まひるノート ―陽射しの境界―

黒音こなみ

勉強が必要な理由

 え? 学校の怪談……?

 教えてほしいことがあるっていうから、てっきり勉強かと思ったのに、なんだそりゃ……?


『そんなわけない』って……おまえ、一学期は中間も期末も、全教科赤点だろうが。


 高校には、留年って制度があるんだぞ?

 自分のクラスからそんな生徒を出すかもしれないとハラハラしている、おれの身にも――

 

 ――こらこら、待て!

 せっかく研究室まで訪ねてきて、本当に用事はそれだけか!?

  

『はい』じゃない!


 ……まったく。いいか、おれはお前のことを素直で、友達思いの良い生徒だとは思ってるんだ。

 まわりも、お前のことは好いてるしな。

 だからこそ、成績を理由にみんなと離れ離れになんてなりたくないだろ?

 

 そうだろ。わかれば、良し。

 

 ……まあ、しかし……なんだ。

 おまえも、せっかく来て、小言だけ言われて帰るんじゃ割に合わないよな。

 

 ……わかった。今日は特別に、とっておきのを教えてやるよ。

 

 いや……『なにを?』じゃない。『学校の怪談』だよ……!

 おまえが言い出したんだろ!

 

  *

 

 生徒にせがまれて仕方なく――という、ていで話しはじめた。

 だが、本当のところは、これを誰かに打ち明ける日を、おれ自身もずっと待ち望んでいたのだろう。

 ただでさえ、いい歳をした大人が、『怖い話』を語れる機会は、そうそうない。

 

 それが、たとえ実体験でも。


 この学校に転任してきたのは、四年前だ。

 それまで、県内の他校に勤めていたが、ここは周囲に田畑しかないわ、交通の便も悪いわ、極めつけにこの古びた校舎……。

 なまじ、比較できる環境を知っていたからこそ、赴任直後は、ここに通う生徒を気の毒に思ったものだ。

 おそらく、当人たち以上に。

 

 ……いや、それは、おれが自分自身に対して抱いていた思いだったのだろう。


 とくに、校舎が好きになれなかった。

 木造でもない、ただ古いだけのコンクリートの建造物は、風情ふぜいがあるなどと言いかえることもできない代物だ。

 それだけなら、みすぼらしい職場への愚痴に留まる話だが、正直なところ、おれはこの建物、ないし空間を、当初からうす気味悪く思っていた。

 

 自分の中に、『霊感』などというものを、意識したことはない。

 ただ、人間が暗闇に対し本能的に抱く、不安、恐れ、警戒――。

 ここに来てから、そういうたぐいのものを頻繁に感じた。

 

 実際に暗闇と対峙しているわけではないのに、同様の感覚に陥る。

 自分の体感が、たびたび誤作動を起こしていた。

 


 二年目の春だった。

 家に帰ってから、学校の研究室に忘れ物をしたことに気がついた。

 週末だった。

 一週間の就労からの開放と同時に、次の一週間に向けての準備をしなければならなかった。

 その作業に必要な、なにかを置いてきてしまったということだけ覚えている。

 

 しぶしぶ、車でまた学校へと向かった。

 防犯上、詳しいことは言えないが、忘れ物をした迂闊うかつな教師が、夜の校舎に出入りできる方法が存在する。


 もう、だれの姿もない暗闇の中に、おれはひとりで踏み入った。

 残業で暗くなるまで居残ることもあるが、夜にわざわざ戻ってきたのは初めてだ。

 加えて、私服で来たことが、ふだんここに身を置く者としての帰属意識を薄れさせ、まったく馴染みのない場所に迷い込んだかのような錯覚をもたらす。


『新鮮味』などという、さわやかな言葉で表現できるものじゃない。

 せっかく、一年ちょっとかけて緩和かんわしてきたうす気味悪さをぶり返すどころか、それに輪をかけた、正真正銘の不気味さだった。


 人目を気にして照明をつけなかったことを、今でも後悔している。

 それで、防げたのかどうかは、わからないが。


 それよりも、最短で研究室の忘れ物を回収しに向かわず、大した必要性もないのに校内の見回りなんてしたことが、一番の失敗だった。

 さすがに全部じゃないが、当時、自分が担任していたクラスのある階の教室を、覗いて見て回ったのだ。


 淡々と語っているが、恐怖はもちろん感じていた。

 だからこそ、あえて恐怖にとらわれていたらできない行動を選択してしまったのかもしれない。


 気をまぎらわす……――とは、違うな。

 たとえば、想像してみてくれ。

 自分ひとりしかいないはずの家の中で、他の誰かの気配を感じたとする。

 ……泥棒かもしれない。

 しかし、そこで自分が気づいたような素振りをすれば、居直った相手が襲いかかってくるかもしれない。

 

 だから……気づいていることを、気づかせてはいけない。

 あえて、気づいていないように振る舞う。


 同様に、恐怖に対し、恐怖を感じていないように振る舞った。

 その時のおれにとって、『恐怖』は、想像力により内面からわきあがる感情ではなく、外界からの明確な脅威だった。


 もちろん、悪循環に他ならない。

 引き戸の窓から闇の箱を覗き込むたびに思った。


 なにかを見たような気がする。

 なにかを聞いたような気がする。

 なにかが触れたような――。


 研ぎ澄まされた自分の体感が、いつにも増して誤作動を起こしていた。

 実際、『正気』にピントを合わせると、次の瞬間、それらはもう存在しなかった。


 異常があるのは、おれのほうだ。

 だから、現実は『異常なし』。

 そんな面倒くさい判定を何度か繰り返した。


 その調子で、最後まで乗り切れれば良かった。

 自分のクラスの『異常なし』を認めて、気が緩んだせいだろうか。

 心持ちが影響していたとは限らないが、因果関係はあったのかもしれない。

 現実の事故も、創作の事件も、安心した時に起こるものだから。


 通路をはさんで、次の教室を覗き込んだ。


 そこでは、授業が行われていた。

 全員、黒煙が人型を成したような影法師だったが、教壇には教師役がいて、他は席に座っていて、それは間違いなく授業の風景だった。


 一度、身を引いた。

 呼吸を整え、また『正気』へとピントを合わせてから、ゆっくりと引き戸に近づいて…………覗いた。

 

――……ああ、消えてくれない。

 

 どうして……と、悔恨がこみ上げた。

 そう、『ここまできたのに、どうして』――という想いだった。


 とっくに認めていたのだろう。

 おれは、誤作動なんて起こしてはいなかった。

 

 影法師たちは、時折、その実態をあらわにした。

 順序も人数も時間の決まりもなく、明滅するようにランダムに、人型と正真正銘の人の姿とを行き来した。

 ただ、古い映画の中にいるキャストのように、色彩はモノクロだった。


 全員が男子のようだった。高校生より少し若く見える。

 皆、頭を丸めていた。制服は昭和初期の資料に出てくる立折襟のあるもの。


 戦時中だ……――と思った。


 彼らの声は、おれには聞こえなかった。

 教壇の教師の声も、指名され『前ならえ』のように規律正しい姿勢で教科書を読む生徒の声も、すべてが。

 それはそれで異様な状況だったが、この期に及んでも、薄い戸を隔てた向こうで、まさに歴史映像のフィルムが上映されているだけなのだ――という、付け焼き刃の安心感を得る材料となってしまっていた。

 かろうじて、おれが、彼らの世界と関わることはない――と。


 そうだ。また、安心してしまったのだ。

 その矢先に、彼らの授業は唐突に終わった。


 耳をすますような仕草を取る者。

 天井を仰ぎ見る者。

 席を立って固まる者。


 そして、教壇の影法師が教師の姿へと変わり、叫んだ。

 その声だけは、はっきりと聞こえた。


『空ゥ襲ゥ警ェ報ゥ発令ェェ』

 

 声にすくみあがるのと同時に、その後の展開も予想できたから、パニックになった。

 ――生徒が――影法師が、一斉に教室の出口めがけ詰めかけて来た。

 あわてて逃げようとしたが、足がもつれて倒れた。そのまま膝に力が入らない。

 

 灰色の手が、引き戸の隙間から生えた。

 おれが勝手に定めていた『境界』が、あっさりと破られる。

 そのまま、勢いよく戸が開いて、彼らがわき出してきた。


 おれは、ついに叫び声を上げた。

 

 目の前を、人の姿、形をした『なにか』が、無数に駆け抜けていく。

 何人かが、廊下に放り出されているおれの足を踏み、蹴飛ばしていった。


 見た目のとおり、煙のように触れた感覚がなかった者。

 体をすり抜けて、触れることすらなかった者。

 かと思えば、痛覚までも刺激してくる者。


 現象はまちまちだったが、すべてが『恐怖』だった。

 

 ひとりが、おれの足につまづいて転んだ。

 

「ああ……すまない……」


 思わず、謝ってしまった。


 灰色をした子供が、こちらを向いた。

 どんな顔をしていたのか、思い出せない。

 ただ、息が止まった。 


 彼は無言で立ち上がり、学友たちの後を追っていった。

 どうやら、その生徒で最後のようだった。

 

 おれは、廊下に座り込んだまま、死の淵にある末期の患者のように、小刻みで苦しげな呼吸を繰り返していた。

 目の前では、今しがた『恐怖』を放出していた空間がほぼ全開に口を開け、その奥には他の教室と同様に、宵闇だけが残っていた。


 だが、おれは気がついた。教師だったから。

 そうだ、教師なら……――

 

 教室の、逆側の引き戸が開く音が聞こえた。

 

 ――……教師なら、生徒全員の避難を見届けるまでは……。


 視界を灰色のスーツのスボンが遮った。

 顔を上げることはできなかった。

 ただ、震えることしかできなかった。


 ……手首を掴まれた。

 熱さも冷たさも感じない、ただ、掴まれているという感触だけがあった。


 そのまま……――勢いよく引きずられた。さっき生徒たちが走り去った方へ。


 わかっている。

 助けようとしてくれているのだ。逃げ遅れたのろまを。

 

 でも、どこへ逃げるつもりだ? 防空壕ぼうくうごうはどこだ?

 仮に、おまえらのかえる場所に連れて行かれたら、この世の人間はどうなる?


 おれは、わめき散らしながら必死に抵抗した。

 しかし、へたった体は圧倒的な実力差のある綱引きのように、為すすべなく引きずられていくばかりだった。


「――せん……そ、は――」


 うまく発声できない。


「戦……争はァ……終わったんだァァ」


 どうにかして、声を絞り出す。

 しかし、止まってくれない。


 そのうち、視界に映る景色が色彩を失い、モノクロへと変わっていった。

 それだけじゃない。校内が歪んで風情のある木造建てへと変貌し、耳にはけたたましいサイレンや、地鳴りのような飛行機のエンジン音までもが聞こえてきた。


 引き込まれてしまう……!

 おれは、目をつむり、記憶の整理と声を出すことだけに全神経を集中した。


「昭和……二十年……八月ゥ、十五日ィ、日本は、連合国への、無条件降伏ヲォォ――」


 止まらない。

 聞こえていないのか?

 それとも、信じられないのか?


 遡って、ソ連の対日参戦、原子爆弾の投下、ポツダム宣言の受諾といった史実を、ありったけ叫び続けた。


 その時、ふいに――夕立が降り注ぐような音して、直後に意識を消し飛ばすほどの大きな爆音に包まれた。

 

 一瞬、本当に意識をなくしていたのかもしれない。

 それほどに、たった一瞬で、なにもかもが消えてしまった。


 あの、けたたましい騒音の嵐が止んでいた。

 次に、掴まれていた手の感覚が無くなっていることに気がついた。

 ……ゆっくりと、祈りながら目を開けた。


 まるで、すべてが、束の間に見た悪夢のようだった。


 しかし、だとすれば、おれはあの教室の入り口から階段の踊り場まで、ひとりで勝手に転げ回ってきたのだろうか?


 悩む必要はなかった。

 忘れ物すら、もうどうでも良かった。

 

 助かった――ではない。

 今を逃したら、もう助からない――という思いで、死にものぐるいに、逃げた。


 考えてみれば、この時はまだ良かった。

 おれは、自分を襲った『恐怖』の正体を、自分なりに予想できていたから。

  

  *

 

 後日、学校の歴史を調べて、おれは愕然とした。

 この辺の地域は戦時中、空襲による被害などなく、むしろ疎開先に選ばれるほど平穏だったらしい。

  

 …………なんだ、それは?

 

 つまり彼らは、現世はおろか、過去の歴史上にすら存在しない存在だったとでもいうのか?

  

 心霊現象とは、もともと現実の道理から外れたものなんだろう。

 だが、それでも『非現実上』で存在するための最低限の道理は、あってしかるべきだ。

 それすらないのなら、いったい、だれが納得できる。

  

 それが、おれがこの出来事を他人に話すことができない、最たる理由だ。

 そして、今、おれが抱えている『恐怖』もそこにある。

 

 おれは、たしかにあの夜、あの光景を見た。

 もし、幻覚だったのなら、あんなにはっきりと、『存在しないモノ』を体感したおれは、果たして正気なのか?


 誤作動どころか…………完全に壊れているんじゃないか?


 その考えにとらわれ、病まずにすんだのは、数学の教師であることが幸いした。

 もし、あれが現実だったのなら、現状は数学で言うなら、数式と解とが一致しない状態だ。


 だが、いいか? この両者が食い違うことは絶対にありえないんだ。

 だとしたら、答えに繋がる式に、なんらかの誤り、あるいは不足があるに違いないんだ。

  

 先に答えがあって、その式を導き出すのに苦労するのは、よくあることだ。

 それを知っていたからこそ、おれは自分を正気だと信じ、まだここに居られる。

 

 だからな……数学に限らず、学校の勉強なんて将来役に立たないなんて思わず、ちゃんと学べ。

 きっと、お前たちのこと、どこかで助けてくれるはずだから。

 

 それと……この話がおれの口から出たことは、くれぐれも内緒にな。

    

  *

  

 話の最後の方は、いまいち、よくわかっていないようだった。

 だが、教え子は満面の笑みで一礼して、研究室を去っていった。

 

 太陽が雲に隠れたのか、窓から差し込む陽射しが、徐々に陰り始めていた。


 ……おれは、自分の手が震えていることに気がついた。

 わかっている。解決も克服もしていない。


 ――現実だったのなら、彼らの正体はなんだ?


 おれは自分にとって、少しでもマシな方を選んだにすぎない。

 だって、解明できないのなら、せめて、そうする以外にないだろう。


 今日も早く帰ろう。校舎が、夜の闇へと沈む前に――。

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