第18話 エマージェンシー

 ここには有り難いことに蛇口があって水も出た。

 しっかりと喉を潤すと、手と顔も洗っておく。適当に見繕みつくろった瓶に水をつめておくのも忘れない。

 やすらぎの一時だ。

 ひとりでに転がるボールや裾を引く見えない手と、少々落ち着かない環境でありはしたが。


「悪意を持った人と比べるまでもない」


 そう一人呟くと、見つけたバスタオルで物資を飴のようにくるむ。それから、肩からナナメがけで体に縛り付けた。

 これで両手が自由に使える。


 扉を開き、外の様子を確認する。

 通路の先には誰もいない。

 進むべき道は三つ。右に曲がるか左に曲がるか、真っ直ぐか。

 計ったかぎりでは、次に布が通過するまでおよそ八分。

 選んだ先がたとえ行き止まりであろうとも、引き返す時間は十分にあるだろう。


 よし行くかと身を乗り出す。が、その時、これまでになく強く服の裾を引っ張られた。

 すごい力だ。

 それもそのはず、どうやら裾を引くのは一つではなく、無数の見えない何かが私の服を掴んでいるようだった。


 ここから出さない気か?

 ――いや、引き止めには違いないが、少し意味が異なるようだ。


 通路の奥からフラリと人が現れた。

 どうやら女のようで、年の頃は三十代後半、白いシャツにピンクのエプロンを着る。

 あまり汚れは目立たない。

 これまで見た者たちと違い外見に気を使っている印象を受ける。

 ただ、手に持っているものを除けば、だが……


「あら、まだ起きてたの?」


 ニヤリと笑みを浮かべると、女はこちらに向かって駆け出した。

 その手に握り締めるのは警棒のようなもの。

 しかもときおり、先端から青白い紫電を走らせる。

 暴徒鎮圧用ぼうとちんあつようスタンガンか!!


 女の瞳に映るのは狂気だ。

 会話を早々に諦めた私は、素早く部屋の中央へと陣取じんどると、入り口に向け銃を構える。


「寝てない悪い子はここかしら~」


 ガウン! という音と共に肩に衝撃が伝わる。

 リボルバーより放たれた銃弾が女の胸を捉えた。


 手応えは十分。

 女は後方に倒れると、ピクリとも動かなくなった。


 スタンガンに注意を向けつつ、女の死を確認する。

 即死だ。どうやら弾はみごとに心臓を捉えていたようだ。


 ふふふ、やはり狂人は良い。こうして私に物資を届けてくれる。

 ポケットにあったキャップ五枚、首にかけていたカードキーのようなもの、そして暴徒鎮圧用ぼうとちんあつようスタンガンを奪うと、今度こそ部屋を後にした。




――――――




 右の袖をかるく引かれ、右に曲がる。

 左の袖を引かれると左だ。


 どうも見えない何かは道案内をしてくれているようで、行き止まりに出会うこともなければ、歩く布と鉢合わせることもなく進めている。


 ただ、道中どうちゅう一度だけ、薄暗い通路へと行き当たった。

 いかにもと言った風体の、格子状の金属製シャッターが降りた通路だ。

 懐中電灯で奥を照らすと脇道も扉もない一本道で、おそらく区画のつなぎ目だろうと思われる。

 手動ではとても開きそうにない。かといって開閉ボタンも見当たらない。

 制御する場所が他にあるのか? と思案する私の袖は再び引かれ、最終的にある扉の前へと辿り着いた。



 これまでと似たような金属製の扉で、開閉ボタンに手をかけるもロックされており、開く気配はない。

 見れば目の高さに、黒いレンズのようなものがある。

 生体認証だろう。


 チッ、あの女の目玉でもくり抜いてくれば良かったか?

 いまさら引き返すのも面倒だと、舌打ちをする。

 ――いや、待てよ……

 女から失敬しっけいしたカードキーを取り出し、かざすと、小さな電子音と共に扉が開いた。


 中は十メートル四方ほどの部屋になっており、机が数台向かい合わせで並んでいた。

 壁には変色してしまった紙がいくつも貼られ、部屋の隅にある開いたままのローカーからは、ホウキやチリトリなどの掃除道具が飛びだしている。

 見える範囲に人影はない。

 入ってきた扉をロックすると、紙に書かれた文字を読んでいく。


 『四月十日、輪投げ大会』『五月三日、折り紙教室』

 『刃物は引き出しにしまい鍵を閉めること』『手洗い週間!』


 文章というより内輪むけのメモといったものであった。

 内容から言って、ここは教員室だろうか?

 そうして張り紙を読んでいるうち、壁に青と赤のボタンがあることに気がついた。そして、すぐ下に記載されたエマージェンシー(緊急)との文字も。



 コレか。

 緊急用ボタン。コイツであのシャッターが開くのか?

 それとも別のボタンか?


 見えない何かは、シャッターの下りた通路を経由してから、ここへと導いた。

 通過できぬことをわざわざ見せたのだ。少なくともアイツはコレだと言っている。


 だが、なんというか……嫌な予感がするのだ。

 今のところ、見えない何かから悪意を感じるわけではない。

 しかし、どうにも気が進まないのだ。


 ここは慎重になるべきだろう。

 改めてボタンを観察する。

 上下に二つ並んでおり、上が青で下が赤。

 また、それらを覆う透明なカバーもついており、外さなければ押せない構造になっている。


 通常、緊急用ボタンとは装置に備えつけるもの。

 事故を未然に防ぐため、すぐ停止できるよう目の届く範囲にあらねばならない。

 だが、この部屋には装置と呼べるような物はない。


 となると警報装置にるいするものだが……

 ――非常用ベル……はないな。

 カバーがあるのだ。すぐに押せなければ意味がない。


 ならば、区画を隔離するといったもの。

 これならあてはまる。遠くのシャッターを開閉できても不思議ではない。


 ただ問題は、開くのがあのシャッターだけなのか? ということだ。

 途中には、開かない扉がいくつもあった。見つけていない他の扉もあるだろう。

 それに、この区画へ入れはした。区画そのものを隔離したワケではない。


 はてさて、緊急とはいったい何に対してのものなのか……


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