下船病の闘病記と対処法

更級ちか

 プロローグ

 二十代半ばの夏のある日まで、私は船や飛行機に乗りさえすれば、世界中のどこにだって行けると信じていた。

 必要なのは、それなりのお金と勇気だけだと。


 下船病になった日のことを、正直なところ私はあまり覚えていない。

 ただ当時の手帳を確認すると、酷いふらつきが始まったのが、この日だと記されている。

 記憶をたぐり寄せて、思い出すのは、あの日がお盆過ぎだったことだ。


 前日に、大学時代の友人数人と遊び、JRと地下鉄の電車に乗った。

 そう。前日に乗ったのは、高校のときから乗り慣れているはずの電車だけだった。



 みなさんも、一度は経験がないだろうか?

 船や電車、もしくは車などの乗り物から降りた直後に、地面が波打っているような感覚を。

 船であれば、まだ乗っているような感覚だ。

 もしくは、地震がおさまったにも関わらず、長期に渡って床や地面が揺れているような気がするなら、それはおそらく下船病げせんびょう(Mal de debarquement)の症状だ。


 人によって、もしくは体調や気分によって、それが数時間か数日続くことがあるかもしれない。

 揺れの程度も様々だろう。


 意を決して病院へ行き、CTを撮ったり耳鼻科でめまいの検査を受けたりしても、下船病なら異常なしと診断される。

 酷な話だが、今のところ根本的な治療法や薬はない。


 病院へ行く際には、めまい外来を受診することをお勧めする。

 めまいの専門医がいるからだ。


 下手に自律神経失調症などの、他の病気だと診断されて、無意味な治療や薬を処方されるよりかは、分からないと言われた方がありがたい。

 病院へ行く度に、つまり乗り物に乗る度に、症状は悪化の一途を辿るのだから。


 長期化する場合は、初期に酷い頭痛に見舞われることが多いという。

 私もそうだった。頭部をまんべんなく、金槌で思いっきり殴られているような感覚が、途切れることなく半年続いた。


 乗り物に乗っている最中は、疲れはするが症状が殆ど出ない。

 ただし、降りた後は、乗る前よりも症状は格段に酷くなる。

 歩くどころか、立っていられなくなるほどに。

 かかる重力が何倍にも感じられて、地面は時化しけた海で航海しているかのように、ぐわんと波打っている。まるで、大きな存在にもてあそばれているかのように。


 この病気が、日本である程度は認知されるようになったきっかけは、東日本大震災かもしれない。

 もっと広く知られるようになったのは、2014年4月23日に放送された「ザ! 世界仰天ニュース」というバラエティー番組だろう。

 私はこの番組には、感謝してもしきれない。

 番組放送前のCMの時点で、病名は公表されていなかったものの、『ハウスボートで暮らしてから船酔いが続く』というエピソードに既視感を覚えて、家族や友人に観てもらえるよう声掛けした。

 もしかしたら、という期待感があったからだ。

 結局、それは当たっていた。


 この病気にかかり、私が周囲に対して望んでいたのは、同情でも怠けているという叱咤でもなく、ただ病気に対する理解だけだった。


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