第10話 人工湖畔 Ⅱ
Oと出会ったのは、父に書類を届けに行ったときだった。
バイトのいっかんというよりは、父が家に忘れたものを届けに行ったのである。あの頃は既に電子ファイルという物も有ったように記憶しているが、私が父の書斎の机の上から取り上げた封筒は軽い茶色の封筒であった。
父から電話があり頼まれたわけだが、父の書斎に入るのは二三年ぶりだったように記憶している。特別、プライバシーに敏感な家庭でなく、書斎には鍵は付いていなかった。母の化粧部屋も同じだったし、私の部屋もだ。
最近、家族内でのプライバシーについての文章を読んだけれど。まぁ、これは私が男であるからだろうか、家族が家族のプライバシーにそこまで興味が有るものなのかと不思議に思った。しかし、その文章(新書の一項目に書いてあった)によると、ある少女は父親が無断で部屋に入り父親の休日の間、自分のベッドに寝ていることがあり、それが苦で精神を病んでしまったらしい。
よく事情が解らないのだけれど、それは父親は娘と添い寝していたのか、はたまた、娘のいない娘の部屋で寝ていたのか、
そこが重要なのではないだろうか。前者だったらプライバシーの問題では片付けられないし、後者なら部屋に外鍵をつければ良いのだ。
少女が気を病む何て余りに悲しすぎる。
貴方の横に寝るべきなのは、貴方の恋人かペットであるべきなのだ。
少なくとも、この事件は私の家庭では起こり得なかった、母は私に性的な好奇心を抱かなかったし、そもそも、私達三人は私達三人に興味がなかった。
ところで何で私がこのようなこの事の書いてある、本を読んだかというと、病院の待合室に置いてあったからだ。心療内科、私はある経験をしてから不安定でこのような種類の病院へ通院している。一向に回復に向かわないのは苦しい事実だが、これは私にとっての当然な仕打ちなのだろう。私の人生にたいしてのね。
そう、こんな未来を思い描きもしない頃、秋空の下、私は父の会社へ向かい受付で、部署に向かえるよう手配を取り、部署の若い黒いスーツでスラックスを履いた、女性社員に会議室の場所を教えられた。
「部長なら会議室で、Oさんていう女性社員とプレゼンの準備をしていると思いますが、社内電話でお伝えしましょうか?」
Aと違って彼女は随分と年下であろう私に丁寧な敬語を使っていた、しかし、なんというかそれは自己を強く見せる手段に思えて、私は好意的には受け取れなかった、若さゆえに。
「いいえ、驚かせたいので」
私は無意味に彼女に対抗して、
子供ぶった。
「そうですか、分かりました」と言って、彼女は会議室の場所を教えてくれた。
今思えば彼女は大体の事を知っていたのだろう、しかし、それについて無関心だったのだ。
私は会議室の二重扉までたどり着いた。しっかりとした重厚な二重扉、余程の会議が行われるのだろうと私は感じた。
まさか、扉の向こうに情事があるとは思いもしなかった。
私は二三回ノックをした、そして素早く両手で扉を開いたのだ。
ノックの効果はなく、真実は露呈した、大抵の黒い真実は(白黒は立ち位置にもよるのだろうけれど)
露呈するべくして、露呈する。いくら隠そうとしても、決められたことなのだ。それに父親も社会的で道徳的考えには、無関心な人だったし、それに単純に"男"という物に正直でもあったのかもしれない、しかし、私は今でも、隙だらけの生き方には同調できない。
扉の向こうでは、父がOの右足を持ち上げ、互いに口を擦り付けあっていた。
私は一瞬、目が点になっただろうけど、やはり関心がなく、彼らから離れたところにある、長机に書類を置いた。
彼らは同時に私の方を見て、同時に口付けを止め、父はOの右足を床へ落とした。
「頼まれた書類置いておきますね」
「ちょっと待て、お前!!」
私は父のその言葉には耳を貸さず、片手で扉を開き外へ出た。
父は私が母親を思い、憎しみを込めて去っていったのだと、思ったのだろうか?
しかし、私は不味い処を見てしまったとは思ったが、母親の顔なんて思い出しもしなかった、
Aの裸体と小さな乳房だけが頭をよぎっていた。
「ちょっと待ってよ!」
とエレベーターへ向かう、私にそう言ったのはOだった。
Oは名前を名乗り
「ごめんなさい、お父さんあなたが来るの一時間勘違いしてたみたいなの」
ごめんなさい?
「できれば、私達の事、お母さんには内緒にしてくれないかな」
私は笑ってしまった、馬鹿笑いではなかったけれど、役者が違うと思ったのだ。
それに母親に告げる気もなかった、告げたとことで無為な行動なのだから。
「ええ、もちろん。わかってますから」
このとき私はOの姿形を認識した。
長身でヒールを履いているので、私より背が高く、であるから足は長く手も長い、ロングヘアーで顔はフランス人形のようだった、恐らくアングロサクソン系の血が通っているのだろうと感じた。
そして私の心臓は一瞬、飛び上がった。
もし、Oにたいしての私の気持ちが本当に恋だったのなら、
それは、余りに皮肉で汚くて澱んでいる。
「ありがとう、解ってくれて」
そういった、Oは咄嗟に胸ポケットから小さなメモ帳と使い捨てらしいペンを取り出し、そそくさと何か書き、紙を破り私に手渡した。
「これ私の電話番号」
そう言って、振り返りとぼとぼと疲れを滑稽に含んだ歩き方で、会議室へ戻っていった。
本当に澱んでいた、人工湖畔の緑色の水のように。底は見えないし、生態系も謎に包まれている。きっと潜り込んだら、
緑色のゼリー状の何かが、まとわりついて、そして一生浮上することはできないのだろう。
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