。
「――な、なんで光ってるんだ……!?」
輝きを放っていたのは、さっきドラゴンに向かって投げた石だった。その石は神秘的に煌めき、形を変えていく。丸い鍔、円柱型の
刀に変わった石は加速してドラゴンの口内に突き刺さった。悶え苦しむドラゴン。どうなっているのかわからず、呆然としてしまう。
「石が刀に……!? 一体どうなって……、いや、そんなことより今が逃げるチャンスじゃないか!」
自分が置かれている立場を思い出した。ドラゴンが襲ってくる前にここから立ち去ろうとする。離れようとしてドラゴンに背を向けた瞬間、シュルシュルシュルと空を切る音が耳を掠めた。何の音か考える暇もない。何かが上から降ってきた。鼻先の数センチ先に。それは見事に地面へ突き立つ。刀だ。ドラゴンに刺さっていた刀だった。どうも、ドラゴンが痛がって暴れたことで抜け落ちたようだ。危なかった。あと一歩進んでいたら頭にグサッといっていたことだろう。それを思うと肝を冷やされる。
「グオンヴォオオオオオオオオ……」
ドラゴンが体勢を整えつつあった。不味い。オレは慌てて逃げ出した。焦っていたために一度、刀の横を素通りしてしまう。けれど、すぐに直感した。持っていった方がいいと。目いっぱいに手を伸ばし、刀を回収していく。
走った。無心で走った。兎に角走った。大きな木を発見して、その陰に隠れる。息を潜めて災いが過ぎ去るのをじっと待った。
強風と咆哮。最初のうちは激しかったが、次第に止んでいく。耳を澄ませても音はしなくなった。恐る恐る顔を出して逃げてきた道の方を窺う。そこに、ドラゴンはいなかった。動く影一つない。追ってきてはいないみたいだ。一応、周りも上空も念入りに確認してみたが、その姿は捉えられなかった。ほっとして胸を撫で下ろす。とりあえず、最大の危機は切り抜けられたらしい。
しかし、どうしてドラゴンが存在しているのだろう。ドラゴンなんて伝説の中だけの生き物だ。現実には存在し得ない。クジラが海の中でしか生きられないように、巨大な生物は陸上においてその身体を支えることができないのだから。基本的に身体の大きさが二倍になれば体重は二乗になる、それが自然の摂理だと言われている。
オレをこんなところに連れ去った怪しい組織が、想像上の生物を研究していてそれを誕生させる秘密結社的なことも行っている、ということなのか。だとしたら、ここも安全ではないかもしれない。ドラゴンの他にもつくってはいけない生物が生み出されている可能性がある。
「兎に角、安全な場所を探さないと……! なにかに食われる最期なんて御免だし……、って、重っ!」
今まで決死の覚悟で突っ切ってきていたので気づかなかった。この刀、元が小石とは思えない重さだったのだ。五キロ、いや、十キロはあろうか。オレの体力ではとてもではないが、扱えそうな代物ではない。
「……置いてくか? でも、いざって時、なかったら後悔しそうだし……。うーん……」
悩みながら刀を見詰めていると、刀身の部分に文字が彫られているのを見つけた。それにはこう記されていた。
――反省する者よ。あなたはその「あなたが住んでいたところとは別の世界」で己の弱さを克服なさい――
と。
「……あなたが住んでいたところとは別の世界……?」
ここにあることが本当ならば、ここは異世界ということなのか?
最近、小説やマンガなどでよく見る異世界転生を自分はしたということなのか?
冒険者になって仲間とワイワイ楽しく過ごしたり、騎士になって自分の身を犠牲にしながらお姫様を守護したり、魔王になって奴隷を従えたり、モンスターになって国づくりをしたり、そのようなことが自分にもできるということなのか?
これまで上手くいかない人生を歩んできたオレだ。そうすんなりと信じられるわけがない。けれど、もし、ここが本当に異世界なのだとしたら、オレも小説やマンガの主人公のようになれるかもしれないということなのだ。
信じられないことだけれど、信じてみたいことでもある。信じる者は救われるとも言うし、だから、オレは信じることに決めた。
「……もし、小説やマンガの主人公みたいになれるんだったら、こんなに嬉しいことはないよな……! 伝説の英雄になれたり、すんごい魔法を覚えて無双できたりとかしたら最高じゃん! よし、やってやる! オレの物語はここから始まるんだっ!」
二十五歳、無職の男の発言にしてはなかなかに痛いことを言ってしまった。口に出してしまってから急いで辺りを確認する。誰にも聞かれていなかったようでほっと一安心した。それからオレは拳を大きく掲げてみる。
この時、オレは知らなかった。異世界というものがそんなに甘くなないということを――。
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