第一の男


「何だ、これは!目の前が……白いぞ!」

振り返ると、家紋旗がふしゃふしゃと動いている。


「え……え?」

「と、殿ぉ?」


船頭を務めていた男が、慌てて旗を剥いだ。

「あ、あ、恥ずかしながら、目が回わる、立って居れぬ!」


家紋旗に包まれていた男は、目を回して倒れこんだ。


「殿ぉ〜?」



 奇跡的な生還を果たした主君だったが、黄泉の国から生還した代償に、多くの記憶を失ったようであった。

しかし撃ち込まれた鉄砲の傷を癒し、体力を回復するのに三ヶ月もの月日を要し、その期間、小姓たちは必死で男の記憶を補填した。


 「あなた方は、何方いづかたにございますか?」

当初は言葉もままならぬようで、小姓たちは胸を痛めた。

だが命を失えば、家が失われる。それに比べれば、そんな苦労もありがたいばかりである。


しかも、生き返った主君は以前にもまして、勇猛果敢、判断明解で、ただちに跡目争いの混乱を制し、さらに領土を拡大した。


「どうか殿は本陣にて、采配さいはいをお振るいくだされ!」

一度失いかけた生命である。事情を知る小姓たちは懇願した。が、反対に主君は宣言した。


は常に諸子しょしの先頭にあり!」


戦さ場においては、常に下々の者の事にまで気を配り、足軽たちと同じ食事をした。

更にはその身分にとらわれず、良いものは良いと登用し、どんな人にも分け隔てなく接した。


また若い頃から続けていた朝、夕に馬を駆り、夏となれば川で水泳をし、己に厳しくしていた鍛錬を、更に厳しくするようになった。


しかも女子供には優しく、細やかに文を書き、贈り物も忘れない。

水軍を強化させ、軍律を厳しくし、侍としての美学を語った。


「殿は名君におわすの。」

人に優しく、自らに厳しい主君の評判は、家臣団の中で鰻登うなぎのぼりであった。


しかし、好事魔多し。


主君の優しさが仇となり、誓った相手に裏切られ、命辛々逃げ帰る先で、伏せていた敵兵の放った矢が急所に当たった。


「殿!どうか、しっかりなされ!」

「いや、思いがけずこの傷は深手のようじゃ。貴様らと共に戦う事が出来、予は光栄に思う。貴様らの勇戦は真に鬼神をもかしむるものなり。」


男は浅い息を繰り返しつつ、家臣の勇猛さを褒め称えた。家臣たちは目に涙を溜めて、首を振る。


この方がおられたからこそ、我らは闘えたのだ。


「どうか、どうか、殿!」

小姓たちの懇願の声は震える。

男は最後の力を振り絞り、自らを抱きかかえている小姓の腕を冷えていく手でそっと叩いた。


「ましてやこの度は皇国の地で死ねるなど、何の思い残すこともなし。ただ一期の名残に、嫡男には「忠」の一文字を入れもうせ。」


「殿ぉーー!」


「国の為、重き勤めを果たし得で……うっ!」


小姓の絶叫を聞きながら、男は揃えた手の先をこめかみに当てると、生き絶えた。



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