第8話 金山の彼女の絵

上海郊外の金山というところは、昔ながらと言った感じで、

当時日本では何故か満州ブームというものがひそかにあってテレビや映画で見た中国象に金山はぴったりはまっているように感じた。しかし、当時とて金山の町並みは政府があえて観光地として、開発を行わないでいたようだ。しかし、万博に合わせてもっと変わる、少なくとも生活の場としての役割は失われるように感じていた。

 壊れかけの石橋も生活のすべてにおいて依存する濁った川も、自分は好意的とらえていたし、一緒に行動していた日本人が鼻をつまんで使用した水洗でないトイレにしても、日本人の彼が失礼なように見えた。無論、骨髄反射だったのかもしれない。でも"呉に来れば呉に従え"という古い呪文めいた言葉も環境と人生のタイミングによっては、回顧主義的になるものだ。

 そう、そこで、とある画家に出会った。その人物は紫のチャイナドレスを着ていたけれど、男性なのか女性なのか私には解らなかった。しかし、セクシーだとは思ったよ、なんというか性的な良さというか、一つ芯の通った人間に時々感じる敬愛にも似た色気だった。

 彼女(あくまでこの場では)のかいた絵はカラフルに上海の風景を描いていた。実際にはそこに存在しない色彩を加えるという、私にはこの画法の名前は解らなかったけれど。この手の芸術には当時も今も疎いのだ。

当時は素直に彼女の絵に感動をお覚えた。それは時代とシチュエーションが大きく作用した印象だったのかもしれないけれど。

 しかし、今は彼女の絵は派手すぎたように感じてしまう。個人的な感想であるけれど、都会や名所、深い歴史を持った場所は私にはいつも無色に思えるのだ。きっと古い時代には見えない豊かな色彩を持っていたのかもしれないけれど、永い時の流れや人は、少なくとも肝心なところ無関心な人々は色を消ゴムで消してしまうのではないだろうか。バンクシーの落書きは大切にするのにね。

まぁ、余りにも個人的な考えであることは理解しているけれど。

きっと、彼女には私には見えない色が見えていたのだろうし。

 私は彼女の絵を一枚買った、金山の川辺で玉蜀黍を洗う女性の絵。きっと彼女の作品の中では異色の作品だったのだろう。

画廊(というか吹き抜けの小さなコンクリート造りの、なんというか漬物屋みたいな所だったけれど)には、そのような素朴な絵は一枚しかなかった。

彼女は「ありがとう」と釣銭を渡すと同時に言った。私は偽善的に釣銭を貰わなかった。

 彼女の絵は引っ越しの連続で、今は何処にあるかも解らない。知らず知らずのうちに、私も"無関心な人々"の仲間入りをしてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る