ふき

織部いよ

第1話 生まれたときのこと

ふきは世の中のことなどなんにも知らなかった。背丈は母の腰くらいまでしかなかったし、お城のある山から下りたことだって一度もなかった。

堅牢な山々に囲われたちいさなお城は、松波国から見て東の方向にあったから、あずまのお城と呼ばれていた。季節を問わず、いつもさみしい霧が立ち込めている。霧の向こうからは、いつもおそろしい軍勢が押し寄せて来るけれど、それを山の峰で食い止めるのが、山々に点在するいくつかのお城の務めであった。ひとたび、攻め入る敵軍が現れれば、山々を木霊する鐘がたかく響き渡る。谷間の村々から農民は飛び出し武器を握り、あずまのお城からは、越谷さまを先頭に士気高く将たちが現れる。そうすれば、山に不慣れな敵兵たちはひとたまりもなく、蜘蛛の子を散らすように逃げ帰ってしまうのだ。

越谷家の将たちは、みな、長い戦のため、たいそう険しく恐ろしいお顔をされておられた。けれど、城主の越谷さまはお優しい御方であったから、彼らもみな、心やさしく、ただの農民に至るまで大切にされていた。長くあずまのお城が難攻不落であったのは、この裏切りと戦乱渦巻く時代において、彼らの絆がかたくなで、容易には解けぬものだったからに違いない。



城仕えの侍女に赤子が生まれた年にもいくさがあった。夫であり、父となった男は祖父の代から城に仕える家臣であり、臨月の、膨らむ胎をやさしく撫ぜていくさに赴き、山々にあかるく響く娘の産声を背負って山を下りた。

出産から幾ばくも無い日々、女は未だ股から血も滴るふらつく身体で赤子をあやしながら、城の門のまえに佇み、夫の帰りをひたすらに待った。だが、帰還の鐘を鳴らし、血に濡れた雑兵らが夕焼けに染まりながら城の門をくぐった時、男はすでに冷たく土くれに塗れ、蟲や鳥、痩せ犬の貪らるるまま腐りゆこうとしていた。兵の長い列が途絶えるまで、お山の向こうに陽が沈むまで、女はじっと待っていたが、ついに夫は帰らなかった。

赤子は女の浅葱色の小袖にもみじのような手でしがみ付き、すやすやと穏やかな眠りについていた。

いくさから戻った越谷さまは、生まれたばかりのやわらかな赤子のぬくい身体を抱き上げて、「春の名が良い」と、傍に立つ母、いまはもう未亡人となった女へと囁いた。

「戦乱の世は永い苦しみに覆われ、男として生まるれば、討たれ、頸を取られる定めであろう。主君に仕え乍ら死ぬ、侍としての死は本望と思えども、花の色も知らぬまま死ぬのはあまりに切ない。娘であればもうすこし長く生きられるかもしれぬ。いつか平穏たる春の到来を祈るように、この山々にも春が芽生えるように、忠義を尽くし死んだ男の分も、健やかに生きねばならぬ」

越谷さまはまるで坊主のように優しく説いた。涙にくれる女に赤子を返すと、赤子はばたばたと手足を動かし、濡れた母の頬を不思議そうになぞった。

それで、娘はふき、と名付けられたのである。

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