第2話

 翌日の夕刻。

 定時で仕事を終わらせることのできたマナは、バスを降りると目の前のコンビニエンスストアでいくつかの惣菜を購入し、関山コーポを目指した。バスを降りた直後も店を出た直後も停留所のアスファルトを確認したが、取り立てて変わった様子はなかった。

 日はすでに西の山並みに落ち、空は藍色に覆われていた。新王子団地を東地区と井上宅のある西地区に分けるかのごとく南北に走る片側二車線の市道が、街灯の明かりに浮かび上がっている。

 ローヒールの革靴が立てる音とコンビニ袋のかさついた音が、車が通過するたびに薄闇に消えかかった。市道沿いの歩道は人の気配がなく、緩やかな上りでまだ続く。

 自分を「女らしくない」と謙遜しつつも、防犯意識は保っていた。ボーイッシュなヘアスタイルにパンツルックスとはいえ、ショルダーバッグを肩にかける姿は、やはり女である。まして、大きめの胸はナイロンジャケットを着ていても目立つのだ。さりげなく周囲に目を配り、自分の置かれた状況を把握した。

 ゆえにその一声はマナの度肝を抜いた。

「あらあ、今、お帰り?」

 足を止めて振り向けば、すぐ後ろに岸本夫人が立っていた。

「あ、は、はい。帰るところです」

 動揺が声に表れたのは自分でも大目に見たかった。むしろ、これは時機として活かせるかもしれない、と瞬時に算段する。

「あの、ちょっと話してもかまいませんか?」

「え……」翻って、岸本夫人が動揺を呈した。「ええ……いいわよ」

「井上さんのお隣だった多田さんのことなんですけど」

 主導権を握ったと誇示すべく、マナは淀みない口調で切り出した。そして、多田の評判や彼の不審な行動を見たことがないか、などを尋ねてみる。

 もっとも、岸本夫人が口にしたのは、前回とほぼ同じ内容だった。「サングラスをかけたスーツ姿の何人かの男たちが、火事の現場周辺をうろついていた」「くねくねとした白っぽい人型のものが多田宅の焼け跡に立っていた」「新王子団地内をうろついていた三匹の野良猫が一匹もいなくなった」など、都市伝説まがいの話が付け加えられた程度だ。

 得心した表情を装ったマナが話を切り上げようとした、そのとき――。

「ああ、そうだ」岸本夫人が不意に声を上げた。「動画があったのよ、多田さんの」

 言いながら、岸本夫人はズボンのポケットから二つ折りの携帯電話、いわゆるガラケーを取り出した。

「うちのお隣の旦那さんがスマホで撮影してね、それをメールで送ってもらったのよ」

 そんな解説にマナは首を傾げてしまう。

「撮影って……その人は多田さんと親交があったんですか?」

「そんなことあるわけないわよ」否定したうえで、岸本夫人は続ける。「多田さんのお隣の平野ひらのさん……井上さんちの反対側のお宅で、そこの奥さんと小学生の娘さんが話ながら花壇の手入れをしていたの。確か日曜日の午前中だったわね。そうしたら……」

 自宅の玄関から姿を現した多田が、さらに道路に出ると、生け垣越しに平野母子を怒鳴り散らしたという。岸本家の隣家の主である大滝おおたきがその騒動に気づき、遠巻きに多田の暴挙をスマートフォンで動画として撮影したらしい。

「大滝さんは、警察沙汰になったときに証拠として使える、と思ったんですって」

 そう言うと、岸本夫人は携帯電話を操作した。どうやら受け取ったメールに添付されたURLから動画変換サイトにアクセスするらしい。

 再生された動画には、路上で怒鳴り散らす男と、生け垣の内側で身を寄せ合って立ちすくむ母子が写っていた。男はトレーナーにスウェットパンツという姿だ。母子にはモザイクがかけられているが、岸本夫人によると、大滝が万が一の場合に警察に提出する動画ファイルは当然のことながら修正なしのものだという。

「おれは仕事で疲れているんだ! 日曜日くらい静かにしろ! 子供が子供なら、親も親だ! だいたいな、日頃からマナーがなっていねーんだよ!」

 岸本夫人の携帯電話から多田の罵声がひっきりなしに放たれた。

 ときおり拡大される多田をよく見ると、肩まで伸ばした髪を茶色に染めており、ピアスをしていた。筋肉質で、かつ、実年齢より若く見える多田に、秀平には今一つ足りなかった性的魅力が横溢しているような気がしてならない。少なくとも、容姿が整っているのは事実だ。

 とはいえ、平野母子を威嚇するその様が厭わしいのは事実だ。外見のよさで稼いだ魅力度は、この醜態をさらしただけで皆無となる。

「これを撮影した大滝さんという方でも、多田さんのこの行為を止めることはできなかったんでしょうか?」

 マナが問うと、岸本夫人は携帯電話から顔を上げた。

「それは無理よ。そんなことをしたら、大滝さんの家族のみんなが標的にされてしまうもの。朝から晩まで嫌がらせを受けることになるの」

 無理もない、とマナは感じた。そのうえで、気になることを尋ねてみる。

「なら、多田さん宅が火事に遭ったあと、大滝さんはこの動画を警察に提出したんでしょうか?」

「だってね」岸本夫人は動画を停止すると、携帯電話の電源を切った。「誰だって巻き込まれるのは嫌でしょう。あの火事に事件性がないんだったら、それでいいじゃない」

 そう言って携帯電話をズボンのポケットに戻した岸本夫人が、ふと、マナを見つめた。

「あたしがこの動画を見せたことは、内緒よ。いくら多田さんのご主人が亡くなっているからって、それはやっぱり……平野さんにも大滝さんにも顔向けできなくなるというか、もめごとの原因になるというか」

「え、ええ……もちろん大丈夫です」

 言っている岸本夫人自身が厄介ごとに巻き込まれたくないと思っているのは明白だが、呆れつつ苦笑したマナでさえ、岸本夫人の立場だったら同じことを口にするだろう。しかし、マナが情報を共有したい相手は、岸本夫人ではない。

「あ、そうだ」思い出したように岸本夫人は言った。「井上さんご夫婦にはこれを見せちゃったのよね。あの二人になら言ってもかまわないけど」

「そうでしたか。わかりました」

 辟易したのはほんの一瞬だ。むしろ好都合である、とすぐに悟る。

 凡庸な世間話が岸本夫人の口から流れ始めたため、マナは「用事がある」と偽ってその場を辞退した。


 期待したほどの収穫がないまま帰宅したマナは、入浴も食事も簡単に済ませると、すぐにベッドに潜り込んだ。テレビなど見る気にもなれない。大学時代からの付き合いである女友達からチャットアプリのメッセージが届いたが、「疲れたから寝る」とだけ送信し、すぐに返ってきた「心配する旨」を綴ったメッセージは無視した。

 部屋の照明を落とし、うとうととし始めた頃、再度、メッセージの通知音が鳴った。無視を決め込もうとしたものの、胸騒ぎを覚え、枕元に置いたスマートフォンを手に取る。

 芳美からだった。昨日、井上宅を訪ねた際に、互いに電話番号も含めてチャットアプリIDを交換しておいたのだ。

   *   *   *

 こんばんは。今度の土曜日、お休み? よかったらわたしの車でちょっと遠くまで買いものに行かない? もちろん、うちの主人は抜きだよ。

   *   *   *

 マナはスマートフォンを握ったままベッドを抜け出すと、照明を点けずに窓際に歩み寄った。カーテンを開けて見下ろせば、井上宅の一階と二階に明かりが灯っている。二階の明かりの中に人影を見たような気がして、マナはとっさに窓際から離れた。怖かったのではない。恥じらいがあったのだ。

 この胸の高鳴りでマナは確信した。大学時代の友人よりも芳美に偏っている、と。

 芳美からの誘いを拒む理由などなく、マナはスマートフォンを操作した。


 コンクリートタイルの歩道に何本ものハナミズキが立ち並んでいた。生い茂る葉は毒々しいまでに赤く、鉛色の空にどぎつい口紅を差したかのようだ。瀟洒なはずの家々のどれもが、水墨画並みの曖昧な輪郭であり、沈黙を守っている。

 トレーナーにスウェットパンツという姿の男が、背中をこちらに向け、歩道ではなく、車道の中央に立っていた。肩まで伸ばした髪は茶色だ。

 ほかに人の姿はなかった。車も通らない。

 静かだった。動くものは何もない。男もただ、立ち尽くしている。

 この男にかかわってはならない――そうわかっているのに、彼の背中に声をかけた。とはいえ、なんと言葉を紡いだのか、自分でもわからなかった。否、声を出したつもりが、声そのものを出していなかったのかもしれない。

 男が張り向いた。怒りの形相を剝き出しているその男は、多田だった。逃げ出したかったが、歩くことはおろか、多田に背中を向けることさえできない。

 怒りの形相で多田は何かを叫んでいた。しかし、彼の声はこちらに届かず、何を叫んでいるのかまったくわからない。

 多田の上半身が左右に揺れた。見れば、彼の腰から上がトレーナーごと伸びている。蛇のように左右にのたくりながらどんどん伸び上がっているのだ。

 蛇、というよりはまるでロープだった。

 ロープ状に伸びた胴が、のたくりながら宙を漂い、迫ってくる。

 長い胴の先端に位置する怒りの形相が近づいてくる。

 彼の両足はその場に立ったままだ。

 多田の顔が目の前で止まった。

 その顔が、にやりと笑う。

「おれに犯されたいんだろう?」

 不意に、多田の顔が黒ずみ始めた。焼けただれているらしい。炎は確認できないが、皮膚も髪の毛も徐々に焦げていく。

 焼けただれた顔が、ぐいと近づいた。

 彼の髪の毛は、もうほとんど残っていない。

「おれに犯されたいんだろう?」

 焦げ臭かった。

 多田の左右の眼球が沸騰して飛び出し、ゼリー状となったそれが、彼の頬を伝って地面に落ちた。

 眼球を失った漆黒の二つの穴が、目の前にあった。

   *   *   *

 マナはベッドの上で上半身を起こした。

 叫びは上げなかったが、ほんの束の間、焦げ臭いにおいを嗅いだような気がした。

 暗い部屋の中で、枕元の置き時計を見る。

 午前四時二十三分だった。

 土曜日であることを思い出す。

 気持ちが落ち着いてくると、抑えきれない悲しみが湧き上がってきた。夢の中の言葉、それはすなわち自分の深層心理が紡いだ言葉に相違ない。あんな言葉を紡いだ自分自身が許せない、ということだ。無論、多田のような男に犯されたいわけがない。多田ならあのような台詞を吐くかもしれない、という思惑がマナの中に潜んでいただけである。

 夢の続きを見たくなかったため、マナはベッドから抜け出した。


 芳美のミニバンが向かった先は、新王子団地から北東に三キロほどの距離に位置するショッピングモールや、日立市北部のショッピングタウンだった。芳美は「それほど遠くなかったかも」と苦笑するが、通勤以外の行動範囲が一キロ程度のマナにとっては、立派な遠出でだ。いずれにしても、二人とも衣料や雑貨、食材などを買い込み、日立市の中華飯店で昼食を取った。

 ミニバンが新王子団地に戻ってきたのは、午後三時半過ぎだ。

 関山コーポを左手にして、市道を間もなく左折する、というそのときだった。

 北に向かう片側二車線の左側を走っていた芳美のミニバンの前方、右側車線を走っていた軽トラックが、大きく跳ね上がり、左側面を下にして横転した。

 関山コーポへと至る脇道は事故現場の先だが、横転した車体は左車線にはかかっておらず、事態を無視すればすぐにでも到着できる。

 とはいえ、芳美がこれに目を背けるとは、マナには思えなかった。

 案の定、左折しようとしていたミニバンは急停止し、マナも芳美も前のめりになる。

「何? どうしちゃったの?」

 横倒しになったまま動かない軽トラックを見つめて、芳美は声を震わせた。

 芳美のミニバンの後方から、一人の中年の男が軽トラックへと駆けていった。振り向けば、一台のSUVがすぐ後ろに停車しており、運転席側のドアが開いていた。

「そ、そうだ。助けなきゃ」

 口走った芳美は、車外に出るとドアを閉じた。すぐに振り向いた彼女がマナに向かって何かを伝えようとするが、声がよく聞こえない。

 呆然としていたマナは、ようやくシートベルトを外し、車外へと出た。

「わたしは軽トラの運転手の様子を見ながら消防署に電話するから、八神さんは警察に電話を」

 芳美はそう伝えると、中年の男に続いて軽トラックへと走った。

「はい!」

 芳美の背中に答えたマナは、ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。

 しかし、画面をタップしようとする指が震えてしまう。

 事故そのものも脅威だが、マナは見てしまったのだ。路面の一部が大きく盛り上がり、軽トラックがそれに乗り上げて飛び跳ねた、という光景を。

 ――見間違いなんかじゃない。

 心の中で自分に言い聞かせるが、路面の隆起はもう見えない。

 ――見間違いなんかじゃない。

 そう、隆起は移動したのだ。移動してこの場を去ったのである。マナはその様子までも目にしていた。

 指が震えるあまり、まだ電話はかけられなかった。


 芳美と中年の男によって軽トラックから助け出された初老の男は、幸いにも軽傷で済んだ。本人の証言によれば、事故の原因は不明とのことである。芳美と中年の男も原因はわからないと証言した。すなわち、三人はあの隆起に気づかなかったわけだ。

 マナは警察に電話をしたものの、その後はおたおたするばかりで、救出作業に加わることができなかった。応急手当も芳美と中年の男が施し、警察による聴取でもマナはろれつの回らない答えしかできなかった。無論、「アスファルトの隆起が事故の原因だった」などと言えるはずがない。

「気にすることないわよ。ちゃんと警察を呼んでくれたじゃない。車の横転なんて、あんな光景を目の当たりにしたら、取り乱すのが普通よ」

 関山コーポの前での別れ際、消沈するマナに芳美はそう励ましてくれた。

 しかしマナが取り乱した理由は、事故そのものではない。事故の原因となった奇怪な現象だ。あの光景をせめて芳美には話したいところだが、信じてもらえるとはとうてい思えない。むしろ、不信感を抱かれてしまう可能性がある。

 床に敷いた薄い布の下に猫が潜り込めば隆起ができ、その猫が移動すれば隆起も移動する――自分をつまずかせたものと軽トラックを横転させたものは、どちらもそんな様を連想させるな動きだった。とはいえ、アスファルトの下になんらかの生き物が潜り込み、アスファルトを隆起させて移動していた、とは考えにくい。

 熱めの風呂に入って体を温めても、背筋に冷たいものを感じた。食事もろくに喉を通らない。

 気を紛らすためにテレビを点けると、頃合いよく、お笑い芸人たちによるトークバラエティーが放送されていた。

 無理にでも笑おうとしたが、それは無理だった。

 テレビの中と自分のいるこの世界とが、あからさまに隔絶されている。

 漫然とした時間が過ぎていった。

 カーテンは閉ざしたままだ。

 新王子団地の夜景を眺める気など、当然なかった。


 翌日、日曜日。

 夜明けとほぼ同時に目覚めた。悪夢を見た記憶はない。

 ベッドからなかなか抜け出せなかった。アスファルトの隆起と遭遇する可能性を否定できず、屋外に出るのも気が引けてしまう。

 とはいえ、あれがなんだったのか、気になって仕方がなかった。この先もここで暮らすのだから、正体を突き止めたうえで対応策を練ることは至極当然である。

 そう、あれが現れるのはこの界隈だけなのか否か、それも疑問の一つなのだ。この一帯に限定された現象ならば、離れた土地に引っ越すという手立ても考えられる。考えられるが、井上夫婦と離れるのは抵抗があった。裏を返せば、「井上夫婦という守りを得て、独り暮らしに対する不安を解消したい」ということである。

 とにかく、指をくわえていては埒があかない。

 マナはベッドから起きると、よそ行きに着替えた。


 井上宅を遠巻きに見ると、車は二台とも出払っていた。腕時計は午前九時四十二分を示している。

 ショルダーバッグのベルトを握り締め、マナは新王子団地内へと足を踏み入れた。例の空き地を忌避しているのは事実だが、目に収めていない風景を見たかったため、井上宅の前を横切る道より一つ南の通りを西へと向かう。

 十メートルばかり先の辻を、右から左へと小学生高学年とおぼしき四人の少年たちが駆け抜けた。だが、最後の一人が、辻の真ん中で転倒してしまう。

 驚いたはずみでマナの足が止まった。

「いてー」

 転倒した少年がジーンズの膝を払いながらやおら立ち上がった。

「何やってんの」

「走るのへたくそ」

「いちいち面倒くさい」

 家屋の陰になって見えないが、先行した三人はすぐに立ち止まったらしく、口々にこぼした。

 マナはすぐに、転倒した少年の周辺に目を走らせた。アスファルトの隆起を見たような気がするが、すでに移動したのか、もしくは目の錯覚だったのか、路面に異常はなかった。

「お兄ちゃんたち、だめだよ、ここら辺で駆けっこしたんでは。車が来たらぶつかるかもしれないでしょう。それにほれ、今みたいに転んじゃったりするんだし」

 明らかに大人の女の声だ。

 転倒した少年が、マナから見て右のほうを振り返り、「はい、ごめんなさい」と素直に謝った。少年が頭を下げた相手も、やはり姿は家屋に遮られている。だが、マナにとっては聞き覚えのある声だ。

「行こう行こう」

 仲間に声をかけられ、転倒した少年は「なんで転んじゃったんだろう?」とつぶやきながら先へと歩いていった。

 続いて右から辻に姿を現したのは、注意喚起した声の主、岸本夫人だった。

「岸本さん、こんにちは」

 声をかけ、マナは岸本夫人に歩み寄った。

「あら、こんにちは。えっと……」

 恥じらうように言葉を吞んだ岸本夫人を見て、マナは自己紹介を怠っていたことに気づいた。

 マナが改めて名乗ると、岸本夫人は丁寧に頭を下げた。

「あたしは岸本……って、もう井上さんから聞いているんだったね」

「ええ」

 曖昧にはにかんだマナは、苦笑する岸本夫人から目を逸らすと、少年が転倒した辺りに目をやった。

「今、そこで子供が転びましたけど」マナは岸本夫人に視線を戻した。「何かにつまずいたりしたんでしょうかね?」

「見た感じ、つまずくようなものはなさそうだけど、よくは見えなかったわ」岸本夫人はそう訴えるが、ふと、思い出したように小さく頷いた。「そういえば、最近、この団地で転ぶ人が多いわね」

「そうなんですか?」

「子供だけじゃなくて、大人もなのよ。サラリーマンの男性、主婦、高校生のお兄ちゃんやお姉ちゃん、あとは、これはしょうがないけど、高齢者の人。まあ、まだ転んでいないあたしも、高齢者だけどね」

 言ってから、岸本夫人は手を叩いて大笑いした。

「いえいえ、岸本さんはとてもお若いですよ」阿諛ではぐらかしたマナは、念のために確認する。「皆さん、どうして転んだんでしょうね? こうも件数が多ければ、何か理由がありそうですが」

「そう言われれば、どうなんだろうねえ。あ……」

 と口を開けたまま、岸本夫人はマナを見た。

「はい?」

 マナは固まった。

「ほら、あなた……えーと、八神さん?」

 どうやら名前を確認しているようだ。

「はい、八神です」

「そうそう、そうね、八神さんだった。八神さんがさっきあたしに尋ねたでしょう。そこで転んだ男の子は何かにつまずいたんじゃないか、って」

「はい」

「それよ。あたしが聞いた限りでは、みんな、何かにつまずいた、って言っているらしいのよ。だけど確認しても、つまずくようなものは何もなかったんだって」

 驚愕すべき情報だった。自分の見たことや体験したことは事実である、という証しを見つけることができるかもしれない。

 信憑性をさらに高めるべく、マナは問う。

「転ぶ人はいつ頃から増えたんですか?」

 転倒こそ避けられたものの、マナ自身もつまずいた一人だ。それはあえて伝えなかった。

「そうねえ、先月か先々月かな?」

「二カ月前……多田さんの家が火事に遭った頃じゃないでしょうか?」

 それに結びつけようとしていることを、マナは言い終えてから気づいた。

「確かに……でもそれって、まさか多田さんの怨霊がたたっているとか考えているの?」

 さすがに「たたり」などを認めるつもりはないが、憂いを浮かべた岸本夫人の顔を見るに、裏づけのない怪異譚を吹聴されるおそれはあった。

「いえ、わたしは幽霊とかは信じていないんです。ただ、あの火事が原因でなんらかの異常な現象が起きているかも、って思っているんですけど」

 言ってはみたものの、多田の焼け焦げた顔が脳裏をよぎる。

「異常な現象……」

 岸本夫人はマナの言葉を吞み込めていないようだ。

 マナ自身は、科学的に解明できるような問題ではない可能性も念頭に置いていた。たとえ超常現象でなくても、前例のない現象を解明するのは難儀である――と思えた。

「あと」とりあえず話を先に進めてみる。「それらの転倒って、この近所だけで起きているんでしょうか?」

「そういえば、ほかでは聞かないわね」

 岸本夫人のその言葉を聞いて、マナは頷いた。

「何かにつまずいて転倒するというアクシデントがこの一帯で多発している、ということになりますよね」

「何か……って、何?」

 憂いの色を浮かべたまま、岸本夫人はマナに問うた。

「たとえば、地面が……アスファルトの一部が盛り上がっていて、それにつまずくとか」

「アスファルトが?」岸本夫人は周囲の道の様子を窺った。「木の根っことかが伸びてアスファルトを持ち上げてしまった、みたいな?」

 イメージ的には似ているかもしれない。マナは頷いた。

「そんな感じですね」

「ここより一つ南の通りにハナミズキの街路樹が並んでいるけど、それほど根っこは張っていないしねえ。それ以外の場所でも、路面が荒れているなんて見かけないわよ。あ、そういえば……」見れば、岸本夫人の憂いの色がさらに濃くなっていた。「アスファルトじゃないけど、多田さんのうちだったところ……あの空き地で、地面が妙に盛り上がっているのを見たことがあるのよ」

「え……」

 マナは息を吞み、寂となった。

「先々週の何曜日か忘れたけど、平日だったのは間違いないわね。これくらいの大きさだったかなあ」

 岸本夫人は両手で楕円形の形を作った。差し渡しが三十センチ程度の楕円形だ。マナが停留所で目撃したアスファルトの隆起も、それとほぼ同じ大きさだった。もっとも、軽トラックを横転させた隆起は、その数倍の大きさだったはずだ。

「それって、今でも残っているんですか?」

 動いたのか、とは尋ねられず、無難な文言を用いた。

 間を置かず、岸本夫人は首を横に振る。

「残っていないのよ。その日の午前中に見つけたんだけど、昼過ぎに行ったら、もうなくなっていたわ。ロープが張ってあるけど、入ろうと思えば誰でも入れるでしょう?」

「つまり、誰かが意図的に作った、と?」

 マナが問い返すと、岸本夫人は悩むような表情を呈した。

「そんなことをしても、意味なんてあるのかなあ。平日だったから学生や会社員はほとんどいないでしょう。だからって、主婦とか高齢者が、そんないたずらをするものなのかねえ。小さな子供なら、まあ、わからないでもないけど」そして岸本夫人は、肩をすくめて続ける。「盛り上がりといえば、地面じゃなくて、家の壁が盛り上がっていた、なんて言っている人がいるのよ」

「壁が?」

 話が逸れる予感がしたが、とりあえず耳を傾けた。

「八十過ぎのおじいちゃんの話だからどこまで信じていいのかわからないけど、やっぱりつい最近の昼間だったかな……散歩中にふと見たら、どこかのお宅の外壁が、一部だけ膨らんでいたんだって。大きさとか形は……あらやだ、今になって思えば、あたしが空き地で見た盛り上がりとほとんど一緒だわ」

 聞き逃せない内容だった。マナは先を促す。

「それって、どこのおうちだったんですか?」

「それがはっきりしないのね。あっちの家だのこっちの家だのってさ。その中にはあたしの家もあれば、井上さんの家も含まれていたわ。あのおじいちゃん、もうぼけちゃっているんじゃないかしら。まあ、あたしも似たようなものよね。地面が盛り上がっていただの、それがいつの間にかなくなっていただのと言っているくらいだもの」

 岸本夫人はそう言って噴き出した。いつの間にか緊張感を失ってしまったらしい。

 一方のマナは、なんとか震えを抑えていた。岸本夫人の言葉をどう解釈すればよいのか、まだわからない。

 一帯の家々が薄墨のように滲んでいく――夢で見た光景が再現されているような気がしてならなかった。


 三日後、水曜日。

 新王子団地に住む小学三年生の少女が行方不明になった、というニュースをテレビで見たのはその日の夜、引っ越して初めての残業――二時間の残業を終えて帰宅した直後だった。

 上手縄工業団地から路線バスで終点のJR坂萩駅西口バスターミナルまで行き、同バスターミナルを三十分後に発つ路線バスに乗り換えて新王子団地のコンビニエンスストア前へとたどり着く――そんな行程で午後九時過ぎに帰宅したが、風呂を沸かしてカーペットに座り込み、テレビを点けたとたんに目に飛び込んできたニュースである。

 行方不明になっているのは、富永とみなが七海ななみという少女だ。昨日の午後、友人らと下校した彼女は、新王子団地内の道を一人で自宅に向かって歩いている様子を近所の主婦に目撃された。それを最後に姿をくらましたのだ。警察が捜索に乗り出したが、手がかりはまだつかめていない。

 次のニュースに切り替わって数秒後に、スマートフォンの着信音が鳴った。傍らに置いたショルダーバッグからスマートフォンを取り出すと、「井上芳美」と表示されていた。

「こんばんは」

 マナは通話状態にするなり挨拶した。

「こんばんは。えーと、電話していても大丈夫?」

 芳美の問いにマナは「はい」と答えた。

「よかった。あのね八神さん、今、テレビのニュースで見たんだけど――」

「新王子団地で女の子が行方不明になった事件ですか?」

 マナが芳美の言葉を待たずに問い返すと、芳美は「そうそう」と答えた。

「八神さんも見ていたのね?」

「はい」

「隣の多田さんの火事といい、今回の行方不明事件といい、ご近所で物騒なことが続いているわ。火の元とか戸締まりとか、ちゃんとしておいてね」

 とたんにマナは噴き出しそうになった。まるで実家の母のような物言いだ。もっともその言葉は、マナを慮ってのことなのだろう。

「ありがとうございます。気をつけます」

 どうにか笑いをこらえ、そう告げた。

「あ、八神さんったら、笑っている」

 抑揚のない低い声で、芳美は言った。

「そんなことないですよ」

 マナが慌てて取り繕うと、電話の向こうで「ぷっ」と噴き出す声がした。

「冗談よ」芳美は笑った。「でもわたしのこと、自分のお母さんのように思ったんじゃないの?」

「え、ええ……まあ、そんな感じです」とりあえず胸をなで下ろし、マナは言う。「それよりその女の子、心配ですね。無事だといいんですけど」

「そうよね。七海ちゃん……行方不明になった女の子は、会えばきちんと挨拶するし、とてもいい子なの。わたし、笑ったりして不謹慎だったわ」

「わたしも不謹慎でした。ですけど、ニュースを見てとても怖かったから、少しでも明るくなれてよかったです。それにわたしを心配してくださって、本当に感謝しています」

「かえって迷惑かな、って思ったんだけど、やっぱり電話して正解だったわ」

 安堵する様子がスマートフォン越しに伝わってきた。

 ――今なら言える。この人なら聞いてくれる。

 そう確信し、思いの丈を伝えようとした。しかし――。

「あの、芳美さん――」

 マナは言葉を吞んでしまった。確信したはずなのに、どうしても言い出せない。

「え、何?」

「いえ、いんです」

 芳美を信頼していない証しなのでは、と自分自身に落胆した。加えて、自分自身の弱さを痛感する。

「そう……なら、とにかく身の回りのこと、気をつけてね。何かあったら、いつでも頼ってね」

 ありがたい言葉だった。心からそう思った。

 マナが礼を述べると、芳美は名残惜しそうに通話を切った。

 ニュースは天気予報のコーナーになっていた。

 明日は朝から弱い雨が降るらしい。


 予報どおり、翌日は朝から小雨だった。

 コンビニエンスストア前の停留所はバス停看板があるだけで、雨を避ける屋根の類いはない。そんな停留所にたどり着くと、カラフルな傘が二つ、横並びで開いていた。マナの飾りっ気のない傘が、その二つから多少の距離を置いて三番目の位置についた。

 横目で見ると、二人の女子高生だった。

「だからね、本当なの」

 セミロングヘアの少女が言った。押し殺すような声である。

「だって、どう考えたってありえないじゃん」

 ショートヘアの少女が切り返した。やはり小声だ。

「わたしだって、ありえないと思ったよ。でも本当に見たんだもん」

「錯覚だよ、きっと」

「錯覚っていうほうがありえないよ。目の前でだよ。目の前でね、飲み込まれちゃったんだから」

「カラスがアスファルトに? ないない、そんなこと」

「あるんだって。こんもりと盛り上がったアスファルト……アスファルトのお化けだよ。あのお化け、スマホで動画を撮っておけばよかったな。家から自転車で出た直後だったから、油断していた」

「ねえ、あんまり変なこと口にしないほうがいいよ」

「なんで? だって本当のことだよ」

「うそでも本当でもどっちでもいいけど、最近、新王子団地で変な噂が多いじゃん。転ぶ人が多くなったとか、野良猫がいなくなったとかさ。ゆうべなんかは、小学生の女の子がいなくなったっていうニュースを、テレビでやっていたよ。しかもね、全国放送だったんだから」

「そのニュース、わたしは見ていないけど、お父さんとお母さんが見たらしいね」

「そんなニュースが全国放送で流されたんじゃ、気味の悪い噂がますます広がっちゃうじゃん」

「そういえば学校でも、新王子団地をお化け団地だなんて呼んでいる生徒が結構いるみたいだね」

「だからさ、ここに住んでいるわたしたちにしてみれば面白くないわけ。うちの親とかもそうなんだけど、大人の人たち、ぴりぴりしてんのね」

「ああ、そういえば、うちの親も――」

 セミロングヘアの少女は不意に口を閉ざした。彼女の視線がマナの視線とかち合っている。

「ああ、そうだ。まだ早いし、あとのバスにして、コンビニに寄っていこう。消しゴムを買わなくちゃいけなかったんだ」

 思い出したように言ったセミロングヘアの少女が、ショートヘアの少女の片腕を引いてコンビニエンスストアへと向かって歩き出した。

「なんだよ急に」

 腕を引かれながらショートヘアの少女は相方を睨んだ。

「人がいるのに、変な話をさせるな」

 セミロングヘアの少女が、再び声のボリュームを下げた。

「最初に話してきたのはそっちじゃん」

 一方のショートヘアの少女は、むしろ声を荒らげていた。

「うるさい」と相変わらずの小声で訴えつつ、セミロングヘアの少女は友人とともにコンビニエンスストアへと入ってしまう。

 マナはコンビニエンスストアから正面へと向き直った。

 道路の反対側に人が立っていた。この雨の中で傘を差していない。

 長めの茶髪にトレーナー、スエットパンツ、焼けただれた顔には眼球がなかった。

 雨に滲む景色が、一段と鮮明さを失う。

 焦げ臭いにおいを感じた。

「おれに犯されたいんだろう?」

 耳元で囁かれたような気がした。

 硬直したまま、マナは息を吞んだ。

 もう一度よく見ると、そこにあるのは、住宅展示案内の立て看板だった。その背後のフェンスに引っかかっているコンビニ袋と相俟って、戯画化された人の姿に見えなくもない。

 焦げ臭いにおいも感じられなかった。

 しとしとと降り続く雨の中、安堵すると同時に、肌がわずかに粟立った。


 午後には雨が上がり、夕暮れは茜色の薄曇りとなった。

 定時で仕事を終えたマナは、関山コーポではなく、井上宅へと歩を運んだ。

 もう耐えられなかった。この圧迫感を払拭せずにはいられない。

 井上宅の駐車スペースには芳美のミニバンのみがあった。

 見るとはなしに目をやれば、隣の空き地の地面は水気を含み、じくじくと鈍い光を放っている。わずかに焦げ臭かったが、腐敗臭が混淆しているような気がした。

 とっさに目を背けたマナは、右手に持つたたんだ傘を左手に持ち替え、呼び鈴を鳴らした。「はーい」という芳美の声を聞いてわずかに落ち着きを取り戻す。

「こんにちは、八神です。ちょっと話があって」

「あら八神さん、いらっしゃい。待ってて、今、玄関を開けるから」

 インターホン越しの挨拶はすぐに済んだ。

 やがてドアが開き、芳美が顔を覗かせる。

「さあさあ、八神さん、入って入って」

 芳美はいつもの調子だった。

 突然の訪問を詫びたうえで、マナは玄関に足を踏み入れた。


「この界隈で不可解なことが起きている……だなんて耳にしたこと、ありませんか?」

 マナとしては迂遠な問いかけだったが、芳美には唐突だったに違いない。

 二人ぶんのコーヒーをテーブルに置いて向かいのソファに腰を下ろした芳美は、案の定、丸くした目でマナを見た。

「不可解なこと?」

「はい。あの……変な話ですみません」

 萎縮し、軽く頭を下げた。

 成り行き次第では井上夫婦との良好な関係に亀裂が生じるかもしれない。それでもこの問題を閑却するわけにはいかなかった。新王子団地の一帯で起きている現象なのだから、井上夫婦の安全にかかわる問題でもあるのだ。

「お隣の火事や七海ちゃんが行方不明になったこととか?」

 神妙な面持ちで芳美は問うた。

「それもありますが、ほかにも……」

 マナがおずおずと肩をすぼめると、芳美は思い当たったかのように背筋を伸ばした。

「そういえば、野良猫がいなくなった、なんていう話を聞いたわね。確かに見なくなったのよ。白黒のおちびちゃんと、白いのと、灰色のトラ……三匹いたはずなのに」

「はい。猫の話もありました」

「猫の話も……ということは、もっとほかにも?」

「新王子団地内で転倒する人が増えた、とか」

 まだ核心にはふれていないが、マナの手は震えそうだった。

「そんな話も聞いたような」と芳美は首を傾げた。仮にその話を耳にしていたとしても、彼女にとっては重要度が低いのかもしれない。

 マナがさらに回りくどく導こうとしたとき、芳美が口を開いた。

「八神さん、何かあったの?」

「え……」

 不審がられた、と感じ、マナは息を吞んだ。

「とても不安そうな顔をしているわよ。わたしだって不安になっちゃう。お願いだから、何があったのか、言ってちょうだい」

 そう請われたのだから、そろそろ核心にふれてもよいだろう。

「アスファルトが隆起して……その隆起が移動するんです。そしてそれが、人をつまずかせたり、車の事故を誘発させたりするんです」

「アスファルトの隆起が移動する? どういうことなの?」

 明らかな懐疑の色を芳美は呈した。

「でも、わたしは見たんです。この目ではっきりと」

 訴えてから想起したのは、今朝の女子高生同士のやり取りだった。このままではあの二人のように会話は平行線をたどってしまうだろう。もっとも、否定派だったショートヘアの少女が、その後に主張を転換した可能性もある。まだ諦めてはならない。

「つまり」先に口を開いたのは、芳美だった。「アスファルトが生きている、っていうことなの?」

「生きているかどうかはわかりませんが、まるで生き物のように、その隆起が波のように移動するんです。……とうてい信じられないでしょうけど」

「ええ、信じられないような話ね」

 それは想定していた言葉だ。芳美を責める気も恨む気もない。ただ、想定外の哀感を覚えてしまう。

「でも」芳美は言った。「わたしは八神さんがうそを言っているとは思えない。アスファルトの隆起が動くことをどう解釈すればよいのかわからないけど、あなたはきっと、何かを見たのよ」

「芳美さん」

 こらえきれずに涙をこぼした。話してよかった、とようやく思えた。

 席をマナの隣に変えた芳美が、マナの肩を抱き寄せた。

「大丈夫大丈夫。何があったのか、もっと詳しく聞かせて」

 芳美の声は、母の声より優しかった。


 停留所でつまずいたときのこと、岸本夫人の口から聞いたこと、空き地で動いていた正体不明の何か、軽トラックを横転させた何か、多田を撮影した動画、多田が登場する悪夢、二人の女子高生の会話、多田が立っているという幻覚――芳美に肩を抱かれながら、マナはそれらをこと細かく話した。

 事情を聞いた芳美は、マナの肩から手を離し、コーヒーを勧めた。

 冷めかかったコーヒーを二人は無言で飲み、飲み終えたあとも、しばらくは言葉を交わさなかった。

「そうか……アスファルトだけじゃなくて、壁の隆起、っていうのもあるのね」

 五分ほどして口火を切ったのは、芳美だった。

「八十過ぎのおじいちゃんの話だとうことですけど」

 マナは念を押した。

「アスファルトと壁の違いはあるけど、大きさや形が符合するでしょう。それに、岸本さんが見たという、土の地面の隆起もね」

 言って芳美は、自分の肩越しに背後を見た。その方向には隣の空き地がある。

「女子高生が話していたことも気になるわ」そう言って正面に向き直った芳美は、テーブルを見つめた。「カラスがアスファルトに飲み込まれた、っていう話よ。野良猫がいなくなったのと関係しているかもしれない」

「それじゃ、まさか人間も――」

 言いさして、マナは口をつぐんだ。

「七海ちゃんの事件のこと?」

 芳美はマナに顔を向けた。この世のものでない何かを見ているかのような目だった。

「そうであってほしくないですが、もし女子高生の言っていたことが事実なら、あの隆起は動物を補食している可能性が……」

 自分自身の言葉に戸惑い、マナはうつむいた。

「でも」マナはうつむいたまま言う。「アスファルトが生き物を食べるなんて、ありえません。そもそも、アスファルトが勝手に動くはずがないんです」

「そうよ、アスファルトは生き物じゃないもの。でも、八神さんは見てしまった。そして、それに関連していそうな噂が新王子団地で囁かれている。信じられないことばかりだけど、無視できないわ」

 そう諭され、マナは顔を上げた。

「わたしにできることって、あるんでしょうか?」

「わたし、じゃなくて、わたしたち」

 芳美は言いきった。

「芳美さん」

 途方もない罪を犯した気がした。少なくとも、芳美を巻き込んでしまったことに違いはない。

「その何かのために犠牲者が出ているかもしれないのよ」芳美は真剣なまなざしでマナを見つめた。「だったら、もうこれ以上の犠牲者を出してはならないでしょう?」

 それはマナの思いと同じである。だからこそ言う。

「はい、そのとおりだと思います。なら、この一帯で何が起こっているのかをちゃんと把握しないといけません。あの隆起の正体が何か、それを見極めなければ、たぶん、手立ては見つかりません」

「そうよね」芳美は頷いた。「主人にも相談してみるわ。わたしたち二人だけでは難しいと思うの」

「二人だけでは確かに難しいですが、秀平さんは信じてくれるんでしょうか?」

「幽霊もUFOユーフォーも信じない人だけど、不可思議な現象には理由がある、と考える人でもあるから、真面目に考えてくれると思うわ」

 秀平が協力してくれるのならば心強い。そしてこれら一連の事象が解決できれば、ここでの生活が平穏なものになるはずだ。そればかりか、ともに難題に取り組めば、井上夫婦との絆がさらに強まるだろう。

「わかりました。秀平さんによろしく伝えてください」

「任せて」

 力強く、芳美は頷いた。

 希望が見えてきたような気がした。

 少なくとも、一人で悩む必要はなくなったわけである。

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