匍匐する腫瘤

岬士郎

第1話

 十月に入って間もなかった。風のない穏やかな日である。新興住宅地に隣接するアパートの関山せきやまコーポに引っ越してまだ二日目だ。

 荷物の片づけをやっとの思いで終えた八神やがみマナは、関山コーポの二階の窓から新興住宅地を眺めていた。午前の日差しのまぶしさに目を細めたのも束の間、フローリングの冷たさによって、スリッパを買い忘れていたことに気づかされる。もっとも、買いものはこの景色を堪能してからでも遅くない。それに午後には、両隣と階下の住戸への挨拶の品を買いに行く予定があるのだ。

 南向きのこの窓から望める景色は、南へと緩い傾斜で下っている斜面に造成された新興住宅地――新王子しんおうじ団地によってその概ねが占められていた。さらなる南と西の外れには雑木林、東には新王子団地の広がりの先に八幡神社の杜――と、それぞれ緑の凹凸が見える。

 新王子団地の街路樹であるハナミズキが、鮮やかな赤い葉を澄みきった秋空の下にさらしていた。それら赤と青のコントラストによって、瀟洒な家並がより彩られている。日曜日とあってか、何人かの子供たちの走る姿が家並みの間に垣間見えた。

 関山コーポのすぐ目の前、すなわち新王子団地の家並みの最北列に、一区画の空き地があった。マナのこの部屋から見れば、やや右寄り――西にずれた辺りである。その土地の両側には家が建てられており、あたかもそこだけが現実の世界から忘れ去られたかのようだった。最北列の南にはセンターラインのある道路が東西に走っており、その南に並ぶ家並みとは適度な距離があるため、日照権は保たれていた。北は関山コーポとの境界であり、二メートルほどの高さの斜面を土留めとしてコンクリートが覆っている。素人目に見ても立地条件に問題はなさそうだ。単に売れ残っているだけ、と受け取るのが一般的なのだろう。

 だがよく見れば、さらに隔たった位置に取り残されているいくつかの土地とは明らかに異なる要因が二つあった。一つ目として、目の前の空き地には、南側の道路に面した間口にトラロープが二重に張られていることだ。遠くに見える空き地にはそれがない。もう一つは、ほかの空き地が雑草に覆われているのに対し、こちらの空き地には雑草がまばらにしか生えていないことだ。敷地のおおかたは、乾いた土が剝き出しになっている。しかしマナは、その土地の関係者でなければ新王子団地の住民でもないのだ。気にしたところで意味はないだろう。

 ふと、窓ガラスに映っている自分の姿が目に入った。

 大学時代の就職活動を機会に、それまでのセミロングヘアをショートに変えたのだが、以来、ずっとこのヘアスタイルだった。このヘアスタイルを褒めてくれた恋人とは、大学卒業の直前に別れた。彼も同じ大学の同期だったが、卒業してからは一度も会っておらず、彼の近況さえ知らない。別れた原因は些細なことだった。見方を変えればその程度の付き合いだったのだろう。だから、未練はなかった。

 その頃から、このヘアスタイルが痛く気に入っていた。ゆえに、ヘアスタイルに合わせてパンツルックスをメインにしたのである。少なくとも、自立した女に近づけた気分に浸ることができたのだ。間違った選択ではないだろう。

「さてと」

 明日は有給休暇だが、やるべきことは今日中に済ませたかった。手を休める暇などない。

 時間節約のため、昼食はカップ麺である。お湯を沸かすべく、マナはキッチンへと向かった。


 新王子団地のある丘陵――その東に位置する平野部に市街地があった。基本的にはJR坂萩さかはぎ駅を中心とした街並みだが、ドーナツ化現象に伴い、駅周辺の商店街は活気が消え、転じて市街地の南北、双方の外れに進出した店舗に客足が集中する結果となった。

 マナが買いものに出向いたのは、市街地の南にあるショッピングタウンだった。関山コーポからは一キロ半の道のりである。スーパーマーケットやホームセンター、書店、薬局、家電量販店などがあり、普段の買いものはここでまかなえそうである。引っ越しの挨拶の品、トイレットペーパーやティッシュ、スリッパ、当面の食材などを購入したが、無論、両手は塞がった状態だ。

 ゆえに、二時間に三本程度の路線バスがすいていたのは幸いだった。徒歩でも行き来できる距離だが、何しろ時間を節約したい。加えて帰り道は、半分ほどが上り坂である。単なる散策なら問題ないが、買いものでの路線バスは必要不可欠だろう。

 地方ではマイカーが必需品であることを、今になって思い知らされた。いわき市の実家でも同様のはずだが、両親に頼りきっていたあの頃のマナに、それがわかるはずがなかった。運転免許はあるが、車はまだ所有していない。今年の春に入社したばかりのマナでもローンを組めばなんとかなりそうだが、ガソリン代や保険代などを無視できず、二の足を踏んでいるのだ。

 もっとも、車があれば楽に通勤できるはずだ。何度も確認してみたが、関山コーポから七キロほどの距離にある職場までは、路線バスで直行することができない。最低でも一度は乗り換えが必要だ。しかも、本数が少ないのである。とはいえ、あさってからの新しいルートでの通勤は、実家から通っていたときより確実に時間を短縮できる。その恩恵だけでもありがたかった。


 最寄りの停留所でバスを降りたマナは、思わずため息をついた。ここから関山コーポまでのおよそ百メートルの上りを、両手に荷物を持った状態で歩かなければならないのだ。

 バスの乗客はマナを含めて四人だった。いずれもがショッピングタウンでの乗車客である。この停留所で降りたのはマナだけだ。

 停留所はコンビニエンスストアの前だ。ここで買い物のすべてが済ませられるのなら、どんなに楽なことか。

 気を取り直して歩き出した、その直後だった。

 歩道の凹凸に足を取られ、転倒しそうになり、右手に持っていたトイレットペーパー十八ロール入りの包装を足元に落としてしまった。それを拾うとしてかがんだ弾みに、左肩にかけていたエコバッグが左腕を伝ってずれ落ちた。その肘を曲げてなんとかエコバッグを引っかけるが、今度は、そちらに持っていたホームセンターのレジ袋を落としてしまう。

「まあ、大変」

 女の声が上がった。

 見れば、三十歳前後の女がコンビニエンスストアのほうからこちらに走り寄ってくるところだった。ほかに人の姿はない。こんな状態でありながら、醜態を大勢に見られていなかったことに感謝してしまう。とはいえ、想定外の出来事を引き起こした原因でもある歩道の凹凸を忌々しく思わないわけがない。

 足元を見下ろしたマナは、息を吞んだ。

 アスファルトの一部が隆起していた。寸法はおよそ、幅が十センチ、差し渡しが三十センチ、高さが五センチだろう。楕円形の隆起である。アスファルトの表面がゆがむ現象は、さほど驚くべきものではない。マナを驚愕させたのは、その隆起が車道のほうへとわずかに移動したことだ。隆起を構成するアスファルトの固まりそのものが移動したのではなく、アスファルトの表面の隆起が波として動いたのだ。

 我が目を疑い、もう一度、目を凝らした。しかし、隆起している箇所などどこにもない。

 引っ越しで時間に追われていたのは事実だ。自分が感じている以上に疲れている可能性はある。

 マナがエコバッグを肩にかけ直していると、走り寄ってきた女が素早くしゃがみ、マナの落とした二つの荷物を拾った。ショートボブに白のカーディガンとジーンズ、というそつのないまとめ方がいかにも主婦なのだが、品のよさそうな整った顔がマナの目を引いた。

「ありがとうございます」

 しゃがんだまま礼を述べ、荷物を左右の手に渡してもらい、マナは立ち上がった。

 女も立ち上がり、そして笑顔で片手を横に振る。

「いいのいいの。それより、こんなにたくさんの荷物を持って、どの辺まで行かれるのかしら?」

「えっと、あの……」

 マナは北の方角に目をやった。斜面に広がる家並みの先に、関山コーポの一部が見える。

「あのアパートなんです」

「あら、関山コーポね」

 女は迷わずにアパートの名前を口にした。

「ご存じなんですか?」

「だって、わたしの家は、関山コーポのすぐ下だもの」

「下って……空いている土地がある辺りですか?」

 マナが問うと女の顔が曇った。もっとも、その表情の変化はほんの一瞬である。「空いている土地」がどこを指すのか、それを思い出そうとして生じた面持ちなのかもしれない。

「そうそう」笑顔を取り戻した女が頷いた。「こちら側からだと、その空き地の右がうちなのよ」

「ということは、わたしの部屋の真下ですね。関山コーポの二階で、右から三つ目の部屋なんです」

「わあ、偶然。だったら、これを早く運ばなくちゃ」

 歓喜した女は、不意にマナの右腕を両手で引いた。

「あの……」

 躊躇しつつも、マナはコンビニエンスストアの出入り口のほうへと引かれていった。

 一台の白いミニバンの左横で、女はマナの腕を解放し、そのリアドアを開ける。

「荷物は後ろに入れて」

「でも」

 遠慮する機会をつかめないまま、マナは両手の荷物を女に奪われてしまう。

 荷物を後部座席の上に置いた女は、リアドアを閉じた。

「さあ、助手席にどうぞ」

 満面の笑みで女はマナを促した。

 疾風迅雷の勢いにマナはただ呆然とするばかりだった。


 ミニバンを発進させた女は、井上いのうえ芳美よしみと名乗った。三十三歳の専業主婦、ということだった。

「そうかあ、八神さんは引っ越してきたばかりなんだね。しかも新卒で四月に入社したばかり」

 ハンドルを握る芳美は、マナの身の上に興味津々といった様子だ。

「職場にはだいぶ慣れたんですけど、自炊ってしたことがないんで……不安ばかりなんですよ」

 助手席でエコバッグを抱えるマナは、肩をすくめた。

「それこそすぐに慣れるわよ。職場と違って誰にも気を遣うことがないんだし」

「言われてみれば、そうですよね」

 わずかに心持ちが軽くなり、マナは肩の力を抜いた。

 そんな会話をしているうちに、ミニバンは関山コーポの北側にある駐車場の前に着いた。

「ここでいいかしら。駐車場に入れたら、叱られそう」

 細い道の左端にミニバンを停めた芳美は苦笑した。とはいえ、駐車場には一台の車も停まっていない。

「右端の枠は空いているそうです。来客などの一時的な駐車ならそこを使ってくれ、って大家さんに言われました」

 マナの言葉を受け、芳美はミニバンを丁寧にバックでその枠に入れた。

「わたしも一緒に荷物を運ぶわね」

 エンジンを切った芳美が申し出た。

「そんな、ここなら大丈夫ですよ」

 しかし芳美は、そそくさと運転席から降りてしまう。

「また荷物を落としちゃうわよ」

 リアドアを開けながら芳美は失笑した。

「でもそこまでしてもらうなんて……」と口ごもりつつ車から降り立ったマナに、ホームセンターのレジ袋が渡された。

「さあさあ」

 促した芳美はトイレットペーパーの包装を持ち、リアドアを閉じた。

 マナが先導して階段を上がり、部屋の前まで来ると、芳美はアパートの廊下や壁、各住戸のドア、北の畑地などに目を走らせた。

「へえ、こんな感じなんだ」

 感心している芳美をよそに、マナは玄関ドアを開けた。

「お茶でも飲んでいってください。お茶よりコーヒーがいいですか?」

 マナは自分が手にしていた荷物のすべてを廊下に置くと、芳美からトイレットペーパーの包装を受け取った。

「いいのいいの。買ったものの整理があるでしょう」

 人には遠慮する隙を与えないが、自分はこうして遠慮する。あくまでも主導権は芳美にあるようだ。

「ひととおりの整理が済んだだけでまだ掃除が残っていますが、キッチンならきれいにしてありますよ」

 マナが告げると、芳美はドアの奥を覗いた。

「じゃあ、あの……」口を濁した芳美が、続ける。「飲み物は次の機会ということで、窓からの景色、ちょっとだけ見せてもらってもいいかしら?」

「ええ、かまいませんよ」

 答えたマナは、芳美を廊下に上がらせ、玄関ドアを閉じた。

 リビングへといざなわれた芳美は、部屋の調度には目もくれず、窓辺に立った。

「新王子団地が、全部見えるんだね」

 感嘆の声、ではなかった。どこか重苦しさが漂う声音だった。

 マナは芳美の横顔を覗いた。専業主婦のその目は、新王子団地を見渡しているのではなかった。自分の家を見下ろしているのでもない。例の空き地、それが芳美の見ている先だった。

 不意に、芳美がマナに顔を向けた。

「あらやだ。滅多に見られない景色だから、つい見入っちゃった」

 その顔にいつの間にか笑みが戻っていた。

 言い知れぬ闇を垣間見たような気がした。それを芳美に尋ねることなどできるはずがない。ただ平静にこのときを過ごすのみだ。

「確かに、滅多に見られない景色ですよね」

 マナは相づちを打った。

「ねえ、八神さん。うちに遊びにいらしてよ。一時間くらいしたら、買ったものの片づけ、済むかしら。あ、掃除もあったんだっけ?」

 そう迫られ、マナは苦笑する。

「ええ、やることがいっぱいで」とはいえ、送ってもらった恩がある。むげにはできなかった。「でも、明日は有給休暇なんです。掃除は夕方にでもさっとやればいいし、買ったものの片づけは明日で問題ないです」

「今、時間を空けられるの?」

「はい」

 できる限りの笑顔で頷いた。

「よかったあ」芳美は小躍りした。「実はね、さっき、チーズケーキを作ったのよ。チーズケーキ、お嫌い?」

「大好きなんです」

 たまらず、事実を伝えた。

「じゃあ、さっそく一緒に行きましょうよ。片づけが明日で問題ないのなら」

「そうですね」

 芳美のペースに巻き込まれているのは承知のうえだ。最低限の警戒心は維持するべきだろう。それでも、新天地での生活を確固たるものにしたい。

 足がかりを作ろうとしている自分に、マナは気づいた。


 二人は再びミニバンに乗った。走り出して一分と経たず、芳美の家の駐車スペースに、ミニバンはバックで収められる。

 車から降りたマナは、二階建ての洋風の家に目を奪われた。ベージュを基調とした色合いが、オープン外構の内側に広がる手入れが行き届いた庭に合っている。

「すごい」

 思わず口にした言葉は、生け垣に囲まれた外構も含めての感想だ。

 周囲を見渡せば、芳美の自宅――井上宅だけでなく、どの家もそれぞれ個性的ではあるが、やはりオープン外構であり、小粋なたたずまいを醸し出していた。

 しかし同時に、隣の空き地も目に入ってしまう。そこだけが、まるで黒ずんだ空間のようだった。

 何やら鼻を突く臭気を感じた。焦げ臭いにおいである。

 マナはとっさに隣の空き地から目を逸らした。

 ふと、臭気が消える。

 気のせいだったのだろう――そう思い、再度、井上宅に目を投じた。

 芳美が車から降りてマナの横に立った。

「さあ、入って」

 促されて入った玄関ホールもマナの目を引いた。生活感はほとんどなく、展示場のモデルハウスのごとく、簡素がゆえの清潔感があった。そのうえ玄関内は吹き抜けとなっており、空間の広がりが胸を高揚させる。

「このおうち、建って間もないんですか?」

 マナが尋ねると、芳美は失笑した。

「もう三年目よ」

「へえ……新築したばかりみたいにきれいですよ。お掃除を小まめになさっているんですね。素敵です」

「ありがとう。でもあんまり褒められると、手を抜けなくなっちゃうわ」

 噴き出した芳美は、マナをリビングへと案内した。

 南東に位置するこのリビングは、午後の日差しが入りにくいが、広い庭はほぼ一望できた。幸いにも、あの空き地は視界にない。真東に見えるのは、井上宅と同じような洋風の家だ。

「かけて待っていて」

 勧められてソファに腰を下ろしたマナは、窓際の電話台に何げなく視線を移した。電話機と並ぶ写真立てがある。

 砂浜らしきところを背景にした写真だった。白いワンピース姿の女は芳美だ。その芳美と並んで立つのは、ポロシャツにジーンズの男である。二人とも笑顔だ。

「この写真の男性は、ご主人ですか?」

 マナが問うと、カウンターの向こうのキッチンに立つ芳美が、こちらに顔を向けた。

「ええ、そうよ。新婚旅行で撮った写真。五年前の写真ね」

「優しそうなご主人ですね。それにかっこいいし。芳美さんも美人だから、お似合いの二人です」

 多少の媚びはあったが、美男美女の夫婦であることに違いはない。

「もう、上手なんだから」芳美は笑った。「まあ確かに、うちの主人は優しいと言えば優しいんだけど、最近は仕事が忙しくて。今日だってそうなのよ。次の講義のための資料を作る、だなんて言って、いつもどおりに出かけちゃったわ」

「ご主人のお仕事って?」

「ああ……神津山かみつやま大学で教壇に立っているの」

 芳美の夫の井上秀平しゅうへいは准教授の地位にあり、年齢は三十五歳だという。

「すごい……大学の先生だなんて」

 今回の賞賛に媚びはなかった。

「すごくはないけど……勤勉なのがとりえのような人だから、それで就いた職なんでしょうね。だって、わたしみたいなのほほんとした女でも、中学校の教員が務まったくらいなんだし」

「ええっ」マナは驚嘆した。「芳美さんも先生だったんですか?」

「たいしたことないわよ。妊娠中絶のショックで退職する程度だもの」

 淡々とした口調だが、話の内容にマナは気負いする。

「ごめんなさい。わたし、余計なことを訊いちゃいました」

 秀平の職業を尋ねたことが余計だったのか、そもそも写真に写っている人物が誰なのかを尋ねたこと自体が余計だったのか。いずれにしても、自分の軽はずみな問いかけを恥じてしまう。

「気にしないでよ。わたしが勝手に話したんだから」

 至って平然と口にした芳美は、やかんをIH調理器に乗せた。

「でも……」

 悄然とするマナに、芳美は笑顔を向ける。

「それより、八神さんはどちらにお勤めなの?」

上手縄かみてなわ工業団地にあるタゴシマ製作所です。そこで経理の仕事を担当しているんです」

「有名な会社ね。結構、忙しいんじゃない?」

「波はありますけど、二時間くらいの残業になることは多いです。バスの本数が少ないから、ちょっと困っているんですけど」

「頑張っているのね。でも、ここと上手縄工業業団地とを結ぶバスってあったかしら」

「乗り換えが必要なんですよ」

「なら、ゆくゆくはマイカー通勤にしたほうがいいかもしれないわ」

「やっぱりそうですか」

 芳美の一言によってマナの気持ちはマイカー購入に大きく傾いた。残業をすればバスを逃す可能性があるのだ。残業をするたびにタクシーを使うなど、そんな余裕もない。この地で暮らすのならば、車の所有は必須なのだろう。長い目で見れば、それが得策であるということだ。

 やがてチーズケーキと紅茶がそれぞれ二人ぶん、テーブルの上に用意された。

「さあ、召し上がって」

 言いながら、芳美はマナの向かいに腰を下ろした。


 芳美のチーズケーキは極上だった。たわいない世間話で二時間ばかり過ごし、マナは井上宅をあとにした。芳美が「送っていくわよ」と申し出たが、さすがにそれは断った。

 井上宅を出て東へ十数メートルほど進み、立ち止まって振り向いた。

 玄関先で芳美が手を振っている。

 マナも手を振り返した。

 おのずと、例の空き地が目に入ってしまう。

 いつの間にか、異臭がマナの鼻腔に入り込んでいた。

 ――やっぱりにおう。

 無理にでも笑顔を作り、そしてマナは歩き出した。


 翌日、有給休暇のマナは、午前九時過ぎに起床した。

 昨夜のうちに、左右と真下の住戸への引っ越しの挨拶を済ませ、買いものの片づけもどうにか終わらせた。そして、今日はテレビを見てゆっくりと過ごす、という予定が念頭にあったのだが、ふと思い立ち、出かけることにした。荷物を運んでくれたこととスイーツをごちそうになったことのお礼を芳美にしたかったのだ。

 ジャケットにジーンズという出で立ちに着替えたマナは、エコバッグを肩にかけると、例のショッピングタウンを目指し、午前九時五十分に関山コーポをあとにした。徒歩での所要時間を知りたかったため、バスは使わなかった。

 市街地へと続くこの道路は国道461号だった。海岸沿いを南北に走る国道6号を起点とし、神津山市坂萩の市街地から西の山間部を抜けて常陸太田市へと入る道だ。とはいえ、お世辞にも「広い道路」とは言えなかった。少なくとも新王子団地から市街地にかけての区間は、片側一車線であってもバスがどうにか擦れ違える程度だ。東に向かって左側にしかない歩道も、いかんせん狭い。

 薄曇りだった。落ち葉を踏みしめる音が、弱い秋風を体感以上に冷たく感じさせる。

 結局、午前十時十二分にはショッピングタウンの大駐車場にたどり着くことができた。

 買いものをする前に、大駐車場の西沿いを南北に走る道路――その歩道に立った。この道路は市街地で南に九十度向きを変えた国道461号である。先ほどまではさほど広く感じられなかったこの国道だが、ショッピングタウン付近では、車道の幅に余裕があり、歩道は両側に造設されている。

 この国道をさらに五百メートルほど南下した辺りの向かって右に、広々とした施設があった。何棟かの巨大な建造物が建ち並んでいる。それが芳美から聞き知った神津山大学だった。すなわち、井上秀平の職場である。

 二キロほどの通勤距離だが、秀平は軽自動車で通勤しているという。ウォーキングを兼ねるのなら、少なくともマナにとってはちょうどよい距離だ。しかし、大学の准教授ともなればそれなりに荷物はあるだろう。まして悪天候のときもあれば、帰りが遅くなることもあるはずだ。

 秀平にはまだ会っていないが、彼の日常を垣間見たような気分だった。井上夫婦は自分にとって手放してはいけない心強い味方である――そんな心持ちがさらに強くなっていた。


 帰路も徒歩にした。所要時間はわずかに増す程度だが、上りであるため、行きよりも確実に疲労感があった。

 エコバッグに入っているのは二本のワインボトルだ。井上夫婦は二人とも酒をたしなむらしい。夫婦は特にワインが好みということだったため、迷わずに選んだのだ。そのまま渡すのも芸がないため、ラッピングは施してもらった。

 腕時計を見ると、午前十一時を十五分ほど回っていた。そろそろ昼時だが、今から訪ねてすぐに辞去すれば、芳美を煩わせることもないだろう。

 平日とあってか、新王子団地に人の姿は見られなかった。

 北の斜面を見上げると、関山コーポがこの新興住宅地を静かに見下ろしていた。集合住宅のそれが一戸建て住宅の群れを監視しているかのようでもあった。

 新王子団地内を東西に走る道を、マナは西へと歩いた。井上宅は目と鼻の先である。そして同時に、あの空き地にも近づいていた。

 井上宅を前にして、マナは途方に暮れてしまった。芳美のミニバンがないのだ。無論、秀平の軽自動車とやらもない。

 この駐車スペースは井上宅の家屋に遮蔽されてしまうため、自分の住戸の窓から見下ろして芳美の帰宅を確認するのは困難だ。一秒も欠かさずに窓際で監視すれば、芳美のミニバンが戻ってくるところをとらえられるだろうが、その方法はどう考えても現実的ではない。

 面倒ではあるが、二、三時間後に訪ね直したほうがよいだろう。

「井上さんにご用事?」

 きびすを返そうとしたとき、背後から声をかけられた。

 小太りの初老の女だった。ラフな服装からして近所の主婦という印象である。どうやら散歩の途中らしい。

「ええ、井上さんの奥さんに用があって。でも、留守のようですね」

「ここの奥さんは、お昼前後は買いものに出かけることが多いみたいよ。二時過ぎには帰っているんじゃないかな」

 女は言った。

「そうですか。なら、またあとで来てみます」

「何度も足を運ぶのは大変でしょう?」

 話がくどくなりそうな予感がした。マナは愛想笑いを作り、立ち去ろうとした。

 ふと、女が隣の空き地に目を向け、渋面を浮かべる。

「あんなことがあったんでは、ご近所が迷惑よねえ。井上さんご夫婦も、さぞかし不安だったでしょうに」

 これで立ち去るわけにはいかなくなった。

 マナは率直に尋ねてみる。

「あんなこと、ってなんですか?」

「知らなかったの?」

 さも驚いたように、女は目を丸くした。

「この近くに越してきたばかりなんです」

 余計なことは口にしたくなかったが、情報を引き出すには必要な手段だった。

「そうだったの」

「それで」自分の素性を尋ねられる前に、マナは話題を元に戻す。「あんなこと、というのは?」

「二カ月くらい前に」女は声を潜めた。「ここで火事があったの」

「この空いている土地でですか?」

「そうよ」女は周囲に目を配り、そして続ける。「未だに、焦げたようなにおいが漂うことがあるくらいなの。しかもその火事で一人、亡くなっているし」

 エコバッグがかすかに震えていた。

 マナは見下ろした。

 震えているのは、エコバッグのベルトを握る自分の手だった。


 関山コーポに戻ったマナは、荷物を床に置くと、ベッドの端に腰を下ろした。

 西日が部屋に差し込んでいた。白い壁紙がオレンジに染まっている。そんな黄昏どきの空間の中で、マナは女の話を回顧した。

 火事が起きたのは土曜日の夕方だった。週末の団らんを過ごしていた近隣の住人たちは騒然となったらしい。その火事で命を落としたのは三十六歳の男で、建築現場作業員の多田ただ勝雄かつおといった。その家の主だったそうだ。妻の涼子りょうこ、中学生の娘である颯來そら、との三人暮らしだったが、涼子と颯來の消息は、火事以来、もしくはそれ以前から不明とのことだった。

 ほぼ全焼だったようだ。焼け跡から見つかった身元不明の焼死体は、内蔵などのDNA鑑定で多田であると判明された。隣家への延焼がなかったのは不幸中の幸いだった。

 焼け落ちた家屋の近くからガスバーナーが見つかったのだが、それは多田の所有物らしい。事実、多田がそのガスバーナーを使って庭の雑草を焼いているところを、近隣の何人かの住人が火事の数時間前に目撃していた。どうやらそのガスバーナーの見つかった辺りが火元らしく、ガスバーナーの火の不始末が火事の原因とみられている。

 だがこの火事において、不審な点が二つ、発覚した。

 一つは、焼け跡から見つかった耐火金庫とその中に入っていたものだ。縦横高さのいずれもがおよそ五十センチの耐火金庫は、扉は閉じてあったが解錠してあったらしい。しかも中に収められていたのは、一冊の本のみであり、あろうことか、神津山大学付属図書館で紛失していた書物だった。

 もう一つは、事情聴取のために警察が涼子に連絡を取ろうとしたのだが、颯來とともに行方がつかめていない、という事態だ。親族や知人にも音沙汰がないらしい。颯來が通う中学にも音信はなかった。

 実のところ、この界隈においてはそれらの不審な点は取るに足りない問題だった。たとえ不謹慎であろうと、新王子団地の大半の住人は多田の死を歓迎していたのである。

 多田は何かにつけて強い口調で周囲に苦情をぶつけていた。そもそもその苦情というのが、ほぼ言いがかりである。

 ――子供の声がうるさい。

 ――テレビの音がうるさい。

 ――車のドアの閉じる音がうるさい。

 そのくせ多田本人は、夜中でも家の外で怒鳴り散らしていた。

 被害者は多田の妻子も含まれていた。涼子と颯來は肩身の狭い思いを強いられていたわけである。そのために二人は出ていったのではないか、と初老の女は自分の見解を打ち明けた。もしかすると火事の原因は涼子か颯來、もしくは二人の共謀による放火かもしれない、とまで語る始末だ。

 無論、井上家も多田の標的だった。音の問題だけではなく、夜間に帰宅すれば車のヘッドライトがまぶしいとか、食事の支度をすればにおいが漂ってくるなど、ありとあらゆる難癖を突きつけてきたのである。

 女は「多田さんの旦那さん、ここに住み始めたばかりの頃からずっとそんな感じだったわねえ。涼子さんと颯來ちゃんはおとなしい感じなのに」と言って話を締めくくった。

 我に返ったマナがテーブルの上の置き時計を見ると、正午を十分ほど過ぎていた。

 立ち上がり、窓から井上宅を見下ろす。

 芳美が帰宅したか否かは、もちろん確認できない。

 とりあえず昼食を取ることにし、キッチンへと向かった。


 午後三時を回ったところで、ワインボトルの入ったエコバッグを片手に、マナは関山コーポをあとにした。

 井上宅には二分ほどで着いたが、その駐車スペースには二台の車が停まっていた。

 視界に隣の空き地が入らないように意識した。それでも、焦げ臭いにおいがわずかに感じられる。

 呼び鈴を鳴らすと、間を空かずに玄関ドアが開いた。顔を出したのは、眼鏡をかけた三十代とおぼしき男だった。ノーネクタイであるが、ワイシャツにスラックスという姿である。間違いなく、写真の中で芳美と並んでいた男だ。

「こんにちは。わたし、芳美さんにお世話になりました八神マナと申します」

 マナが自己紹介すると、男は相好を崩した。

「あなたが八神さんか。芳美から話は聞いているよ。ぼくは芳美の夫の秀平」そしてその男――秀平は、奥に向かって口を大きく開いた。「芳美、ほらほら、八神さんが尋ねてきてくれたよ」

「はーい」

 芳美の元気な声が返ってきた。

 五秒と経たないうちに普段着姿の芳美が現れた。

「いらっしゃい。グッドタイミングよ。わたしと主人、申し合わせたわけでもないのに、ほぼ同時に帰宅したばかり。そこにマナさんがやってきたわけ」

 状況を説明した芳美が、くすくすと笑った。

「そうだったんですか」相づちを打ったマナは、包装紙に包まれた二本のボトルをエコバッグから取り出す。「あの、これ、お口に合うかどうかわかりませんけど、どうぞ召し上がってください」

「ほう、これはすごいな」

 満面に笑みの秀平が、二本のボトルに右手を伸ばした。

「ちょっとあなた」芳美が秀平のその手を片手で軽く叩いた。「お行儀が悪いわよ」

「あ、いや。これは失礼」

 秀平はマナに向かって苦笑しつつ、引っ込めた手で頭をかいた。

 とはいえ、このワインを渡さずに帰るわけにはいかない。

「昨日のお礼なんです。受け取っていただけたら嬉しいんですけど」

「これから長いお付き合いになりそうなんだし、いちいち気を遣っていたら、お金がいくらあっても足りなくなるわ」

 そう訴えた芳美に、秀平がおずおずと言う。

「でもなあ、せっかく買ってきてくれたんだよ」

「もう、あなたったら、お酒には目がないんだから」芳美は呆れたように言うと、マナに顔を向けた。「そうね、せっかくだからありがたくいただくわ。ところで、時間、あるんでしょう?」

「え……はあ、少しなら」

「さあ、上がって上がって」

 芳美がマナを促すと、秀平も同様に声をかけてくれた。

 辞退する旨を何度か口にしたマナだが、結局、井上夫婦の強い誘いを断ることはできなかった。


「ぼくたちの留守中に、うちの前で岸本きしもとさんの奥さんと会ったんだって?」

 テーブルを挟んだソファに腰かけるなり、秀平が尋ねてきた。

 勧められて先にソファに腰かけていたマナは、思わず目を泳がせてしまった。話題を逸らすべく言葉を探すが、不自然な受け答えは秀平の心証を害する可能性がある。

「岸本さんの奥さんって、あのおばさん……ですか?」

 とりあえず、適切な会話を成り立たせるすべを見つけるまでの時間稼ぎをした。

「そう、あのおばさん、だよ」秀平は失笑した。「ぼくの車が家に着いた直後に芳美の車も到着してね。まあ、二人ともそれぞれ買い物に出かけていたわけなんだけど……で、二人で玄関に入ろうとしたら、岸本さんに声をかけられたんだ。留守中に若い女性が尋ねてきた、って伝えてくれたよ」

「そうだったんですか」

 マナはどうにか笑みを作った。このまま差し障りのない話題に持っていきたい。手土産のワインをネタにしようと思いつく。

 だが、秀平の口が開くのが早かった。

「岸本さんは、隣の土地のことを話したそうだね」

 へたな取り繕いは無駄であると判断し、マナは「はい」と答えた。

「陰気な話題だからあまりふれたくなかったんだけど、聞いちゃったんならしょうがないさ。それにしても、岸本さんの奥さんは結構おしゃべりだなあ」

 秀平がそう漏らすと、キッチンで紅茶の準備をする芳美が、ふと手を休めた。秀平はキッチンに背中を向けているが、その背中を芳美は睨んでいる。

「しょうがないでしょう。主婦なんてそんなものよ。岸本さんの奥さんのこと、悪く言わないでね。いつもお世話になっているんだから」

「わかったよ。ごめんごめん」

 芳美を振り向きもせずに、秀平は苦笑した。

「ところで」芳美はマナに視線を移した。「隣の土地のこと、マナさんも気になっていたんじゃない?」

 この期に及んでしらを切る必要はないだろう。むしろ、尋ねたいことは山ほどある。

「はい。ロープが張られていたり、焦げ臭いにおいがしたり、かなり気になっていました。でも、わたしから訊くのは不謹慎かと思って、黙っていたんです。お隣の焼け跡から耐火金庫が見つかったそうですが……しかもその中に入っていたのは、神津山大学付属図書館で紛失した書物だったとか?」

「そうなの」芳美が答えた。「耐火金庫にあの本以外に何も入っていなかったことが不自然なんだけど、どうしてあの本が多田さんの家にあったのか、それが一番の謎よね」

 その意見に否定の色を浮かべた秀平が、わずかにキッチンに顔を向けた。

「前にも言ったけど、多田さんが盗んだに決まっているよ」

「だって証拠がないでしょう。軽はずみな言動はよくないわ」

 芳美はそう返すが、秀平に折れる気配はない。

「あの本は、貸し出し不可であるうえ、閲覧するのでさえ許可が必要なんだ。ぼくにとってはなんの価値もない本だけど、その筋の人間ならば、自ら高値をつけてほしがるさ」

 その言葉をどう受け取ったのか、芳美はため息をつくと、紅茶の準備を再開した。

「多田さんのご主人はその本が神津山大学付属図書館にあることを知っていたんでしょうか?」

 最初に抱いた疑問を、マナは秀平にぶつけてみた。

「火事が起きる四カ月ほど前からうちの大学で付属図書館の外構の補修工事が始まったんだけど、その作業に多田さんが携わっていたんだよ」

 岸本夫人の言葉が脳裏をよぎり、マナは相づちを打つ。

「そういえば、多田さんは建築現場作業員だった、って聞きました」

「うん」秀平は頷いた。「たまにその作業の様子が目に入ったんだけど、多田さんは手を休めて遊んでいることが多かったな。付属図書館の学芸員と立ち話をしていたり」

「学芸員と、ですか?」

「学芸員だけじゃなく、学生とかも話し相手だったようだよ。しかも、話し相手となっていたのは女性ばかり。学芸員も、若い女性だった」

「それって、なんというか……」

 口にするには抵抗があった。秀平の言葉を待つ。

「根っからの女たらし、だったわけだね」

 呆れた様子で秀平は言った。

「その意見にはわたしも同感だわ」大きめの丸皿と三つのティーカップを載せたトレーを持った芳美が、リビングテーブルの横に立った。「わたしも嫌らしい目つきで見つめられたことが何度かあったけど、ご近所の若い女性の多くも、同じ目に遭っていたみたい」

 マナの前にティーカップが置かれた。クッキーの載った丸皿はテーブルの中央である。

「そんな多田さんが、学芸員との会話であの本の存在を知ったんだ。火事の現場から本が無事に見つかったあとに、警察がその学芸員から聞き出したらしい。学芸員も、まさかこんなことになるとは想像だにしていなかったんだろうけど」

「でも多田さんが盗んだなんて、物的証拠がないでしょう」

 言いながら、芳美は秀平の前にティーカップを置き、その隣に三つ目のティーカップを置いた。そして、三つ目のティーカップを前にして、秀平の隣に腰を下ろす。

 紅茶のすがすがしい香りが漂った。陰鬱なこの話題にはそぐわない香りだ。

「確かに状況証拠しかないよ。それでも警察は、多田さんが犯人であると睨んでいる」

 秀平の中で確立した「多田が真犯人である説」は、覆ることはなさそうだ。いずれにしても水掛け論である。マナは別の疑問を俎上に載せてみる。

「ところで、その本……って、どんな本なんですか?」

 マナが問いかけると、秀平と芳美は顔を見合わせた。まるで、マナが禁忌の対象にふれてしまったかのような空気である。

 井上夫婦はマナに顔を向けた。口を開いたのは秀平だった。

「とある魔道書の貴重な日本語版なんだ」

「魔道書……魔術とか儀式について書かれてある本ですか?」

「うん、そういう本だよ」秀平は答えた。「西暦七三〇年にアラビア語で書かれて、九五三年にはギリシャ語に翻訳されたんだ。その後、スペイン語版やラテン語版、英語版などが刊行されたけど、禁書に処されたものが多いんだ。で、貴重な日本語版、って言ったけど、実のところ、江戸初期に書かれたその日本語版は、省略された部分が多くあって、ギリシャ語版の五分の一程度の情報しか記されていない、と言われているよ。まあ、ぼくはどの版も読んだことがないんだけどね」

「多田さんは学芸員からその本が神津山大学付属図書館に所蔵さえていることを聞いて、まんまと盗み出した。そしてそれを売ってお金に換えようとしていた。……そういうことでしょうか?」

「少なくとも」芳美は秀平を横目で睨んだ。「うちの主人はそう思い込んでいる」

「くどいくらいに突っ込んでくるなあ」

 渋面を呈した秀平だが、芳美の臆しない顔を一顧するなり、口をつぐんでしまう。

「とりあえず」芳美はマナを見た。「魔道書の話はあとにして、くつろぎましょうよ。冷めないうちに紅茶をどうぞ」

 話を中断させたくない気持ちは大いにあるが、勧められたものを拒むのも無作法と認識した。

 マナはティーカップに手を伸ばした。


 自分から重い話題にふれるのを厭わしく感じたマナは、井上夫婦のどちらかが口にするのを待っていた。しかし、魔道書の話はもとより、多田に関する話がティータイムのあとに再開されることはなかった。確かに、楽しいひとときを台無しにする話題ではある。差し障りのない時事ネタが、延々と続いただけだった。

 午後四時半には、マナは関山コーポ戸に戻っていた。早めに入浴を済ませ、夕食の準備をしている途中で、ふと、その手を休めた。

 ダイニングチェアに腰を下ろし、テーブルの上のスマートフォンを手に取った。インターネットブラウザを立ち上げる。

 最初に打ち込んだ検索キーワードは「神津山市」「火事」「多田勝雄」だった。関連する記事は三つほどヒットしたが、どれもがマナにとっては既知の事実を載せているだけだった。おまけにどの記事も、焼け跡から見つかった耐火金庫に入っていたものを「神津山大学付属図書館で紛失した書物」としか表記していないのだ。「魔道書」という神秘的かつ戦慄すべきキーワードには、まったくふれていなかった。

 続いて、その魔道書について検索することにするが、そこで初めて、肝心の書名を聞いていなかったことに気づいた。もっとも、手立てはいくらでもある。とりあえず、「魔道書」「西暦七三〇年」「アラビア語版」「ギリシャ語版」「スペイン語版」というキーワードで検索してみた。

 ヒットしたいくつかの記事を斜め読みすると、魔道書の原題が『アル・アジフ』であること、そして西暦九五三年に刊行されたギリシャ語版からは『ネクロノミコン』という書名になっていることがわかった。とはいえ『アル・アジフ』や『ネクロノミコン』の内容については、懐疑的に扱われているのがほとんどだった。「好事家が戯れで書いた本」だの「西洋魔術の指南書にはほど遠いでたらめな書物」などという批評が目立った。さらには「この魔道書の日本語版は存在しない」という記事が見つかったほどである。

「なら、神津山大学付属図書館に所蔵されていた魔道書はなんなの?」

 独りごちたマナは、「日本語版」というキーワードを加えて再検索した。そして、ヒットした記事のいくつかに目を通す。

『死霊秘法断章』――どうやらそれが『アル・アジフ』や『ネクロノミコン』の日本語版らしい。三冊が存在し、一冊は神津山大学付属図書館に所蔵されているという。だが、その内容についての紹介文などは見つからなかった。

 いずれにしても、焼け跡から見つかった魔道書が『死霊秘法断章』であることは間違いなさそうだ。

 マナはスマートフォンをテーブルに置くと、リビングへと移り、窓辺に立った。

 眼下に井上宅とその隣の空き地がある。

 火の不始末が原因とはいえ『死霊秘法断章』なる魔道書を盗み出したことが因縁となって起きた火事、などと夢想してしまうのは、これらの情報を目にした人間なら至極当然ではないだろうか。

 西日に照らされた空き地で何かが動いたように見えた。

 マナは目を凝らした。

 猫ほどの大きさの何かが空き地の中央付近で走り回っている――そんな光景を目にした気がしたのだが、そこには乾いた土があるだけだった。

 ――土が動いた?

 ばかな妄想も休み休みにしろ、と自分自身に言い聞かせようとして、不意にとある光景が蘇る。

 芳美と初めて会ったあのバス停、そこでの出来事だ。足元のアスファルトの隆起が移動した、と錯覚したはずだが、あれは本当に錯覚だったのだろうか。

 十秒ほど呆然と空き地を見下ろし、そして首を横に振った。

 自分は現実の世界で生きているのだ。幽霊がまやかしならば、妖怪などは空想の産物である。新しい土地での生活が始まったばかりで、緊張しているだけ――そうに違いない。

 マナは自分自身を納得させた。

 納得したつもりでいた。

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