黄色い爆弾と貯水槽
kanegon
第1話 夏期講習
それは、なんでもない日常のヒトコマのはずだった。
戦争やテロとは無縁の平和な日本。
高台にある夏休みの高校。
白い四階建ての校舎。
コバルトブルーの空の下。
私は今、無差別テロ事件を目の当たりにしている。
テレビのニュースでは、毎日毎日、世界のどこかの国で起こっているテロ事件が報道されている。血を流して死んでいる人がいる現実。でもそれはテレビ画面の映像である限り、対岸の火事であり、自分の痛みとしては感じられないでいた。
自分としては、戦争は戦争でも、気詰まりな受験戦争の苦しみの方が、よっぽど現実問題だった。
受験勉強という難行苦行が避けられないなら、せめて女子高生一七歳として青春の毎日を楽しく過ごしたい。普通の一般人がそう考えていたとして、責められるいわれはあるまい。
前の日に中学時代の友人と一緒にファーストフード店で、
「日焼けで肌がヒリヒリする」
「フルートは金管楽器じゃないんだよ。実は木管楽器なんだよ」
「工事か何かで学校に来ていた業者のワゴン車が、真っ黒い排気ガスを出していてびっくりしたよ」
「友達が新作のルージュ使ってみたらしいけど、肌に合わなくて、唇がちょっと荒れ気味らしいよ」
「西川もネイルやってみればいいのに。そりゃアタシは、楽器を演奏する時には邪魔になっちゃうからしないけどさ」
「ほらあのジュースのテレビコマーシャルで流れている歌、いいよね、夏らしくて。誰が歌っているか知ってる?」
などとフライドポテトを囓りながら談笑したのを思い出した。いっとき、受験勉強を完全に忘れて、充実した密度の濃い時間を楽しく過ごしていた。
その時には、テロというものがが身近に存在するとは、どこにでもいるような普通の女子高生である私には想像もつかなかったのだ。
† † †
始まりは、なんでもない憂鬱でグダグダな日常だった。
部活に所属していないのだし、二年生の今のうちから大学受験に備えて勉強しようと思って申し込んだはいいが、いざ夏休みになってみると暑くてかったるくて、講習なんかやっていられない。せっかくの夏休みなのに、制服の白セーラー服を着て高校に出て来て、ねばつく空気が重くよどむ教室に缶詰になって、まだちょっと先の受験に向けて勉強をする。夏期講習が行われるのは夏休み前半の一週間だけだが、毎日毎日勉強漬け。これではまるで、まだ夏休みが始まらずに一学期の延長戦が続いているかのようだ。青春時代はこんなくすぶった燃え方で良いのかどうなのか。窓の外で、必死に鳴いて短い生命を競い合っている蝉たちの方が、よっぽど健全な生き方をしているのではなかろうか。
そりゃ、大学へは行けるものなら是非行きたいけど。でも受験英語なんか、大学受験以外には将来何の役に立つ?
そんなの分かるわけがない。という思いが大きくなるにつれ、学校や社会などに対する反抗心が入道雲のようにムクムクと湧き上がってきた。日本国内にいる限り、日本語でコミュニケーションをとればいい。海外旅行くらいならば、英語をしゃべることができなくても可能だろうし。外国に定住することになるとしたら、言葉の問題以上に、テロや凶悪犯罪などに巻き込まれる方が恐ろしいような気がする。
休み時間の教室内のざわめきは、いつもよりは少し控えめに感じる。暑さでみんな気力が脱水症状なのか。あるいは単純に、夏期講習に申し込んでいるのはクラス全員というわけではないため、通常授業の時よりも人数が少ないからか。ここにいるのは講習に参加している生徒たち。言い方を変えれば、受験に対してそれなりに前向きで、他人との競争に勝って少しでも上位ににのし上がろうとしているライバル。友達同士でのたわいもない雑談に花を咲かせている場合ではないということか。講習の合間の休み時間でさえも、トイレに行って用をたしてきたら、あとは英単語の一つでも覚えておいた方がいい、とみんな考えている。覚えては忘れ、忘れては覚え、幾度か繰り返す中で運が良ければ消滅せずに知識として蓄えられる。古代の人びとの営みが、風化を免れた遺跡という形で荒野に残るかのように。
なんだかなあ、とグロスを塗った薄い唇を動かすだけで声には出さずに呟きつつ、教室の入口に佇んだ私は、頭上の赤いリボンの結び目が緩んでいないことを確認してから、後ろ髪を撫で付ける。
ショートボブにしている私の後ろ髪は、地球の重力に反発しているかのように跳ねて癖毛になっている。水をつけてもお湯をつけてもドライヤーをかけても、上手く直すコツを未だ掴めない。でも今は反った黒髪が私の心境を代弁してくれているかのようだった。大いなる力に反発したくなる時が、人間誰しもあるものだ。
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