7
頭の上から、おじいちゃんの、そんな声が。
見上げると、おじいちゃんが目を見開いて訊いた。
「一花、……四葉は?」
四葉ちゃんがいるはずのリアカーを見て、わたしは声を失った。
四葉ちゃんがいない。
リアカーの上に寝かせたはずの四葉ちゃんがいない。
まだ一人で立つこともできないはずなのに!
……う、う、ひっく……
愕然としていると、『下』から、鳴き声――違う、泣き声、が。
おじいちゃんと二人で視線を下ろす。血まみれの布袋が、完全に動きを止めたと思ったのに、またもぞもぞと蠢きだした。
泣き声はそれから発せられていた。
聞き覚えのある声だった。
口が開いた布袋から、何かが、出てきた。
それは黒い毛の生えた爪の鋭い狸の前足ではなく、白くてぷにぷにと柔らかそうな――
赤ちゃんの、手。
血で真っ赤に染まった小さな手が、助けを求めるように、揺れた。
「うわぁあああ!!」
おじいちゃんが吠えた。わたしは声も出ない。
「四葉! 四葉ぁ!」
血に浸された布袋を抱きかかえ、おじいちゃんが泣き喚く。地面を揺るがすような絶叫を耳にしながら、わたしは、おばあちゃんの言葉を思い出していた。
――「狸はね、化かすのよ」
狸が、わたしとおじいちゃんを、化かして、四葉ちゃん、が……
すべてが暗転しかけた時、ドアがガタンと外れた。ゆっくりと前に倒れて、椅子や段ボールに覆い被さる。
その上に、何匹もの狸が軽く飛んで乗った。血まみれの狸がこっちを見ている。
わたしは座ったまま後ずさった。すぐに壁に突き当たる。立つことすらできない。
おじいちゃんはなおも四葉ちゃんに縋りついて泣き叫んでいる。おばあちゃんはピクリともしない。
狸がひらりと地面に下りる。
そして、まっすぐわたしの方に向かってきた。
「や、やめて」
来ないで。
狸が、こっちに来る。
「ご、ごめっ、ごめんなさい」
来る。
「ごめんなさいっ、ごめんなさい!」
来る。
真っ黒な一対の目が、わたしの引きつった顔を捕らえた。
「ごめんなさいぃ!!」
狸が足元に来た瞬間、わたしは頭を抱え、そう叫んだ。
次に起こることを覚悟した。襲いくる痛みや恐怖に対して、ぎゅっと身を固くした――のに。
狸は何もしてこなかった。
目を開けると、狸がいた足の爪先には、
「え……?」
小さくて茶色い、どんぐりに似た木の実がころんと置いてあった。
狸が、くるりと後ろを向いた。クッションみたいな太い尻尾が揺れている。
よく見ると他の狸より小さい。子どもの狸。
(子狸……?)
まさか、と思った時には、その小さな狸はふうっと姿を消していた。後には数匹の大きな狸だけが残る。
子狸をずっと見ていた大人の狸が、鼻面を上に向けて、
……キュエェ――エ……
そう、甲高く、もの悲しく、鳴いた。
それが合図だったように、狸たちは土間から出ていった。いつの間にかシャッターへの体当たりも治まっている。
ふいに戻った静けさの中、おじいちゃんの啜り泣きだけが響く。
わたしは小さく悲鳴を上げた。
「四葉、四葉……」
おじいちゃんが抱きしめているのは、棘の生えたつるが巻きついた、木の株だった。
おじいちゃんの頬や腕につるの棘が刺さって、血が静かに流れている。
おじいちゃんが涙を流しながら棘にほおずりをする。涙と血がまざってぬらぬらと光った。でもおじいちゃんは、痛みなんて感じてないようだった。
(四葉ちゃん、は……?)
――その時。
土間の外から、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。
わたしは弾かれたように立ち上がって、壊れたドアから廊下に出た。
元いた和室に戻ると、羽虫がたかる電灯の下、四葉ちゃんがお布団の上で泣いていた。
「四葉ちゃん!」
わたしは四葉ちゃんの、あたたかくて柔らかい身体を抱き上げた。何度も何度も名前を呼ぶ。
やがて四葉ちゃんはひとつしゃっくりをすると、真っ黒な――あの子狸を思わせる、無邪気な目でわたしを見上げた。
そして、にこっと、涙でくしゃくしゃの顔で笑ってくれた。
「四葉ちゃん……!」
わたしは泣いて、四葉ちゃんを抱きしめた。
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