終焉のエルザリード
夜々
第1話 ぼくらについて
『プロローグ』
「――猫は自分の死に際を悟るとね、飼い主のもとからいなくなるんだって。それって……すごく愛おしいと思わない?」
6月の半ばごろだったと思う。雨の降りしきる中、僕らは猫を捜していた。
街中のいかにも猫が好みそうな――隙間という隙間を覗き込んでは、ため息が漏れそうになるのをこらえた。
エルザの苦しげな喘鳴が聴こえてきた頃にようやく、僕らふたりは立ち止まった。
その細い肩を抱き支えながら、やはり僕は後悔した。悔いることが判りきっていたのに、どうしようもなくその選択をした。彼女の体調よりも、姿を消した愛猫をさがしたいというエルザの感情を優先してしまった。
女の子が涙を浮かべる姿には、それだけの説得力があった。
……こんなのは、言い訳でしかない。
ひとまず細い路地裏に入り、雨宿りをすることにした。そうすることにしたときようやく、僕らは酷く濡れていることに気づいた。雨に打たれる不快感や寒さよりも、そのときの僕らにとって、一匹の猫のほうが大事だった。きっとそれだけのことだ。
彼女はポッケから取り出した吸入器から、薬を精いっぱい吸い込んで、それからいつものように、申し訳なさそうな笑みを浮かべた。発作を起こしたときの、彼女のくせだった。
呼吸がだんだんと落ち着いてきた頃に、ぽつりと、そんなことを言われた。
僕はすこし考えて、返事をした。
彼女に対してだけは、どんなにくだらなくて、意味のない会話であっても、誠実でありたかった。てきとうに話を合わせたり、同意してみたり。たとえ会話が滞っても、そういうことはしたくなかった。
――――だって、エルザは僕の神様だったから。
「……どうして愛おしいと思うの?それが愛おしいのに、キミはどうして猫を捜すの?」
なんとなく理由は推測できたけど、なんとなくで彼女と話したくは無かったから訊いてみる。
「だって、わたしだったら好きなひとの前で死にたくないから。つまり……猫は飼い主のことが好きなんだと思うんだ。だから、わたしは猫を捜すの。好きになってくれたお礼に、きっと弱ってるあの子を、守りたいから」
「……たとえ、キミの言うとおりだったとして。それって、猫の気持ちを無視してないかな。猫を愛しているなら、その意思を尊重すべきだと僕はおもうけど」
「愛情なんて、きっと身勝手なものだよ。リードは、感情に正しさを求めるの?」
「感情には求めないよ。でも、感情の間違いを正すために理性があるんだと思う。愛情にだって、理性が含まれてると僕は思いたい」
「そっか……じゃあ、愛情の定義をしなくちゃね」
そう言うと、どこか嬉しそうに彼女は微笑んだ。
僕も頬を緩ませた。彼女の笑みに釣られた訳じゃなくて、好きなひとと愛について話すことは、きっと幸福なんだと。そう思ったから。
結局、猫は見つからなくて。僕は、雨粒や汗や涙でぐしゃぐしゃな彼女の濡れそぼつ髪を優しく撫でながら、ふたりの住むアパートへの帰路を辿った。
エルザを慰める方法を、必死に模索しながら。
*
「…………ねえリード。勿論、起きてるよね……?」
「ん……うん……」
「ふふっ……ねむたそうだね」
白い月が煌々と黙し、星々を霞ませる青い夜。とあるアパートの一室では、幼い密談がおこなわれていた。
背中合わせに横たわる13歳と12歳。もぞもぞと毛布が動く。
小声ながらも、弾むような口調で少女は語りかける。
「……ねぇ、言葉のいらない話をしようよ」
「……なぁに……それ……。……きみってたまに変なこというよね……」
一方の少年はすこしだけ面倒くさそうな声で、あくび交じりに返事をした。
「……だからさ……」
「――――こういうことだよっ」
小さく軋むベッド。
頬に訪れた未知で柔らかなその感触に、思わず彼女のほうを振り向く。
月明かりに照らされた彼女の顔は、余裕たっぷりの口調とは裏腹に、ほんのりと紅く染まっていた。
それが何だかおかしくて、ゆるく微笑んだあと、その額を軽く小突く。彼女は悪戯っぽい表情で大げさに痛がりながら、ころころと笑った。
――――そうして運命の夜は、あまりに静かに更けてゆく。運命はまるで世界のいたずらみたいだ。子どもみたいに無邪気で、とっても残酷で。
そんなものを知る由もない僕は、あたたかな気持ちで眠りについた。
「…………おやすみ、リード。……また、あえると……いい……ね」
ふるえる声で、囁く様に少女が絞り出した声。起こさぬように、もう惜しまぬように、やさしさに満ちた声。
カーペットに数滴の、きっと世界でいちばん儚い染みをのこすと、夜窓からエルザは姿をけした。
翌朝リードが目を覚ますと、彼女はどこにもいなかった。
必死で部屋中を捜し回った。部屋を出て、大家さんを訪ねても首を横に振られただけだった。 彼女とよく練り歩いた商店街や、賑わう朝市。猫とカラスがたむろする路地裏や、海を臨める小さい公園。そんな記憶たちと共に、街中を駆けずりまわった。
疲労で体が言うことを訊かなくなるまで、彼女の姿を捜し彷徨った。
ようやく立ち止まって、膝に手をつく。ぜいぜいと切れた息をなんとか整える。酸素不足の頭に浮かんだのは、昔、ふたりで猫を捜しまわった時のことだった。
あのとき、エルザに言われた言葉――。もうすっかりくすんでしまったはずの台詞が、今はやけに、鮮やかに蘇った。
「――猫は自分の死に際を悟るとね、飼い主のもとからいなくなるんだって。それって……すごく愛おしいと思わない?」
「――――わたしも、最期まで愛されてみたいな……」
*
疲れきった僕は、一度アパートに戻ることにした。もしかしたら……もしかしたら、入れ違いで彼女はもう家に帰っているかも知れない。――そんな、淡い期待を携えて。
結局、その日見つかったのは、ベッド下にあった小さな置き手紙1枚で。僕は呆然と、さよならの四文字をしばらく見つめていた。まるで、未知の言語をまのあたりにしたような気分だった。
それでも、どうしようもないほどに。それは紛れもなく――彼女の文字だった。
悔やみたくとも……その別れはあまりに突然で。ぐちゃぐちゃの思考を噛み締めたまま、過呼吸で僕はうずくまった。
それから……どれくらいの時間が過ぎたのだろう。不思議とお腹も空かない。
彼女の陽だまりの様な懐かしい匂いだけが部屋に残されていて、なんだか胸を締めつけた。
――――本当に哀しいときは涙もでないのか。
虚しさをきつく抱きしめながら、ぼんやりと孤独という言葉の意味を、想った。
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