紅血姫と魔眼の少年
原 マコト
前編
木々の間からもれる夕日。その割れ目を避けるように暗い森の中を一人の女性が
歩いていた。
(ぬかったか……)
彼女は人間ではない。五百年以上の年月を生きた最高位の吸血鬼。
ルビーのような深紅の髪に淡い翡翠の瞳。老若男女一様に目を奪われる美しい顔立ち。背が高く豊満な体型はさながら一流の彫り師が制作した彫刻を体現しているようだった。
容姿だけではない。一度その細腕を振るえばたちまちのうちに建物は破壊され砂塵とかす。五十年ほど前に彼女の怒りを買った小国が三日のうちに滅ぼされた。そ
だけでどれほど危険な人物かがよくわかるだろう。
尋常ではない魔力を宿しているが、化け物と呼ぶにはあまりにも似つかわし
ない美貌。畏怖と敬意をこめていつからか彼女はこう呼ばれていた。
紅血姫(こうけつひめ)彼女自身もその名前が嫌ではなかった。人間にして
センスがある。事実血まみれの死体の中心に立っていても失わない高潔さを彼女は自負としていたし、何よりも誇る実力に絶対的な自信があったからだろう。
しかし、いま、その面影はまるでない。
自分と敵対した相手による返り血で髪はベットリと濡れ、身にまとうドレスはずたずた。全身には深い傷が絶え間なく刻まれ千切れかけている左腕はちょっとした弾みで取れてしまいそうだった。
満身創痍。吸血鬼であるはずの自分がまさかこんなことになるなんて、紅血姫自身、思いもよらなかっただろう。
五百年以上生きてきた中で、紅血姫に挑むものはいなかったわけではない。しかしいくら数を揃えようが、どれだけの豪傑、英雄をそろえようとも彼女に一蹴され敵うもの誰もいない。
だから今回も返り討ち。そのはずだった。
だが、結果はどうだ。汚い罠と姑息な人海戦術。八割の敵は倒したものの紅血姫は死に体となり三百年住んでいた廃城からも逃走を余儀なくされた。
気品は枷として行動を制限され実力からくる絶対的な自信は油断となり、その部分を突かれた。
(この私が……!)
敗北の原因を考えてもしかたがない。紅血姫は屈辱に耐えながらずたぼろとなった体を引きずって、ただただ前に進む。
回復する余裕はない。無尽蔵にあったはずの魔力は既に空っぽだ。戦闘のせいだけではない。逃走による長距離移動魔法が原因だった。
とにかく遠くへ。彼女が最後に願ったのはそれだけだったため紅血姫はいまのところ、ここがどこかすらわかっていない
澄んだ空気。緑溢れる生い茂った森の中。わかることと言えばそれだけだ。
幸いだったのは移動した場所が地面で人目につかなかったことか。海や町中あればいまの自分には抗うすべはなかったと紅血姫は自嘲気味に笑う。
「くっ……!」
たったそれだけの仕草で、全身から鈍い痛みが走る。
無理もないだろう。立て続けの戦闘に莫大な魔力を消費した長距離移動魔法。加えて半日もの間、ぼろぼろの体を引きづりながら暗い森を歩いてる。吸血鬼という人間よりも強固な肉体を有しいても、とっくの昔に彼女は肉体は限界を超えていた。
だからだろう。些細なきっかけさえあればその線はぷっつりと切れる。
頭上が木々に隠れ、間から漏れる夕日くらいしか見えなかった森の中、その前方が不意に明るくなる。木の根に足がつまずかないように下を見ていた紅血姫だたが、目の前にできた影に気づき顔を上げた。
次の瞬間、紅血姫の視界が、真っ赤に埋め尽くされた。
それはヒガンと呼ばれる花。放射線状に咲いた紅い花弁は吹いた風によって無数に舞い、彼女の鉄くさい匂いを上書きするように清涼とした香りが辺りに漂っている。
嗅いだ瞬間、紅血姫の体から何か大切なものが失われていく。とうに迎えていた限界を自覚するように。
それでも紅血姫は歩こうとするが、歩調は遅くなっていき、倒れることはなかったが、花畑の中心で膝をついてしまう。既に動ける体力も気力も彼女には残されていなかった。
ついには段々と瞳を開く力すらも徐々に奪われていく。周りが完全に見えなくなれば二度と紅血姫は目を覚まさずその命は散ってしまうことだろう。。
(ああ……)
だが、彼女に後悔はない。
こんな花々の中で今生を終えるのならそれも悪くない。紅血、と人々から勝手につけれた名だが、この場所で死ぬのであれば似つかわしい最後だろう。
そう紅血姫が皮肉るように苦笑し、深いまどろみに身を任せようとしたとき。
「だ、大丈夫ですかッ⁉」
その声は、途切れかけた意識の中でも、たしかに彼女の耳に届いた。
「ち、血の匂い……⁉ あ、あのッ! 怪我してるんですかッ!」
「……どこの誰かはわからないが……うるさい」
立て続けに喋ってくるうるさい声に紅血姫はたまらず口を開く。そんなものこの体を見れば否応でもわかるというだろうに。
「あっ。す、すいません」
紅血姫からの鋭い非難を浴びてその声は申しわけなさそうに謝罪してくる。
「僕、目が見えなくて……」
続けた言葉を聞いて、紅血姫は沈みかけていた意識を浮上させた。
膝をついた彼女の頭上にいたのは一人の少年。見るからに弱々しい顔立ちは心配そうに紅血姫に向けられている。
だが、目の奥。そこには色がなく透明なガラス玉のような瞳が広がっているば
りだった。
なるほどと紅血姫は納得する。いまの自分の姿を第三者が見れば萎縮するのは明らかだ。いや、むしろ化け物だと呼ばれ殺されてもおかしくはないだろ。そうではなかったのは相手が単に目が見えなかっただけ。
「余計なお世話だ。人間のそれも盲目なんぞに助けをこうほど落ちぶれてはい
い」
紅血姫は少年からこの場を立ち去るようにきつい口調で促す。事実死を選んでいた彼女にとって彼は邪魔者以外の何物でもなかった。
「あっ。あの、たしかに僕は何も見えないんですけど、あ、あなたをつれて帰
くらいのことなら……」
「黙れ。これ以上私の眠りを妨げようとするのなら、相応の覚悟をしてもらお
か」
しどろもどろになりながらも喋る少年の言葉を、しかし途中で塞ぐように、紅血姫は言い返す。
いまの紅血姫には少年一人殺す力すらない。しかし、過去、多数の人間を葬ってきた殺意は健在だ。刺すような鋭い口調はだいの大人ですら怯ませる威圧感を伴っていた。
それは目の前にいるただの少年には充分な効果が発揮されたはずだった。
「うん。覚悟はしているよ」
けれど、少年は怯むことはなかった。
「だから、その前にせめて怪我の治療をさせてくれないかな?」
どころかいままでの弱々しい態度を消し、紅血姫へと手を伸ばす。
「なぜ……」
「えっ?」
「どうして私を助ける」
死に体となっている自分を助けたところで意味などない。紅血姫にとってそ
わかりきったことで、だからこそ少年の意図が読めず率直な疑問が口からこぼれる。
対して少年は何がおかしいのかクスリと笑う。それは一人の女の子に向けるような微笑みだった。
「簡単なことだよ」
少年は悪意も害意もなく、気持ちを答えにする。
「だって、僕はあなたに死んでほしくないんだ」
死にかけの吸血鬼と目の見えない少年。
紅いヒガンに囲まれる中、彼女と彼は出会った。
※ ※ ※ ※ ※ ※
それから二人の奇妙な生活が始まった。
「……熱い」
カーテンからわずかに覗く日差しに紅血姫は苛立ちを隠すことなく毛布を頭からかぶる。
少年の言葉により、半ば強制的に連れてこられた森の中の一軒家。数日経ち、切り刻まれていた紅血姫の体から傷はなくなっていた。
けれど、決して全快したわけではない。
毛布にくるまっていた紅血姫は親指を立たせる。すると指先から小さな炎がぱっと出現したが直ぐに消えてしまう。
使える魔術このていどとおよそ力を発揮できるとは言えない状態だった。
(ふんっ……)
ここまでとはいかずとも勝利の犠牲で弱体化していた時期もあったが、いまよりも酷くはなかった。およそ全盛期の一割にも満たない。
体のほうも魔力を治癒に回して血を止め傷を塞いでいるが、薄皮一枚めくってしまえばかさぶたが開くように中身があふれ出す。紅血姫は未だ一人の人間にさえ敵わないほどの重傷を負ったままだった。
「まあいい」
客観的に自信の状態を確認した紅血姫はベッドから立ち上がる。眠気を振り払うように頭を振ると先日のベットリとした血に濡れてはいない、本来の色であるさらさらとした真紅の髪が揺れる。
これだけの動作でも体が重い。まるで一月以上日光浴をしている気分だった。
木製の扉を開くと直ぐそこには紅血姫がいた場所よりも二倍ほどの空間が広がっていた。奥では煙が立ちこめている。玄関でもありリビングも兼ねている一室では一人の少年が朝食の準備をしているようだった。
「あっ。お、おはよう。よく眠れた?」
彼は紅血姫に気づくと照れるような声で挨拶してくる。
「お前が使っていた寝床を占領しているのだ。苦情など口にするほど愚かでは
い」
「は、ははっ。それならよかったかな」
少年の何とも言えない笑い声。
一件すると紅血姫の言葉は皮肉しか聞こえなかったが、彼女に悪気はなく唯一存在する他の部屋。ベッドのある寝室を借りていることに関しては実際に感謝しているくらいだった。
当初は家の主を放り出して客人である自分が使うわけにはいかない。そう紅血姫は断ったのだが。
「ダ、ダメだよ! 怪我人なんだからゆっくり休まないとッ!」
と大人しい外見とは裏腹な強い口調で押し切られてしまった。
どうやらこの少年。普段は弱々しい態度と口調なくせして、一度自分で決めたことには打って変わって頑固になるらしい。それがここ数日で紅血姫が彼という人物と接して感じたことだった。
現に紅血姫が自らは人間ではなく吸血鬼。つまり人ならざるものだと明かしときの反応もそうだ。
「き、吸血鬼? あっ。子供のころに遅くまで外に出歩いている悪い子をさらうって言うあの伝説? ほ、ほんとにいたんだね」
とまあ信じたのかどうなのか。間の抜けているというか何ともお気楽な感想だった。
(伝説程度でしか知らない。ということは大陸間の移動だったのかもしれない)
そうであれば幸いなことに追ってがくることはないだろう。ひとまず行方をくらませることには成功したと紅血姫は判断し、少なくとも一定の力が戻るまではと渋々この場所に腰を据えることに決めていた。
「それはそうと、私も何か手を貸せるようなことはないか」
ぶっきらぼうな口調で紅血姫は少年に訊ねる。自分の意思ではなかったが、看病されたのであればたとえ人間であろうともその借りは返す。それが彼女の考えだった。
「う、ううん。もうちょっとでできるから、ゆっくりしてて」
けれど、紅血姫の申し出を彼は笑いながら断り、朝食の準備を進める。
「……わかった。クリア。それなら待たせてもらうことにする」
似たようなやりとりは既に何度も行い、そのたびにくるのは同じ答えだ。紅姫自身、最初は自らのプライドのためしつこく迫ったが、少年の断固とした意志を曲げることはできなかった。
どうせ今回も無為に終わるのならと紅血姫は諦めると、名前を呼ばれた少年は嬉しそうに首を縦に振る。
クリア。そう名乗った少年はこの家で一人暮らしをしているらしい。周囲に他の民家は存在しない。孤立するように森の奥地でぽつんと建っている小屋は外界からの交流を阻んでいるようだった。
「っと、で、できたよ」
振り返ったクリアの両手にはスープをのせたお盆が握られている。紅血姫を見る優しい目には色はない。
それはどうやらその透明な瞳が理由となっているようだった。
『魔眼』神の悪戯により生まれたときより得てしまった力。それは普通の人間には備ることのない唯一無二の特徴を対象に宿す。
クリアには視力はない。しかし、魔力を有しているものであれば、透明な物として彼は認識する。つまり中身のないスカスカな形だけであれば見ることはできるらしい。
たとえば木々や魔物。虫や動物。人間や死にかけの吸血鬼。
視力がないクリアが紅血姫を見つけ、彼女が重傷だと気づいたのは、単に血の臭いだけではなかった。いまにも死にかけている人間の形をした微力な魔力があったからだ。
(死にかけの人間……)
食事をしている最中、紅血姫はクリアの説明を思い出し自らが人間以下となっている事実を再確認し屈辱に唇を歪める。
「あ、も、もしかして口にあわない……?」
「いいや。飲めなくはない」
「そ、そう? よかったぁ」
ごまかした紅血姫に何も知らないクリアはほっと胸をなで下ろす。
ただ、紅血姫にとって残念なことにクリアの言っていることも間違えでもなかった。
口にあわないというか、ここにきてから出される食事は決まって薬草と少しだけの川魚を少しの塩で味つけしたスープ。それには味というものがほぼないと言っていいくらいに薄い。
しかし、怪我人のために無償で用意してもらった食事を無下にすることなど自分のプライドが許すはずもない。紅血姫は木製のスプーンで魚の小さな切り身をすくい口へ入れる。
「にしても表情がわからないくせによく私の感情が読めるものだな」
「え、えっと何となく雰囲気とか空気とかで……」
「何だ。それは」
紅血姫は思わず頬を緩める。味のしない食事であるが、ないよりはマシだしこの少年の会話は多少の暇つぶしくらいにはなる。
「おかしいかな?」
「さあな。少なくとても私にはできない能力だ。誇るがいい」
「あ、ありがと……?」
本人はまだ気づいていなかったが、少なくともそう思えるくらいに紅血姫はクリアに対する警戒心を徐々にだが解いてきていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※
穏やかな風が吹く。それにより揺れる葉は、眠気を誘うような心地よい音を作り出していた。
だが、そんな快晴の空の下で紅血姫は露骨に嫌そうに顔をしかめている。
太陽など吸血鬼にとっては力を阻害してくる忌々しいものでしかなかったが毎日あの狭い家にいてもすることがない。何よりクリアからリハビリついでに少し歩いたほうがいいともすすめられ、しかたなしに紅血姫は外に出てきていた。
「うん……?」
太陽から隠れるように大木の側にいた紅血姫だったがあるものに気づく。
近くへ寄ってみるとそれは何かを立てかけるような台があり、その縁には小さな棒と黒いカスがたまっていた。
「絵を描くのか?」
隣で小さなナイフを使い、彫り物をしていたクリアに紅血姫は質問する。書かれている絵はなかったが、見たところペンは羽。染料は燃えたあとの炭を使っているようだ。
「ははっ。おかしいよね。何も見えないのに……」
少々驚き目を丸くした紅血姫にクリアは照れるように笑う。
「いや、謝罪しよう。悪かった。単に意外だと思ってな。できるものなの
か?」
「形はわかるから。あとは聞いたことのある言葉を手がかりに想像かな」
「……ほう。それは面白い」
「えっと……。興味があったりする?」
「少しはな。できれば一目見てみたいものだ」
盲目の人間が書いた絵など数多の芸術品を鑑賞し、五百年以上生きてきた中で見たことはない。紅血姫は好奇心のまま素直に首を縦に振る。
「うん。わかった。直ぐにとってくるよ!」
それを聞いたクリアのほうも作業していた手を止めて、家のほうへと駆けていく。心なしかうきうきとしているのはいままで感想をもらえる相手がいなかったからだろうか。
「えっと……。じゃあ……」
ほどなくして戻ってきたクリアが渡してきたぼろぼろのスケッチブックを紅血姫はもらう。
「これは……」
それはお世辞にも決して上手だとは言えなかった。
形だけを参考にしてスケッチしたのだろうが木のバランスは歪であり葉も全体的にどこか不均等な印象を受ける。
「ははっ……。やっぱり下手くそだよね……」
紅血姫の一言を聞いてクリアは苦笑いをし、残念そうに肩を落とす。
「綺麗だ」
「えっ?」
嘘偽りのない感情を紅血姫は口にする。
「綺麗だと言った。悪くない」
多くはなかったが、五百年生きてきた中で、芸術や美術品に触れてきた経験は紅血姫にはある。だからこの絵の完成度が高くないことはよくわかっていた。
「お前の気持ちが表れている」
でも、一生懸命に全力で。不格好な絵からはクリアの思いが伝わってくる。だからだろうか。感想は自然と口に出てきていた。
「ありがと。ははっ。何だか嬉しいな……」
クリアは照れるように頭をかく。嬉しさと恥ずかしさが混じっているのか、その顔は赤い。
「お前の顔はヒガンみたいに真っ赤だな」
「うっ。紅血姫、意地悪を言わないでくれないかな……。僕にはどれくらい赤いかわからないよ」
「ふっ。一面が咲きほこるくらいだろうな」
「も、もうっ。言いすぎだよ。紅血姫……」
にやりと笑う紅血姫に声でからかわれているとわかったのか、クリアは恥じらうように頭をかく。
「……でも、いつか、描いてみたいな。その風景を。ちゃんと色までつけて」
ぽつりとクリアは呟く。浮かべる笑顔には少しだけ寂しさのようなものが混じっていた。
「お前ならできるさ。遠くないうちに必ず」
「……そのときには君が一番最初に見てくれるよね」
「……ああ……。多分な」
断言はしない。それはきっと回復すればここから出て行くのは決まっていることなのだから。
紅血姫は内心を悟られぬように返答する。お互いの目と目があうが、あちらにはいまの自分の表情はわからない。
それでいいと紅血姫は思った。いつからはいなくなる身だ。安易な約束などすべきではない。
「そういえばね、僕は見たことないんだけど……」
雲一つない青い空は陽が弱くなった気配はなかった。現に吸血の天敵である太陽は衰えてはいないことは紅血姫にはよくわかっていた。
けれど、どこか落ちつく温かみを感じる。不思議だ。日光は熱いばかりでぬくもりなど吸血鬼となってから無縁のものだと思っていたのに。
「あのヒガンは冬になるとね……」
近くで喋り続けるクリアだが、紅血姫にはその声がとても遠く聞こえる。
「たまには木漏れ日の下での昼寝も悪くない……」
気づければ紅血姫は自然と眠りに落ちていた。
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