間宮渚 —1 前夜
千尋は手紙を読み終えた。10行にも満たない短い手紙。
頭痛がますます酷くなってきた。
「う・・・・・。」
千尋は頭を押さえる。
「お・おい。大丈夫か?」
祐樹は心配そうに声をかけてきた。
「は・はい。大丈夫です。この人の事を思い出そうとすると頭が痛くなって・・・。」
「それなら無理に思い出そうとすることはないさ。その内思い出せるかもしれないし。」
祐樹は肩をすくめて言った。
「でも、どうして私は渚という人の事を忘れてしまったのに橘さんは彼の事覚えているんでしょう?」
それが千尋には謎だった。
「う~ん・・・。恐らく俺が思うには昔からの本当の渚を知ってたからなんじゃないかって思うんだよな。」
「そうかもしれませんね。」
「で、これからどうする?俺は明日渚が退院するから午前中に病院へ身元引受人として迎えに行くんだけど。はあ~・・実はアイツさ、アパートを解約して今住む場所も無いみたいだから、当面俺が面倒みてやるつもりなんだ。」
祐樹はため息をついた。
「あの、渚さんにはご家族はいないんですか?」
「ああ・・・そうか。渚の事知らなくて当然だよな?アイツ、親に捨てられてんだよ。」
「え?」
「渚の両親はアイツが小学生の時に離婚してるんだ。父親も母親も浮気相手がいたんだぜ?笑っちゃうよな?結局渚は父親に引き取られたんだけど、再婚相手の母親ってのがまだすごく若くて、渚が中学の時に弟が産まれたのさ。父親も義理の母親も当然の如く弟ばかり可愛がるようになって、アイツ段々荒れていったんだよ・・。」
なんて気の毒な話なのだろう。千尋は胸が痛んだ。
「渚が高校生になるころは、もう何回も警察に補導されるようになっていて、とうとう渚は父親からアパートを借りられて家を追い出されたんだよ。それで渚の奴一度母親の住んでいる住所を尋ねて行った事があるらしいんだ。けれど再会した母親になんて言われたと思う?」
「え・・・?何て言われたんですか?」
「『あなた誰?』って言われたらしいよ。母親の再婚相手はどこかの会社の社長らしくて馬鹿でかい屋敷に住んでいたんだとさ。再婚相手には連れ子がいたらしくて、皆で仲良さげに暮らしていたって、あいつ自嘲気味に言ってたよ。」
「・・・・。」
もう千尋には何も返す言葉が無かった。
「だから渚には身内の身元引受人はいない。病院側が渚の身元が分かったからって両親の家に連絡いれたらしいけど、もう赤の他人だから関わりたくないって電話越しで言ったらしいよ。まあ、流石にこの話は病院の方でも渚の耳には入れてないみたいだけどな。」
千尋が押し黙ったままになってしまったので、祐樹はわざと明るい声で言った。
「あ~悪い。暗い話ばかりしちゃったな。考えてみれば青山さんは本当の渚の事全く知らないのに余計な事話して嫌な思いさせしまったな。あ、そう言えば俺腹減ったなあ。何か食うかな?青山さんはどうする?俺が呼び出したんだから何か奢るぞ?」
「いえ、私は・・・もう帰ります。」
立ち上がろうとした千尋に祐樹は言った。
「・・・明日一緒に行くか?病院。」
「え?」
「一緒に過ごした渚って男、手紙を読んでも思い出せなかったんだろう?」
「は・はい・・・。」
「中身は別人だけど、本物の間宮渚に会えば青山さんの知ってる渚の記憶が戻るかもしれないしな。」
「そ、それは・・・。」
「思い出したいか?」
祐樹の真剣な眼差しに千尋は思わず頷いていた。
「よし、それじゃまずは腹ごしらえだ!飯食って帰ろうぜ?ほら、メニューだ。」
千尋は祐樹からメニューを受け取り、中を開いた。
「え・・・と、何にするかな・・・。」
祐樹は暫く真剣にメニューを見ていた。そして言った。
「よし、俺は焼肉定食だ。青山さんは決まったか?」
「それじゃ、私はシーフードグラタンにします。」
祐樹は店員を呼ぶと、二人分のメニューを注文した。そして店員が去ると千尋に言った。
「あのな、ちょっといいか?」
「はい?」
「そう、その口調だよ。敬語なんか俺に使うなよ?そういう話し方正直苦手だからさ。頼むから普通にしゃべってくれると助かる。」
「え?」
千尋はポカンと口を開けた。
「うん、分かった。それじゃそうするね。」
笑みを浮かべると言った。
「それがいい。」
祐樹は言った。
「?」
「ずっと暗い顔してただろ?やっと笑ったな。青山さんは笑ってる顔の方が似合ってるぜ。」
「あ、ありがとう。」
やがて二人の前に料理が運ばれてきた。
「うは~美味そう!それじゃ早速いっただき~。」
祐樹は焼肉を箸で摘まむと口に運んだ。
「くーっ!この肉、味付け、最高だ。」
ガツガツと食べる祐樹を見て千尋はグラタンを食べながらクスリと笑った。
「ん?何だ?どうかしたか?」
「本当に美味しそうに食べるんだなって思っただけ。」
「そりゃそうだ、人間食べてる時が一番幸せ。食わなきゃ考えもまとまらない。だから俺は日頃から自分の生徒たちに言ってるんだ。朝昼晩、好き嫌い言わずにちゃんと食えよって。そうじゃなきゃ頭も回らないからなって。」
「え?生徒?もしかして学校の先生?」
「それはちょっと違うな。俺は塾の講師をやってるんだ。まあ、バイト的な感じなんだけどな。週に3回小学生から中学生までを見てるよ。あ、ちなみに科目は算数・数学だな。」
「へえ~。」
「あ、今意外だと思っただろ?」
千尋の考えを見透かしたかのように祐樹は言った。
「べ、別にそんなんじゃ。」
「んで、本業はこっち。」
祐樹は名刺を渡した。
「あ・・・バーの店員さん?」
「ああ、俺バーテンなんだ。今は雇われの身だけど、いつかは自分の店を持つのが夢なんだ。」
「すごい・・・。実は私今迄一度もショットバーに言った事が無くて。」
「へえ本当か?何で?店で飲んだりしないのか?」
「お酒は好きなんだけどね、大体いつも家飲み。たまに飲みに行くとしても殆ど居酒屋ばかりかな。」
「何でショットバーには行かないんだ?」
「だって何だか敷居が高いような気がして。それにああいうお店って何となくお洒落な格好して行かないとならないように感じるんだもん。私、花屋で働いてるからカジュアルな動きやすい服ばかり着てるから。まさかジーンズ履いてショットバーなんか行けないでしょう?」
千尋は苦笑して言った。
「うーん。そんな事は無いと思うけどな。それなら今度俺が店番の日に店に来るといい。1杯位なら奢ってやるぜ?そういや、この間渚と渚の知り合いの男にも店に来いよって誘った事があったっけな。でもアイツはもう二度と来ることは無いだろうけどな。」
「知り合い?」
「あ、そう言えば青山さんは知ってるか?あの渚の知り合いで確か苗字は里中って言ってたっけ?」
「里中さん?彼の事知ってるの?」
「ああ、一度俺が渚と話をしている時に何処からか現れたんだよ。今考えてみればきっと渚の事つけてたのかもしれないな。何だ?やっぱり知り合いだったのか?」
「私が花屋で働いているお得意様の病院に勤務している人なんだけど。」
「ふーん、そっか。それならその里中って男と一緒に店に来るといい。」
「ありがとう。でもバーテンさんか。うん、似合ってると思う。」
千尋は素直に感想を述べた。
「まあ、そっちの方が俺に向いてると自分でも思ってるけどな。あ、でも自分の教え子たちだって気にかけてるぞ?生意気な生徒も中にはいるけど、皆俺の可愛い生徒たちだからな。」
「きっとすごくいい先生なんだろうね。」
「うん?ま・まあな?」
少し照れたように祐樹は笑い、そして言った。
「ところで話は変わるけど・・・まあ渚の事忘れてる人間にこんな事言っても無意味かもしれないけど、万一の為に言っておく。いつ青山さんが渚の事思い出すか分からないしな。」
「何?どんな話?」
「俺は昔の渚も、最近までの渚の事も両方知っている。問題なのは、本来の渚の方だ。アイツは心に闇を持っている。だからあまり近づかない方がいい。これは青山さんの為を思って言ってる事だ。俺はただ単に青山さんの記憶を取り戻すためだけに渚の元へ連れて行ってやるつもりだ。仮にあんたが知ってる渚の事を思い出したからと言って、姿だけ一緒で中身は全くの別人て事は理解しておいてほしい。過度に今の渚に期待を持ったりしたら駄目だからな?」
「う・うん・・・。」
千尋はごくりと息を飲んだ。
「そういや・・・里中は渚の事覚えてるんだろうか・・?」
「え?それは・・?」
言われてみれば、一度もそのような考えが頭に浮かんだことは無かった。
「まあ、今度聞いてみればいいか?」
結局、最初から話が合った通り2人分の会計は祐樹が支払った。
店を出る時に千尋はお礼を言った。
「どうもご馳走様でした。」
「いや、気にするなって。ところで家、どっちの方向なんだ。」
「私、向こうから来たの。」
千尋は後方を指さした。
「送ろうか?」
「一人で帰れるから大丈夫。」
店の前で祐樹と別れると、千尋は夜空を見上げながら家路についた。
鍵を開けて家に入る。真っ暗でシーンと静まり返った部屋。
やっぱり違和感を感じざるを得なかった。いつも誰かがこの家に一緒にいたような気がする。
思い出そうとしても頭が痛んで思い出す事を拒んでいる。
「・・・どうしてなの・・?どうして私何も思い出せないの・・?」
胸にはぽっかりとした穴が空き、空虚感が漂っている。
千尋はもう一度祖父の部屋へ入り、ベッドに座る。
「ここで・・・渚と言う人が寝起きしてた・・・?」
あの手紙、はっきりとは書いていなかったがどう考えてみても自分に好意を持っていた相手としか思えない。
そして今朝、自分はこの部屋で何も身に付けない姿で眠っていた。
と言う事は—?
「私、ひょっとして昨夜その彼と・・・・?」
千尋の顔が見る見るうちに赤くなる。自分は何一つ覚えてはいないが、この部屋で裸で眠っていたと言う事は恐らくそういう事だったのだろうと理解する。
その時、何かの映像が千尋の頭に浮かんだ。
千尋を優し気な瞳で見つめる男性、そして千尋に囁いた。
≪愛しているよ、千尋・・・・。≫
気が付いてみると千尋は座り込んでボロボロ涙を流して泣いていた。
「どうして・・・こんなに胸が苦しいの・・?どうして何も思い出せないの・・・?」
改めて預かった手紙を読み直す。そして気が付いた。
最後に書かれた文字
—ヤマト—
「ヤマト・・・?まさかヤマトだった・・の・・?」
千尋の手から手紙が落ちた。
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