エピローグ

「あっはっは。叔母がそこまで考えていたとはねぇ」


 恐れ入ったよ、とグレンは笑った。

 グレンがハイデルベルクから戻ってきたのは、七月が終わる頃だった。大笑いするとまだ肋骨が響くのか、いてて、と顔をしかめる。


 テーブルの向かいに座ったメリルローザとヴァンの前には、とある書類が置かれていた。


 ――メリルローザとヴァンが結ばれた後。


 フロウは大叔母から預かっていたという鍵をメリルローザにくれた。

 もし使いたかったら使いなさい、と言うのは大叔母からヴァンへの伝言だという。


 引き出しにしまわれていたのは一人の男性の戸籍だった。もしもヴァンが人間のように生きたいと望んだときに不自由しないために。


 ヴァンは人間ではないけれど、戸籍があれば人間のように生きられる。メリルローザと婚姻を結ぶことも出来るし、堂々と名前を名乗って外を歩くことも出来る。人間の世界とは、とかく面倒なものなのだ。


「しかし、すごい戸籍だね。まあ、意図的にややこしくしてあるんだろうけど……」


 ヴァンは遠い国の貴族の末裔で、異国の血も色々と入り交じっている。家名も実在するものだろうが、こうもややこしい家系なら調べるのもほぼ不可能に近いだろう。


「けど、いいのかい? 人間のように生きるとなったら、君はいつか“死なないと”いけなくなる」


 何百年も同じ姿で生き続ければ不審に思われる。この戸籍を使えるのは、限られた数十年間だけだ。


「メリルローザが死んだら、俺も消える。墓はちゃんと二人並べてくれ」

「うーん……その頃には僕のほうが先に墓に入ってると思うんだけどね」


 真顔で言ったヴァンに、グレンは苦笑した。


「それで、君たちは結婚してどうするつもりなのかな?」

「……叔父さまさえよければ、キースリング姓でこのままここで暮らしたいと思っています」

「ああ、ヴァンがお婿さんになるわけだね」


 グレンは構わないよと即答したが、メリルローザには気がかりなことがあった。


「あの、叔父さま……。ディアナさんとは……?」


 もしディアナとグレンがここで暮らすのなら、自分たちは邪魔なのではないかと心配していたのだ。グレンはくすりと笑うと、


「僕、出ていったほうがいいかい?」

「違います! そういうつもりじゃなくてですね……」

「あはは。わかってるよ」


 からかうように笑みを浮かべる。


「ディアナとは、いずれ一緒になるつもりだよ。メリルローザ、君に僕の仕事を教えて、君たち二人がキースリング姓を名乗るのに相応しいときがきたら、僕はハイデルベルクに行こうと思っている」

「叔父さま……。いいんですか?」

「うん。マリウスのこともあるし、少しずつ進めていこうってディアナと決めたんだ。……それに、遠距離恋愛っていうのもなかなか燃えるだろう?」


 グレンは満更でもなさそうだ。


「それから、薔薇の手入れの仕方もね。……もちろんあの薔薇園も引き継いでくれるんだろう?」

「ええ! もちろんです!」


 ぱっと顔を輝かせたメリルローザをヴァンはいとおしそうに見つめた。

 その笑顔を見ているとヴァンの心はあたたかくなる。激しく求めあうのも悪くはないが、こうして穏やかに笑うメリルローザの隣にいられるのは悪くない。これから先、ずっと彼女と一緒にいられることが何よりも嬉しい。


「なあに? ヴァン」

「愛してる。メリルローザ」


 唐突な愛の告白にメリルローザの頬は赤く染まり――グレンはやれやれと肩をすくめた。すっかり当てられてしまう。

「僕が出ていく日は近そうだね」と嘯くと、ヴァンは真面目な顔で「そうだな」と返した。






 *****





「フロウー! こっちこっちー!」

「あーん、もう、待ちなさいよお」


 人の多いクリスマスマーケットの中を、小さな影がちょこまかと走り回る。

 銀髪にチャイナドレス、白い毛皮のコート姿という奇抜な青年の姿は回りの目には映っていない。見えない姿に呼び掛ける子供を不思議そうに振り返る人間もいるものの、これだけ人が多ければ離れた場所にいる親兄弟でも呼んでいるに違いない、と興味をなくして視線をそらす。

 小さな少年の姿はあっという間に雑踏に紛れてしまった。


「まったく。迷子になったらメリルローザとヴァンに怒られるわよ」

「フロウがいるから平気だよ」


 けろりとした顔で返されるものだからたちが悪い。


「ごめんね、フロウ」


 と声をかけられたフロウが振り返ると、苦笑するメリルローザとヴァンがいた。二人の手にはカップに入ったグリューワインがある。シナモンとフルーツシロップのいいかおりが、寒空にふんわりと漂う。


「あー、いいなー! 僕もほしい」

「お前はこっち」


 ヴァンがもう一つのカップを手渡す。


「ココアだ! ありがとう、お父さん」

「こぼさないように気をつけてね」

「はあい」


 ふう、ふう、と息を吹いて熱いココアを冷ます少年を、メリルローザとヴァンは優しく見守っていた。


 ――ヴァンは、人間のように生きていくことを選んだ。外見も、不自然ではないように少しずつ年を重ねたように変化させている。

 メリルローザが死んだら、自分のことを壊して欲しいとヴァンは言った。もう置いていかれるのはごめんだと、ずっとメリルローザの側にいたいと彼は願っている。けれど……。


 メリルローザはココアに夢中で前を見ていない少年の手を引きながら考える。

 ヴァンと、メリルローザとの間に産まれたこの子には精霊の血が混じっている。精霊であるフロウを見ることが出来る不思議な瞳の持ち主だ。

 出来ることならメリルローザが死んでも、この子のことを見守っていて欲しい、なんていうのは残酷な願いだろうか。愛しい夫と子供のために、うんと長生きをしなくちゃいけないわねとメリルローザは考えている。


「そうだ。グレン叔父さま達、年が明けたらローテンブルクに遊びにくるって」

「ああ。そういえば手紙が来てたな」

「ほんとう? 僕、マリウスお兄ちゃんに絵を書いてもらう約束をしてるんだ。ねえ、いつ来てくれるの?」

「年が明けたら。クリスマスが終わってからよ」


 立ち並ぶ屋台にならべられているのは、テディベアに木で作られたおもちゃ。ツリーに飾るオーナメントに、身体をあたためるスープ。

 どれもこれも幸せの象徴だ。行き交う家族は皆、微笑みあいながらクリスマスムードに染まる街を歩く。


「で? クリスマスプレゼントは決まったのか?」


 ヴァンが尋ねると、少年は明るく「うん!」と返事をした。


「僕、弟か妹が欲しい!」


 その声に、フロウは声を上げて笑った。

 赤くなるメリルローザとまんざらでもないヴァン、三人の表情を見比べながら少年はきょとんと首を傾げる。





 ――ローテンブルクの外れにあるキースリング邸。

 この古い屋敷には、ちょっと不思議な、しあわせな家族と精霊が仲良く暮らしている。



 fin.

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