第2話 カメリア・モリス

 彼女との出逢いは衝撃的だった。


 オリヴィエ・ゼフィランサスは夫の遺言に納得がいかなかった。財産分与のことでも、子どもたちについてのことでも、使用人たちの解雇と採用のことでもない。

 綺麗な夫の筆跡を見つめながら、オリヴィエはワナワナと唇を歪ませた。破りたくて仕方なかった。


「旦那さまの遺言書を破る行為はおやめください」


 夫人の行動を見透かした弁護士がやんわりと注意する。しかしそれは火に油を注ぐ行為だった。

 もう我慢の限界だ。

 オリヴィエは清楚な便箋に書かれた遺言書をローテーブルに叩きつける。ブルネットの髪は乱れて一本肩に滑り落ちた。


「故人写真を撮るようにとは、どういうことですの?!」

「旦那さまたっての願いです、奥さま」

「死者に対する冒涜だわ!」


 夫が死んだのは今日の午前一時。五十を過ぎた彼は病気で寝たきりになってしまい、昨日の夜十一時に急変して担当医がもう潮時と判断した。忙しいであろう息子を叩き起こし、家族総出で夫を囲った。衰弱がひどかった夫は声をかけても視線を寄越すだけで声も出せず、息を引き取った。

 看取ったあと、オリヴィエと息子二人で忙しなく後始末に追われた。葬儀屋の手配、危篤の報せにやって来た弁護士への接待、それから友人たちへ訃報を送らねばならなかった。

 数十年連れ添った夫のために、重々しく見送ろうとした矢先にまさかの遺言書の内容。

 最後の便箋にはこう書いてあった。


『カメリア写真館の店主に故人写真を依頼してある。私の死後すぐに彼女を呼びつけ、写真撮影をしてもらいたい。カメリア・モリス殿の撮った写真は、最愛の人に渡して欲しい。いらないと言うのなら、カメリア・モリス殿に譲渡するように』


 ああ、なんてこと。死体を撮るだなんて。


 オリヴィエは長年の伴侶の考えが信じられなかった。

 しかも易々と譲渡するようにとまで書いているではないか!

 憤る彼女を長男の嫁がやんわりと肩に手を置いて宥めた。嫁の僅かに膨らんだ腹を見て、冷静さをなんとか取り戻す。五人目の孫が義理の娘のなかに宿っているのだ。これ以上騒ぐと体に触る。

 本来ならば実の息子が嗜めるようなものだろうに。身重の嫁に何をさせているのだと身勝手な憤りが湧いたが、やはり嫁が離れないので何も言えない。

 静かになったオリヴィエに弁護士は安堵した息をあからさまに吐いた。たっぷりと綺麗に整えた口髭を撫で付け、彼は背もたれに身を任せた。


「奥さま、これは旦那さまのご意志であり、決定事項です。例え、伴侶であられたあなたさまでも、故人写真の撮影は行われます」


 それに、と呟き、弁護士は応接間の出入り口である扉を見やった。

 嫌な予感がする。

 それでもオリヴィエは扉を疲れ切った目で見つめた。メイドの一人が、ノックをして「カメリア・モリスさまがお見えです」と告げた。

 なんてことだろう。

 弁護士は女主人でもある自分に何の言付けも通さずに使用人に、故人写真家が来ることを伝えていたのだ。なんてやらしい男だろうか。常に自分よりも一歩手前にいる目の前の男が、もっと嫌いになった。


「……開けて頂戴」


 故人写真家カメリア・モリスが例え老婆であろうとも、若い女だろうとも、絶対に追い出してやろう。どうしようもない意地がオリヴィエを支配する。

 扉の開く音がして、静かに誰かが入ってくる。驚くほど、足音は一切なかった。


「……は?」


 間抜けな声が出て、オリヴィエは己の目を疑った。


「ウィリアム・ゼフィランサスさまの依頼遂行に馳せ参じました」


 想像していたカメリア・モリスの姿が今、目の前で覆されている。

 清楚な白いシャツは糊が丁寧に張られ、灰色のロングスカートはふんわりと膨らんで繊細なレースが見えた。首にはチャームポイントと言わんばかりの椿の花を布で縫い上げたチョーカーが施されていた。

 しわくちゃな老婆でもない。ただ若いだけの地味な女ではない。

 真っ直ぐと背筋は伸びている。オリヴィエよりも、息子の嫁よりも、遥かに年下の目立つ少女。

 大理石の肌。

 猫のような魔性を秘めた琥珀色。

 腰まで長い滑らかな月の色の髪。

 唇は小さくて愛らしいローズ色。


「カメリア・モリスと申します、奥さま」


 見た目に反した大人の女の声が、オリヴィエの耳に深く刻み込まれた。

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