第10話 小人閑宴/ナロケ①
白い光に眼が痛んだ。
最初はそれがなにか分からなかった。
だがすぐにハオンの光だと気付いた。
長く暗闇にいたせいか、かすかな光さえもやけに眩しく感じられる。視覚を調節しながら洞窟を出れば、ここは小高い丘の上であるらしい。まだ凍溶月も三日目なので植物はまだまだ元気で、下方には色濃い緑が広がっていた。
大きく伸びをすれば、からりとした風が髪をはためかせる。やっぱり外の空気は気持ち良い。ここまで歩いてきた洞窟の中は湿っぽくて仕方がなかった。あそこだと話も湿っぽくなるし、気分も滅入る。
そんなのはごめんだ。どうせ歩くなら緑の中が良い。
それにその方が旅っぽい。
「ノーラン平原は国土の半分を占める」女が言った。
「端が見えないですね」イルファンが答える。
なるほど、見渡すかぎりの緑だった。
途轍もなく広いその中央、つまり国の中央がイムファの森だ。
ノーランの都市は森を囲むようにして築かれている。理由は単純だ。イムファの森はあまりにも魔獣が多く、都市など作れないのである。平原地帯も安全とは言えないが性質の悪い魔獣はまだ少ない。城塞というかたちではあれど、巨大な街を建造できるほどには人が住むことができた。小都市や村ならば離れたところにもあるが、それらは安住の地とは言い難い。旅人や傭兵が仮宿とするにはよいが、長く暮らすには死がつきまとう。営みの中心は、ノーランに六つ存在する大都市だった。
「ここからだと湖もかすかに見えるだろう」
「本当ですね」
それは『五大皇湖』のうちのひとつだった。ノーランには要所に湖があり、それが重要な水源となっている。今、イルファンの目にかすかに映っているのはノーランの第四湖。平原の向こうに小さく霞がかった青がぼんやりと見えていた。
はるか遠くにあるあの湖を越えたところに、皇都エルトリアムはある。
「追手はいない」
周囲の探気を済ませてリアトが言った。
「やっとのんびり出来ますね」イルファンが言った。
「首都までは休まずに真っ直ぐ進んでも二馬遊だ。警戒しながら進めばもっと時間がかかる。今ここでのんびりなどしている暇などない」
リアトがぴしゃりと返す。
イルファンはげんなりとした。
二馬遊の距離を歩くなど、もう御免だった。
あの洞窟ですら半馬遊だったのだ。
「馬借りましょうよ」イルファンが面倒くさげに言う。
「既に手配している」そう言うとリアトは少女から目を逸らした。
あれから互いに、あの洞窟でのことには触れなかった。
なんだかあの柔なそれを明らかにしてしまえば、何もかもが壊れてしまうような気がしたのだ。だからイルファンは努めて冷静に、普段通りに振る舞ったし、リアトもできる限りは心を揺らさないように努力していた。
もちろん、その上手さで少女に軍配があがったことは言うまでもない。
しばらくのち、二人は丘を下って平原まで移動した。
そこには、小さな小さな小屋があった。何年も放置されていたらしく、薄汚れて穴だらけだった。中には小さな椅子が二つ置いてあり、それ以外には何も無かったが、不思議なことに魔獣がこの辺りには見当たらない。なので、何かが張られてはいるのだろう。イルファンは椅子で寛ぎながら、そんな事を考えた。
半刻ほどすると、たかったかっと馬の蹄の音が聞こえた。
それは聴き慣れた音だった。
少女は飛び上がった。
「暴れるなよ」リアトが言う。
「うそでしょ!」イルファンは思わず叫んだ。
「嘘の音などあるわけなかろう」
もちろん、愛馬である『トルーン』の足音を聞き違えるはずはなかった。実際、小屋の外に出てみれば、愛馬がリアトの馬に括り付けられていた。
馬の背には知らない男が乗っている。ラフィーではないが、ラフィーの手の者なのだろう。草臥れた様子が彼によく似ていて、服もフード付きの黒いぼろだ。体格は華奢という言葉が適切であるほどに細身で、折れてしまいそうだった。
かたちばかりの帯剣はしているが、あの体格で扱えるのかは疑問である。
顔や髪は真っ黒の布切れに隠れてしまってよく見えなかった。
「約款通りに」男が甲高い声で言った。
「ありがとう。情報は漏らすなよ」
「わが主とこれからも懇意にしていただければ」
「それは知らん。金貨で払おう」
リアトが男に金貨を投げると、男はからからと笑ったのち、風のように走り去った。そのときの彼は、ほとんど目が追いつかないくらいに速かった。馬で走るよりもきっと自分で走った方が速いのだろう。おそらくは、闘気特質だと思われた。
「『飛脚』という男だ。字しか知らんがな」
「二ツ名通りの速さですね」
イルファンが言う。
それを聞いたリアトはすこし考えてから言った。
「おそらく奴も、私と似た闘気特質を顕している」
「《速気》ですか」
イルファンは目を輝かせた。
「《速気》はありふれた力だぞ」女が言う。
「普通なら鳥よりは遅いって聞きますよ」
「そしてお前よりも遅いだろう」
だが、真に鍛えられた《速気》持ちの敵と相対したら、知覚する間もなく頸をすぱんと刎ねられるのだ。この眼前の女が簡単にそうできるように。
「あたしも特質が欲しいです」
イルファンの声は期待に溢れている。
リアトは絞り出すような声で答えた。
「じきに発現する」
「しなかったらどうします?」
「発現するまで修業をつけてやる」
冗談なのか本気なのか分からない顔で女が言った。
「修行なしが良いです」
「ならば《重気》がよかろう」
「それって強いんですか」イルファンが聞く。
「大芋虫よりも弱い」リアトが即答した。
§
闘気顕能。靈気能。呪能。特殊靈気。
そして闘気特質。
様々に呼称されるこの力は、闘気術に長けた者だけが扱える異能である。
そのほとんどが、自身に魔力武装か、あるいはそれ以上の力を付与する。
例えば《速気》では、天属魔力武装以上の速度を保持者に与える。これは靈気術や魔法術をどれほど極めても、到達できない速度である。他にも、限界を超えた硬度を保持者に与える《鋼気》や、《陰気》《放気》《覚気》など、その数はそれぞれにあり、いずれも、戦錬士として高みに至るためには不可欠の力であるとされる。
ただし、この異能は、しばしば使用者に悪い呪を掛ける。
それが特質後遺症と呼ばれるものである。
『部分的な記憶喪失』『身体欠損』
『体質変化』『靈力の制御不能』
『特定の事物に対する異常な拒絶反応』
『感情の欠落』『性格の変化』
どれが発現するかは分からないが、これらはどれも、一度発現すれば、日常生活すら困難にするほどの病である。それゆえに、多くの特質発現者は早晩に戦錬士をやめてしまう。発動を抑えればある程度は快方にむかい、余程の無茶をしないかぎりは症状が進行しなくなるからだ。だがそれでも、この病気が完治した例はない。
にもかかわらず、戦錬士は数千年前より絶えることなく、この力を用い続けていた。その特別性を失うことを、死よりも恐れたからである。力を失うのであれば、病に侵された方がよい……裏を返せば、特質とはそれほどまでに圧倒的な力であったともいえる。事実、靈気特質でもって王となったものは数多くおり、歴史上の英雄はそのほとんどが力を有していた。勇者も聖職者も、魔王も魔術師も例外なく。
かつて、バルニアで暴政を敷いた最後の皇帝、悪名高き暴君グディア=バルニスも《鋼気》と《狂気》と《骸気》を保持していた。その為に、帝国最後の動乱の際には、四肢を落とされて頸だけになっても、終には髑髏だけになっても、高々と哄笑を続けていたと言われている。彼の姿を直接見てしまった英雄ハランディオスは、そのおぞましさに耐えられず、自らの目玉を自らの手で刳り抜いたとまで言われる。
§
Δ
馬に跨って、平原を駆ける。
琥珀の髪を揺らす風はとても気持ちが良かった。
時折、土蜘蛛や鷹蜂などの魔虫に針兎や黒魔鼠といった小魔獣がなにも考えずに飛び掛かってくるが、イルファンの闘気を纏った馬には傷一つない。むしろ魔獣の方が馬脚に跳ね飛ばされて絶命するほどであった。
これは、真交流など多くの流派で用いられている
「おい、肩は大丈夫か」
前方のリアトがいきなり問うた。
両手を手綱から放して後ろに向き直るが、馬は気にも留めない。靈力による馬体の制御がしっかりと行われている為だ。その背上に跨るリアトの身体も揺れていない。ほとんどぶれることなく安定していた。
「ん、癒薬で傷一つありません」
リアトはそれを聞くといつもの顰め面で言った。
「癒薬は、」
「毒なんですよね」
イルファンは女の言葉を待たずに返した。
大陸全土で採れる上質な然属魔力を保有する魔蛙。その体液をカラドの粉とともに精製した物が癒薬だ。この魔蛙が毎年、馬鹿みたいに大量発生するお蔭で、この大陸においては癒薬ほど安価な薬はなく、おそらくラフィーに頼んでいたのだろうこの薬を、リアトはイルファンに渡していた。
それを用いて、少女は肩の傷を治した。
薬を塗って患部が熱くなるやいなや、傷は瞬く間に塞がった。
跡形も残らなかった。
「魔力を取り込むという行為は呪体にとって良くないのだ。自分の生命力で抑えられない分量は決して使ってはいけない。それだけは絶対に忘れるな」
「当たり前ですし」イルファンが口を尖らせる。
「なるべく呪導で治せ」リアトが言った。
ここ最近の師匠はやけに過保護だ、とイルファンはふと思った。傷を靈気の集中で治すことなど、戦錬士にとっては常識中の常識である。それをわざわざ癒薬で治癒させたのは、単にその方が速いというだけの理由からである。
「今日は過保護ですね」イルファンは口に出した。
「先んじて言っておくがな、今のお前は成長期ということもあって実体と呪体の両方が不安定になっているのだ。もしも靈魔の中立が破れてしまえばお前の存在そのものに影響が及ぶ。用心しておけ……なにせ、お前はもうすぐ、誕生日なのだから」
「誕生日?!」
その言葉に少女は目を白黒させて驚いた。
馬を急に止めそうになったが、すんでのところで踏みとどまる。
だけれどそれは、それほどに驚くべき一言だった。
「あの、私の誕生日を知ってるんですか!?」
12年近く生きてきて、イルファンはそれを始めて知ったのだ。
今まで、そんなものが存在するなど考えたことすらも、なかった。
「忘れはせん」リアトはただ呟いた。
「師匠らしくないです」
「忘れられぬこともあるのだ。ほら行くぞ」
イルファンは眉根を寄せた。師匠が自分の誕生日を知っているという喜ばしいはずのことは、少女の心になぜか影を落とした。拾った少女の産まれた日付をちゃんと知っているということは、つまり、リアトは自分の両親をよく知っているのだ。そればかりか、彼女は、産まれた瞬間に立ち会ってさえいたのではないだろうか。
それは単なる勘だった。
だが少女には事実であるように思われた。
「どうかしたか?」リアトが問うた。
「いえ……」イルファンは言い淀む。
問い詰めたくなったが、しかし、イルファンはその疑念を振り払って馬の手綱を握った。リアトを信じているというのもあるが、それ以上に長丁場の乗馬で股がずきずきと痛んでいた。ローレッドではこれほどまでに長い時間、馬に乗り続けたことはなかったし、靈力で強化された馬の震動が、あまりにも強すぎたのだった。
「あの、私、股が痛くなってきました」
「今までで一番長い乗馬だ。ふむ。休憩時だな」
そう、リアトが言ったとき、遠くのほうに小さな村が見えた。
ハオンの光は少しずつ陰ってきている。
師匠が振り返って、ひどいしかめ面を見せた。
それから馬の歩調が、歩くように変わった。
「ここに泊まる」リアトが言った。
近づいてみればやはり大きな村ではなかった。小さな家が5つと宿が1つ。それに、すこし大きめの家というか寄り合い所のようなものがあった。住んでいるのはせいぜい十数人だろう。村の周囲にはまだ何も植わっていない畑があり、数人の農民がこちらを興味深げに眺めていた。その中には子どもたちもいた。
「宿か?」村の男が問うた。
「いいか?」リアトが言った。
その身に纏うのは今や剣布ではない。それでもというべきか、だからこそというべきか、村長も二人を泊めることを快諾した。簡単な金銭を払い、リアトは品定めするように村の人々を眺めやった。睨みつけてはいないのに、するどい目だった。
「若き呪いの痕跡はない」
「まぁ、蟻街よりは安心です」イルファンが言う。
「この村の結界はかなり古いものだがな」
「魔獣より人間のほうが私は怖いです」
馬を小屋に留めさせてもらい、二人は宿へと入った。
しかしまさか野宿ではなく、宿屋で休憩を取るなんて。
急いでいるはずなのになぜだろうか、と思ったが謎はすぐに解けた。
「この先の荒れ地は『アルビシュル古戦場』と呼ばれている場所なのだ。古代バルニアの時代に狂ったような規模の殺し合いがあった。そのせいで、今でも深魔どもが現れる。大した連中でなければよいが、傭兵どもの話では厄介な『夜深魔』が出るらしい。急いではいるが、それで取り殺されては敵わん」リアトが言った。
「夜深魔?」少女が問う。
「ローレッドに出たのもそうだ」
深魔。
イルファンは最初に出会った『深魔』のことを鮮明に覚えていた。
それはまだ少女が傭兵たちと出会う前のこと。
まだ剣が重いと感じていたころのことだ。
普段からリアトは深魔の危険性について語っていて、日が暮れてからは絶対に一人で外に出るなと言っていた。だがその日は稀にある『光砂降り』の日で、明るいうちからその予兆が出ていた。イルファンは言いつけを破って窓から夜闇のなかへと飛び出した。自分が知っている最も高い場所で光砂を見たいと思ったのだ。山頂近くには古い観測塔があり、そこからはきっと最高の景色が見られるはずだった。
もちろんそれは上手くいかなかった。
イルファンがやることはいつもひどい結果を招く。
観測塔は、ローレッドのなかでもとびきりの忌地とされていて、ずっと昔にそこで殺された兵士の怨念が残っているのだという。案の定、塔のてっぺんで少女はそれに出会った。といっても本当に兵士の幽霊が出たわけではない。むしろもっと悍ましいもの、とても恐ろしい深魔『
この深魔の見た目はそれほど強そうではない。深夜の家中に出現する珍しい悪異で、覗き見るためのうすっぺらな人面と身体、戸を開ける為の4本の指、それと、針金のような手脚をもっていた。背丈は少女より少しだけ高かったが、上質な紙のように薄い肉体は、凪いだ風のなかでもひらひらとはためいていた。その化生が、塔をさらに上から見下ろすように、空に浮いていた。まるで、凧のように。
それと目が合った瞬間、イルファンは、なぜだか言葉にできないほどの恐怖を感じた。全身に震えが走り、気が付いたときには塔を駆け下っていた。慌てて塔から出ると、その扉をしっかりと閉めた。それでも恐怖心は消えず、もしやあれが紙のように舞うのではないかと上空に目を移したがその危険はなかった。
安心して一息吐こうとした、そのときだ。ノゾキミの指と目が、閉めたはずの扉の隙間からするりと出てくるのが見えた。ぞくり。鳥肌が立った。剣を抜くことも忘れて、一目散に逃げだした。ノゾキミが完全に姿を現したときには、慌ててやってきたリアトがイルファンを抱きかかえていて、走っていた。わずかな余裕もなかった。
師匠がそれほど焦るのを見たのは、後にも先にもそれが最後だった。
「ノゾキミは今でも覚えてます」少女が言う。
「あぁ、あれは本当に恐ろしい類の悪異だ。もしも捕われれば身体を丁寧に開かれてしまうし、体内に入られたら殺しきる術がない。あれは幸運だった」
それがどういう状態なのかは想像がつかない。
というか、想像をしたいとも思わなかった。
「師匠、この辺りにもあんなのがいるんですか?」
「さぁな。深魔の種類はその時々で様々だ。殺せるのもいれば殺せないのもいる。『
リアトがそう言ったとき、男が一人、イルファンに近づいた。
「ローレッドから来たのか」
「そうよ。でも安心して。私たちは剣術士だから魔獣病じゃない」
「いや、そうじゃない。病気じゃないのは見れば分かる」
「そう」イルファンが不思議そうに首を傾げる。
男は暗い目をしていた。
この暑いのに、寒そうなそぶりで息を吐く。
「今の山脈は安全なのか?」
「そうでもない。これから雪熊の季節だし、雪狗は少なくなってきているけどそのせいで小さい魔獣が増えている。病気のことを考えるなら行くべきじゃない。ローレッドはまだまだ危険な山よ」
「そうか、ありがとう」男は言った。
彼が去ってからイルファンが問うた。
「何を聞きたかったんですかね」
「察するに、縁者がローレッドへ向かうか、戻ってくるのだ」
「安全確認ですか」イルファンが得心する。
「あるいは、死亡確認だな」リアトが言った。
その視線の先では一人の女が目を腫らしていた。
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