四章 偽装する殺人 2—1

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「じゃあ、僕は出かけてくるから」


 そう言って、八波は出ていった。二、三時間ほど前だろうか。


 蘭は一人でユニットバス式の浴室に監禁されている。


 八波が硫酸をとりだしたときには、どうなるかと思った。ひとまず、蘭が言いくるめ、難は逃れたが……。


 しかし、浴室のドアは外から重いもので押さえられている。


 手足をしばられたままの蘭には、開閉は困難だ。


 ロープは自力で、ほどけそうにない。


 現状、蘭にできることと言えば、カベに耳を押しあてて、隣室の気配をさぐることぐらい。


 となりに人がいれば、大声をだして助けを求めてもいい。


 だが物音がしないから、無人のようだ。


(今、叫んでも、ムダだな。体力は温存しとこう)


 ここがホテルだということは確かだ。部屋の内装。間取り。


 それに、出ていくとき、八波がカギをポケットに入れた。


 ちらりとしか見えなかったが、ルームナンバーが書かれていた。


 頭に30……と、ついていた。ここは三階のどこかだ。


(そうだ。猛さんは念写ができるんだ。この場所を猛さんに伝えることができれば……)


 もっと早く気がつけば、よかった。


 猛が一日に写せる念写は三枚ていどだ。蘭をさがすために、すでに、それ以上、写してないことを願うばかりだ。


(どこかにホテルの名前が入った備品がないかな)


 イモ虫みたいにバスルームの床をはいながら、蘭は、それをさがした。タオルは無地。ネームもない。でも、石けんか歯ブラシくらいは名前が入ってるはず。


 蘭は洗面台の前まで、はっていった。洗面台を支えにして、どうにか立ちあがる。


 しかし、すでに石けんは包装が、やぶられていた。カミソリや歯ブラシは見つからない。凶器になるとでも考えて、八波が持っていったのかもしれない。


(ダメか……)


 蘭は、あきらめかけた。


 が、そのとき、洗面台の下にゴミ箱があることに気づいた。


 のぞきこむと……あった! 石けんをつつんでいた包装紙。


 半分に、ちぎれている。


 背中でしばられた両手をゴミ箱に入れ、手さぐりで、つかむ。半分だけ、とれた。それを床に置き、体の向きをかえて読む。


(京都新——何?)


 残り半分をとりだそうとしたときだ。

 声が聞こえた。浴室の外だ。部屋のなかに、誰かが入ってきたのだ。しかも、一人じゃない。言いあらそっている。

 一人の声は八波のようだ。

 もう一人は誰だろうか?


「……まだだけど、わかってる」


「早くしろ。おまえがせえへんのなら、おれがやる」


 どこかで聞いたことのある声だ。ドア越しで、はっきりしないが、男であることだけは断言できる。


(男——それも、僕が知ってる人……)


 やっぱり、あの人だろうか。

 僕を殺したいほど憎んでいるのは?


 最初から疑っていた。猛に指摘されるまでもなく。

 正雲で八波が待ちぶせていたことを知ったとき。そんなことができるのは、あの人しかいないと。


 あの日、あの場所に蘭が行くことを予想できたのは、その人だけだから。


 だから、翌日、ふたたび会うことにした。

 こっちから仕掛けた日にも八波が現れれば、その人と八波は間違いなく、つながっていることになる。


 あの日は、猛と二人で尾行し、その人が自宅へ帰るのを見届けた。いったんは事件と無関係なのかと思った。


 だが、やはり八波は現れ、殺人は起こった。


(やっぱり、あなたですか? 桜井さん)


 蘭には、沙姫がイジメられていることに気づけなかった負いめがある。そのため、猛にも相談しなかったが……。


 いよいよ、八波以外に、もう一人、男が事件にかかわっているとわかった。


 この事実を、なんとかして、猛に伝えたい。


 バスルームの外では、言いあらそう声が、やや高くなった。


「待って。これだけは、僕にやらせてほしい。でないと、これまでのこと全部、警察に話す」

「……わかった」

「五分でいい。時間をくれないか。お別れしたいんだ。今の彼は見おさめだから」

「そんな時間はない」

「じゃあ、三分。三分でいいから」

「わかった。早くしろ」


 足音が一人ぶん、浴室に迫ってくる。


 蘭は、あせった。


 まだホテルの名前もわかってない。急いで石けんの包装の残り半分をとりだした。


 ドアがひらく。

「蘭。約束のときが来たよ」

 八波が入ってきた。

 硫酸のビンを手にして……。

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