ego1 アイデンティティ

 弓道が、好きで無くなったのはいつからだっただろう。今でも好き、だと言える筈なのに。


「…もうそろそろ、時間も限界か。あと少しだけにして終わろう」


 道着に身を包み、部員の一人としてここで活動出来るだけでも確かに幸せだったように思う。独り言が多くなってしまうのはどうしてだろうか。…それはきっと、終わりを惜しむのが他でもないこの自分自身だからだ。

 こうして放課後も過ぎた夜の弓道部で、的に向かい射るだけで心が落ち着く。一点に集中した瞬間、周囲から音が消えた域に入るこの時が、自分は一番大好きであるのだ。

 射った矢が、的の中心に見事に当たり。ふうと一息ついてはもう一度矢を手に取る。シン、と音が鳴りそうなくらいに静かな弓道部の活動の場には、今自分以外に誰も存在してはいない。


 ふいに、背後で戸を開く音を耳にし。一連の動作を途中で止め、くるりと振り向いた。


「やっぱり、まだここにいた」


 寂しげな顔をしてそこに佇んでいたのは、制服姿の男子生徒だ。毎日顔を突き合わせても全く飽きない、自分の自慢の幼馴染。はねた後ろ髪と片目が隠れそうな前髪が特徴的な、同い年の高校三年生。


美命みこと、」

「そろそろ帰ろ、りょう!おばさん達も、ご飯用意して待ってるって。……それに、最後の日は絶対。迎えに来たいって思ってたもん」


 曇天を晴らすような眩しい笑顔を前に。いつも迎えに来てくれているだろうと、自分も嬉しさを隠せなかった。ああ、そうだ。思えば自分はいつだってこの優しい幼馴染に支えられていて。

 …だからこそ、自分と、美命の在り方を否定する周りが許せなくなって来たんだ。

 すぐ着替える、と。この遅い中まで校内で待ってくれていたろう彼に言えば。もう少ししなくても大丈夫なの?と、何故か彼が少し慌てるような素振りになった。きっと、自分が来たせいで急かしてしまったかもしれないと思ってくれたのだろう。


「いいんだ。もう、ここにも未練は無い。美命が来てくれたから剥がれたんだろ」

「…それって、いいことなの」

「いいことだよ。…俺にとっちゃ、弓よりお前が大事なんだから」


 風が心を吹いたように、晴れやかな気分が訪れる。孤独な静寂を切り裂いてくれる福音は、俺にとってはいつだって美命だった。


 中学の半ばから、部活見学で興味を持って素人ながらに入部して。ドラマチックな要素など一切無い入部経緯から、気付けば高校三年の現在に至るまで、穏やかに時間は流れていた。ただ、俺がひたすら部内での変人と言われ続けたことを除いて。

 急いだ足が更衣室に入る。あまり美命を待たすのも悪い。…中学二年生の途中から入部して、三年と半年くらいか。叶うなら高校を卒業するその時まで部に在籍はしたかったが、俺がこの空間自体を苦手に思ってしまう前にやめたかったという思いもある。何より、美命にこれ以上心配もかけたくなかった。

 思い出しても、胸のあたりがむかむかする。唯一続けられた部活の弓道を、諦めることになった発端を俺は自然に思い出していた。


ーー個人競技、優勝本当におめでとうございます!まさに百発百中、破竹の勢いと言った表現が似合うかのようでした、

ーー……ありがとうございます。“俺”も努力を続けて来たので、その甲斐がありました。


 …あれは、部活を続けた中で。俺の一番の成功で、失敗とも言われてしまった場面。弓道はじめて三年目で、努力の甲斐あって手にした大会の個人優勝。誇れる程のその結果ですら、もう苦い表情で思い返す羽目になったのは、いい思い出にはならなかったからだ。

 弓道誌のインタビュアーだと言う人間に、優勝者としてマイクを向けられ。そして、淡々と答えた俺の一人称が、記者や視聴者の興味を惹いたらしいのだ。


 そう、俺が出場したのは女子の個人戦。そこに参加している限り、俺の身体は紛れもなく女であるということ。


 俺、姫咲亮ひめさきりょうが今日弓道部を去ることになる原因でもある、変人呼ばわり。そんな扱いを受けた理由は意外なことに、女でありながら男のような言動をし、制服を男子用にして過ごしていること。たったのそれだけ。周りから奇異に思われていたことに何の感慨も無かったが、優勝してからのインタビューを受けたあの時。あれから、俺の周りの反応が悪化したことは、当事者の俺が一番良く覚えている。

 ただ、珍しい個性をしている。そこだけに注目され、一時的に俺は見世物となったのだ。許可も得ず雑誌に載せられ、望まないレッテルを貼られて。今まで、腫物を扱うかのような対応だった周囲も、俺を「そう」扱っていいのだ、と思い込むようになったのかもしれない。


 生まれてから今になるまで、俺は自分の選択の全てを間違えたとは思っていない。自信を持って、周りの声など気にせずに自分を貫ける人間になれるように心がけていた。その考えも世間の考え方からすれば既に解離していたと知ってから、今まで俺は嘲笑われていたのだろうか、と胸に隙間が空いた心地になったこともある。


「でも、良かった。やめられることが出来て」


 着替えを素早く済ませ、重くなった荷物を持ちながら鍵をかけ弓道場を出て行く。その隣で微笑む美命は、あの時の事態に一番怒ってくれていた。


「僕ね。…また、亮を独り占め出来るんだって思うと、嬉しいんだ。不謹慎だけど、…亮が、部をやめられて良かった、」


 不謹慎なものか。そう言ってくれるだけでどれだけ俺の心が浮足立つのかお前は知らないだろう。帰路の最中、石の階段で出来た道を降りていた。故意に歩みを止め、俺より少し下に下がった美命を呼び。こちらを向いたその唇を、慣れたように奪った。


「俺もだよ、美命。お前がいるなら、お前だけを優先したい。…今日は余計に、そんな気分だ」


 一緒に帰ろう。頬を赤く染めた美命の手を握り、道を下って行く。りょう、と弱々しい声で嬉しそうに俺の名前を呼ぶ癖は、幼い頃から全く変わっていない。


「久しぶりにヒーロー面出来たかもな」

「馬鹿。…いつでも。だもん。亮はいつでもヒーローだから、そんな言い方しないでよね」

「ありがとうな。美命も、永遠に俺のお姫様だから、忘れるなよ」

「えへへ。嬉しいなあ、…嬉しいよ、亮」


 …俺達は、こういう仲だ。


 背丈こそ、俺が低くて美命はでかくて差はあるが。そこに通じ合う想いに差なんて無い。思い返せば、俺達は赤ん坊の頃から家族ぐるみで交流が深かった。

 泣き虫の弱虫で、可愛いものが大好きな美命。気が強くてガキ大将、かっこいいものが大好きな俺。性別を間違えて生まれてきたんじゃないかとからかわれるくらい、俺達二人は世間の目には、その性別らしくないことをしているように映ったらしい。

 周囲の同年代の同じ性別の子と趣味も合わず、中性的な名前でもあったせいか美命はとにかく嫌がらせを受けることが多かった。それに無理矢理介入しては美命を守り。幼いながらにして美命の愛らしさを俺だけは知っていると信じて疑わなくて、恋仲になるまでは韋駄天の速さだった。


 美命は俺が守りたい、と思った。美命は俺に守られたいと、照れながら笑っていた。幼い頃の約束は年を追うごとに感情を深くし、それが恋心であるのだと自覚を強めていって。

 俺は王子で、美命は姫様。俺が花婿、美命が花嫁。性別なんて関係無い、俺は美命が本当に可愛いと思っているから、それが正しいのだとずっと思っている。将来二人で結婚しようね、と言い続ける程に心は育ち。けれど、成長するごとに実感するのは、そんな在り方を嘲笑う者達の存在だった。


 女らしくない、男らしくない、そんな下らないことだけで、本当ならこうあるべきだと枠に当てはめて見てくる者達を見て。一番最初に思い浮かんだのは、何故他人に俺達の在り方を決められたり責められたりせねばならないのだろうという憤りだった。小学生の頃が一番悲惨だったかもしれない、クラスメイトからは露骨に避けられたり、男女だの女男だの言われ。オカマだなんて言われた挙句に美命はいじめられて一時期不登校になったこともある。先生達も見当違いのフォローばかり、あまつさえ「女の子なんだから」「男の子なんだから」という言葉だけで俺達を治そうだなんて、強行的な物言いばかりに辟易していた。その頃から既に美命を好きだった俺は、人目もはばからずずっと手を繋いだり、抱きついたりしたこともある。それが他の子の教育に悪いだとか言うクレームもあったそうだが、それはお前の家庭が十分に教育出来てないだけだろと今となっては悪態をついてやりたい。そう、あの頃、互いの家族以外は本気で敵だと思っていた時期だった。

 家族ぐるみの付き合いで、小さな頃からの俺達を知ってくれている家族だけが俺達の味方であったことが幸いだったろう。だからあの地獄をなんとか乗り越え、俺達は決しておかしくないと余計に確信して。受け入れて貰おうなんて思わない、ただ、こういう形の在り方もあるんだとそっとしておいてくれるだけが理想だったのに。現実は、とても厳しかった。


 優勝インタビューとして小さく取り上げられる筈が一点、俺の努力よりも俺のキャラクターとしての個性に面白みを感じられてしまった為か、好き放題書かれた記憶がある。それに一番反応して、傷ついて、泣いて、怒ったのは美命だった。

 亮はずっと頑張って来たのに、それを踏みにじってる。こんな記事嫌いだ、と。あること無いこと書かれたそれに対して、おそらく本人である俺以上に怒ってくれていた。


 ……「心が男の弓道部女生徒、数多の苦労を乗り越え優勝へ」…これが、俺の写真と共に弓道雑誌へ載せられた文句である。ただインタビューの様子を載せるだけだと言っていたのに、蓋を開けたらそれ。この国は、他人に対しての理解がまるでないとよく揶揄されるけれど。これが、そういうことなのだと唖然としたのを覚えている。


 心の性別や、それに付随する心理が明かされ研究も進んできた時代。様々な人が自分の生き方を探しやすくする為に、そう言った分野の研究が進むことは望ましいことだと思うけれど。それを理解したフリをして型に押し込もうとする人間達に、好き勝手に誤解され、それを真実かのように書かれた時は目の奥から血を流しそうな程に負の感情がわいてきて。


 俺は、男では無い。異性装が趣味なわけでも無い。ましてや、倒錯した性的嗜好を持つ人間でも無い。悔しかった。俺と言うアイデンティティを、チープな感動劇としてアレンジをしぶち壊した記事を書いた奴らを、心の底から憎んだ。


 ただ、好きなスタイルを貫いているだけであったと言うのに。


 心と体の性別の関係。…そんな知識はとうに得ている。自分の在り方について悩みがある人にとっては救いになると言うことも。


 俺が許せなかったのは、その概念を儲けの為に利用して。感動ネタの御涙頂戴記事にすれば、俺の個性が強いから余計に売れるだろうだなんて思い込んだ人間達だ。本当に困っているだろう人の為に使わず、その枠に当てはまらない俺を「そう」だと勝手に当てはめた。それが、何より許せない。俺の在り方を否定されることは、美命の在り方を否定されること。自分達らしい生き方を、既存の枠に無理に当てはまられようとすることのどれだけ苦しいことか。

 俺がこの言動でこの格好をしているのに複雑な思考なんて無い。ただ、かっこいいから。そしてそんな俺をかっこいいと言ってくれる美命がいるから俺はこの在り方を貫いているだけだと言うのに。やれ心の性別が違う?悲劇の人?クソ喰らえだ。


 俺は、俺のままで美命を愛したい。それ以上の理由は無いのだ。本気で、それだけなのに。


 その記事を書かれた雑誌が発行されて以降、間に受けた生徒達から更に誤解を受け。アイデンティティの概念に理解すら無い生徒から「やっぱり病気だったんだよ」だの、「うちの学校に俺女がいるなんて痛すぎる」だの。気が狂いそうな時間を過ごした。勿論弓道部内での活動にも支障は出て、優勝おめでとうと言う俺の名前が書かれた掲示物の全ては剥がされ。元々浮いていた俺の存在は、その一件で完全に浮きまくった。共に練習をすることでさえ、俺が苦になり。時間帯を外して練習出来るよう、顧問に頼み込んで特例として認めて貰った。…その、特別扱いに見えるような行動も、いけなかったのだ。

 気付けば、優勝して誇れる結果を残した筈の俺がこんな様だ。駄目押しとばかりに、「弓道をするには相応しくない選手」と言うとんでもない見当はずれのクレームに屈した学校の言いなりになる羽目になったのだ。自主退部をすすめられ、更には病院まですすめられ。この学校が、あまりに生徒のアイデンティティの形成には役に立たないことばかりが分かって泣きたくなった。だから、弓道から離れる。これ以上ここにいては、予測出来ない外野から傷付けられ、最後には腐ると言う未来しか見えなくなったから。

 雑誌に無いことばかりを書かれると言う、芸能人のような気持ちが分かるようになるとは思わなかった。そして、その被害から、家族以外は守ろうともしてくれなかったことを現実として学習し。俺は、明日から、弓道の無い生活に戻っていく。卒業するまで指さされ、理解無い人間達から笑われながら過ごすことだけは変わらないだろうけど。


 ああ、そういや、数ヶ月前の進路相談、弓道選手って書いちまったな。


 自暴自棄のように呟いた俺の手を、ぎゅうと美命が握り直したのを感じる。俺より力の無い大きな手が、一生懸命なにかを伝えようとして。


「亮は、僕のお婿さんになるんだ。僕は亮のお嫁さん。……最高の進路でしょ?」

「ああ。…悪かったよ、今のはやけになった。だから泣くなよ、美命」

「泣いてなんかない、ない、も、ん、」


 お前はいつも、俺の代わりに泣いてくれるなあ。

 指を絡めて、手を握る。愛しい幼馴染の姿さえあれば、俺は、何が起きても今度こそ折れることは無いだろうと思う。

 退部の夜は、意外にも、平穏に過ぎ去ろうとしていた。


 ―ただ、この時の俺はすっかり忘れていたことがある。


 ……あの記事以降、しばらく心の性別に関する類でのコメントがほしいと数件俺宛に連絡があったのとは別に。学校を通さず、直に俺の携帯電話にかけてきた人間がいたことを。当時は嫌がらせだと疑わず、ふざけるのもやめてくれと話も聞かずに切ってしまった電話。


 その話の続きが、これから訪れる日に。まだ続いている・・・・・と発覚することなど、俺にはまだ遠い話だった。



「社長。プロデューサー。前に目をつけられていた生徒、動きがあったみたいですよ」


 とあるビル内。談笑が続く空間の中、さりげなく入り込んだ声色に。役職で呼ばれた男達二人が真っ先に反応した。声を出したのは、社長と呼ばれた方だ。


「おお、どいつだ?」

「弓道の大会で優勝された、姫咲亮選手です。…もっとも、本日付けでほぼ強制退部のようですが」

「……そうか。あれからすぐ、ってところじゃねえのが辛いな」

「ええ。きっと色々な醜さを知ったでしょう。…社長、貴方がこの世界を追われた時と同じように」

「…ああ。そうだな。だが、あの醜さを知っているのと知ってないのとじゃあ、大分違うだろう」

「ですから、頃合いかと」

「覚えてるかねえ。あん時はふられちまったけど」


 同じ空間にいた、別の数人がざわめき出す。決して広い空間では無いが、この一室に同時に存在するにしては人口密度が高めである。

 秘書の風体をした男の元に、社長とプロデューサーと呼ばれた男が近付いてひそひそと話出す。それを遠目に見ていた者達も、期待した声色で話し出していた。


「事務所のメンバー、また増えそうな予感ですね」

「楽しみだなあ、仲良く出来るといいけど」

「でも、仲良くなれないわけも無いと思うよ」


 だって、僕達みんな、似た者同士なんだから。


 エゴイストプロダクション、そう掲げられた看板が、優しい夜空の下にある。


 都内の某ビルを敷地として構える、訳ありの芸能事務所。そんな、弓道からかけ離れた世界の中で。よもや自分の名前が会話に出されているなどと、姫咲亮には知る由もなかったのだった。

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EGOIST★OnlyOne マキナ @ozozrrr

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