4、マイスタートルンク
レントリヒ子爵の呪いの件も解決したし、急ぎの仕事は特に入っていないらしい。
外の空気でも吸っておいでとグレンに勧められて、メリルローザは街へと出た。これにはフロウの方が大喜びだった。
特に今週末はマイスタートルンクの祭りが開かれる。この祭りを見るためにやってくる観光客も多い。露店商もあちこちで見かけた。
「そんなお祭りあったかしら?」
「……覚えてないな」
黒いレースの日傘をさしたフロウがヴァンに訊ねる。
実体化しているのはヴァンだけなので、周囲からはメリルローザとヴァンが並んで歩いているようにしか見えない。フロウの日傘はあまり意味がないのだが、本人曰く「ファッションだからいいのよ」とのことだった。
「フロウたちは
マルクト広場にあるからくり時計。マイスタートルンクは造語で“酒飲みの市長”をさしており、決まった時間になると時計の窓が開き、ワイングラスをもった市長が飲み干す仕草をする。
――十七世紀、敵軍に囲まれたローテンブルクの街が陥落した際、名産のフランケンワインで敵将をもてなした。
酔った敵将が「この特大ジョッキを一気に飲み干せたら街を焼き払わずにいてやろう」と言い、受けて立った市長は見事飲み干してこの街を救ったのだそうだ。
その市長を称える祭りが、近年、五月末の聖霊降臨祭に合わせて行われるようになったのだ。フロウやヴァンが知らないのも、大叔母といたときにはまだ無かった祭りだからだろう。
土日はパレードもあると言うと、「楽しそうねぇ」とフロウが弾んだ声を上げた。
「人が増えるし、みんな昼間からお酒を飲むから賑やかよ」
「ですって、ヴァン。しっかりメリルローザのエスコートをしてあげてちょうだいな」
「い、いいのよ。ヴァン、つまんないんじゃない?」
ヴァンは一応メリルローザの隣を歩いてくれてはいるが、祭り自体にあまり興味はなさそうだ。いつも静かな薔薇園にいることが多いし、賑やかなところは苦手なのではないかと思った。
「別に、つまらないわけじゃない。人が多いから警戒してるだけだ」
「ヴァンは気を張ってるのよ。カワイイ主が変な男に声をかけられないか心配でね」
「ばっ、バカか! こういう場にはスリも多いから言ってるんだ!」
ヴァンが真面目な顔をして怒る。フロウをしっかり持っておけと言われて、ポケットの中を確認する。
レッドスピネルもフローライトも、売れば一財産だ。高価なネックレスも人目を惹かないように、そっと服の内側へと落とした。
「確かに、フロウは無くしそうで怖いわね。小物入れでも買おうかしら」
大叔母のハンカチに包んだだけでは心許ない。露店を見ていきましょ!とフロウが言うので、ちょうどいいものがないか探してみることにした。
「見て、メリルローザ。可愛いわねぇ、この人形」
ドレスを着たビスクドールを指差したフロウがきゃっきゃと騒ぐ。
「本当。可愛いわね、フロ……ヴァン」
店主にはフロウが見えていないため、うっかり話しかけそうになるのをこらえた。不自然に話しかけられたヴァンが不審に思われないように短く返事をして、側にあった古本を手に取る。
「ははっ。お兄ちゃん、祭りだってのにずいぶん難しい顔してるね。その本はハイデルベルクで仕入れたものだ。色々あるからゆっくり見ていってくれ」
「へええ。おじさん、ハイデルベルクから来たの?」
「ああ。祭りの時期に合わせて、あちこち売ったり買ったりね」
ハイデルベルクはローテンブルクを東に行ったところにある街だ。大学のある学生街で、芸術家の卵もたくさんいると聞く。
美術の専門書をぱらぱらと捲っていたヴァンの指が途中でつっかえた。
「おい」
短く呼ばれて見ると、本の中に栞代わりに挟まれたカードがある。見覚えのあるアラベスク模様にメリルローザも目が止まった。
「これ……」
ユリアが持っていたカードに書かれていた模様と似ている。ただし、こちらのほうがカードというには粗末なものだ。サイズも小さくて薄い。例の模様を模写しただけのようにも見える。
決定的に違うのは呪われていないということだ。気になって別の本も捲ってみたが、他に同じようなものは見つからなかった。
「……さすがに、誰が本を売ったかは分からないわよね?」
メリルローザの呟きを聞いていた露店商は「そりゃそうだ」と困った顔をした。古本市で買ったものだし、持ち主などわかりっこない。
「どうする?」
「……買うわ。なんとなく気になるし、叔父さまに相談してみましょ」
何もなければそれでいいのだし。……って、結局判断がつかずにあれこれ買ってしまうグレンと同じことをしているような気がする。
途中からすっかりフロウの声がしなくなったと思って辺りを見回すと、フロウは別の露店商の前でじっと何かを見つめていた。
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