幕間.堕ちた聖女は記憶を辿る


 大切なものがたくさんあった。そんな気がする。


 ――いい? よく聞いて。私はね、神様のところへ行くの。


 記憶の波が、ゆらりゆらり。寄せては返しを繰り返す。

 波打ち際の砂山みたいに、私の過去は奪われてゆく。


 ――だからどうか、悲しまないで。ずっとずっと見守ってるから……


 抱き寄せたのは、誰だったのか。もう少しで思い出せそうなのに。

 記憶の欠片を掬い上げても、指の隙間から零れ落ちるだけ。




 けれど、今日の私は、いつもと違う。

 覚えているのだ。気が遠くなるほど繰り返した日々を。涙を流して耐えた苦難を。そして、最後に聞こえた〝あの子〟の声を。



「私は……」



 幾星霜の月日を過ごした狭い部屋を見渡す。憑き物が落ちた気分だった。どうして突然記憶が蘇ったのかはわからない。わからないから、尋ねようと思った。あの人に……ずっと私の傍にいてくださった、あの方に。


 あの方はここには入って来れない。だから、私がに行かなくては。方法は知っている。毎日、あの方が連れ出してくださったから。

 それは容易いことだった。古びた鏡に手を触れる。そして〝外へ出たい〟と望むだけ。私が望めば、足元から風が巻き上がるような感覚とともにへと出ていけるのだ。


 戒められている私は、遠くへ行くことはできない。でも、あの方のお役に立つことくらいはできるだろう。



「お、〝お父様〟」



 あの方……お父様はいつも通り、鏡の傍にいらっしゃった。

 お父様を見ると、私はいつも言いようのない恐怖に駆られる。けれども今では、その感情が何なのかをはっきりと理解できる。これは、畏怖だ。



「なんだ。自分から出てこれたじゃないか」



 お父様はあの低く響きわたる声で応えてくださった。全てを思い出した今では、身体の芯まで揺さぶる声が心地よく感じられる。



「私、どうして急に何もかもを思い出せたのでしょうか」


「記憶を取り戻したのはフィラデルフィアの娘のお陰だ。お前の遠い血縁に当たる。今までの〝仕事〟がようやく報われたな」



 〝彼女〟と接触したのは私が眠っている時だったという。いずれまた会えるとお父様はおっしゃった。



「これでようやく次に進める。ここまで、長かったな」


「私……やります。きっと、やり遂げます」



 これは私にしかできない仕事。そして同時に、誰かを傷つけてしまう仕事。私のせいで泣いてしまう人もいるだろう。苦しむ人もいるだろう。

 ごめんなさい。でも、やらなくてはならないの。

 私はもう嫌われ者だから、これ以上失うものは何もない。



「彼女が〝道〟を作ってくれたはずだ。すまない……お前にしか頼めないのだ」



 お父様を救えるのは、私だけ。それだけで私は奮い立つ。

 私はひとつ深呼吸して、黙ってこくりと頷いた。

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