先輩、結婚出来ません

 そんなローラちゃんが私を居酒屋に誘ってきたのが、雨が雪に変わろうかという、十二月某日。


 ローラちゃんは、気持ちが上がっている時は大抵スイーツに誘うから、お酒の場という事は、なにか嫌なことがあったのだろう。


 また、上司に何か言われたか?


 そう思いながらも、まずは乾杯して一口ビールを飲み干す。


 すると、比較的温厚な性格のローラちゃんが、一気飲みしたかと思うとジョッキをテーブルに叩きつけた。


 大きな音と、微かに振動したテーブルに驚きながら、私はローラちゃんを見た。

「な、なにがあったの?」

 そう問いかけると、彼女は堰を切ったかのように、ぼろぼろと涙を流し始めた。


「先輩、聞いてください。私……騙されていたんです」

 大粒の涙を、その透き通った瞳からこぼし、体を震わせながらも、気丈にそう言ったローラちゃんに、不覚にも見とれてしまった私は、一瞬言葉を失ってしまった。



「せ、先輩?……聞いてます?」

 ローラちゃんは、少し眉を吊り上げながら私を睨んだ。


「あ、ご、ごめん。で、何があったの?」

 我に返った私は、興味ありげな素振りで身を乗り出し、テーブルに両肘をついて、組んだ手のひらに顎を乗せながら聞いてみた。


「彼、ね。太河たいが」じゃなかったの!」


 は??何の話をしてるのか一瞬解らなかった。

 ローラちゃんは、きょとんとしている私にかまわず、捲し立てる様に続けた。

「私、彼の名前はずっと『甲斐太河かいたいが』だって聞いてたの。でね、プロポーズされて、私もそれを受けて、急いてた私は有頂天になってたのね、次の週には婚姻届けをダウンロードして……あ、今ってネットで可愛らしい婚姻届けが落とせるの。でね、それを持って、早速次のデートの日に持っていったの」


 いつもは理路整然と話すローラちゃんだけど、この日は違っていた。

 ローラちゃんがこうなる時は、怒っている時か、哀しみにくれている時だ。

 まあ、ただ単にアルコールに弱いだけなのかもしれないけれど。


 話は続く。


「彼は、最初は驚いていたけど、すぐに笑顔になって、自分の名前を記入していったのね。そうしたら、『たいが』じゃなかったのよ、先輩!」


 彼が名前を偽ってたという事か。

 でも、どうして彼はそんな事をしたのだろう。

 余りにも変な名前だったのか、あるいは爺臭い名前だったのだろうか。


 ローラちゃんもローラちゃんだ。


 苗字ならともかく、名前なんて、それこそどうでもいいじゃないかって思う。


 もっと酷い、例えば実は既婚者だったとか、年齢詐称してたとか、そんな話を想像してた私は肩透かしを食った。


「で、彼の名前って、なんだったの?」

 私は逆に興味を持った。

 一体どんな名前だったのだろう。どれほど恥ずかしい名前なのだろう、と。


「……たいか」

「…………は?」

「だ、だからね、『たいが』じゃなくって、『たいか』だったの!」


 なにそれ。

 それって、隠す必要があったの?それに、ローラちゃんもその程度の事で、何をそんなに怒ってるの?


 次の言葉が出てこない私を置き去りにするかのように、彼女は捲し立てた。


「婚姻届けって、読み仮名ふる欄があるでしょ。そこに彼『たいか』って書いたのよ。でね、私が『濁点抜けてるよ』って言ったら『いや、これでいいんだ』って」


「なんでも、本当は『たいが』って命名するはずだったんだけど、お父さんが出生届を出した時に、フリガナ欄に濁点をつけ忘れて。その後もずっと『たいが』で通してきたけれど、戸籍上は『たいか』になってるんだって」


 なんだ、そんな事か。

 これは流石に、くだらない理由といっても差し支えないんじゃないだろうか。


「私ね、子供は三人は欲しいの」

 突然話が変わった。これはいつもの事だ。


「だからね、結婚したら、車も七人乗りか八人乗りの大型ミニバンにしようと思ってるの」

「ちょ、ちょっと待って。名前が違ったって話はどこに行ったの?」


「どこにも行ってないわよ」

 ローラちゃんは身を乗り出して、目を細めながら私の眼前まで顔を近づけた。

 珍しくドスの聞いた声に、私は思わずのけ反ってしまう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る