(15)

 美少女が浴衣を着ると、目の保養になる上に、その衝撃の破壊力を岳は見せつけられていた。

 それによって、岳の思考が完全に破壊されていた間に、店の前で並んでいた列がはけて、見かねた店員が呼びかける。


「お客さまー!」


 その声でやっと、我を取り戻した彼は、店の方に振り返って、真琴の分も含めたクロワッサン二つを頼んだ。

 買い物を済ませた二人は、そのクロワッサンを片手に歩く。


 真琴は買ってもらったそれを美味しそうに頬張っているが、岳はというと全く手を付けていない状態だった。

 浴衣姿の彼女を直視できない上に、そんな彼女が隣を歩いていると思うと、嬉しすぎて、食べ物が喉を通る気がしなかったのだ。


 彼のチラチラと此方を見る視線に気が付いた真琴。

 その様子よりも、手の中にあるクロワッサンの方に目がいったらしく、彼に尋ねる。


「食べないの、クロワッサン? おいしかったよ?」


 もう既に食べ終わってしまっている真琴とは反対に、岳の方は綺麗に残っている。

 聞いても彼は、一向に手に持ったそれを食べようとしないので、真琴は手を伸ばしながら貰おうとする。


「じゃあ、私が食べちゃってもいい?」


 クロワッサンの処理に困っていた彼は、好都合だと頷いて、素直に彼女へと渡した。

 甘い物が好きな彼女が嬉しそうに食べている姿を、一瞬チラッと横目で見ただけで、岳は悶えそうになる。

 必死に堪えてはいるが、顔がにやけてしまうのを抑える事はできていなかった。


「んー! おいしい!」


 思わず声が出てしまうくらい美味しいのか、それとも、食べていない岳に自慢したいのか。

 どちらにしても、岳はそれどころではなかった。


 ――尊すぎるだろ……


 いつもは長い髪の毛によって隠されていた彼女のうなじに、耳元、加えて、そのすぐ傍から頬に向かって垂れた髪の毛。

 その全てが、浴衣と合致して、彼女を一段階上の神々しい存在にまで昇華させている。

 それを見て、喜んでいる自分を、岳自身、気持ち悪いとは思いつつも、やめる事はできない。

 ただ、一つだけ欠点を挙げるとすれば、彼女の隣をそんな自分が隣を歩いている事くらいだ。

 それも岳は、きちんと自覚していた。


 隣にいる彼女の歩調に合わせながら、彼女が向かう方へとついていく。

 彼女がどこに行こうとしているのか、岳は全く見当もついていない。

 甘いクロワッサンを食べるのに夢中すぎて、聞いても教えてくれそうにない。


「私の浴衣姿……どうかな?」


 彼が油断していたところ、唐突に質問してきた彼女手には既に、クロワッサンを包んでいた紙しか残されていなかった。

 彼女が渡してこようとするそれを、無抵抗で受け取りながら、彼は控えめに答える。


「最高だよ……?」

「それだけ? もっとどこが良いのか、具体的に言ってくれないと、伝わらないよ?」

「具体的にって……」


 先ほどまで思っていた事を、そのまま口にしてしまえばいいのだが、流石の岳も、恥ずかしい気持ちが表に出てくる。

 そんな会話をしているうちに、二人が辿り着いたのは、今朝待ち合わせをしたエスカレーターの前だった。

 そのエスカレーターを上がると、そのまま駅に併設された商業施設の方へと入っていく。


「言ってくれないの?」


 物欲しそうな表情をしながら、横から顔を覗いてくる彼女のその仕草に、岳は自らの頬を赤らめる。

 可愛らしい彼女のお願いを聞かないわけにもいかなかった。


「綺麗なうなじに見惚れてるし、浴衣もすごい似合ってて……似合い過ぎてて、目のやり場に困るというか……クロワッサンも食べられないくらい胸が苦しくて……とにかく最高なの!!」

「フフッ……ツバキくん。き も ち わ る い」


 彼女は笑いながら岳を罵倒すると、ここでもエスカレーターに乗って、上の階を目指す。

 左側に人が列を作っていくのに従って、彼女の後ろについていく岳は、浴衣からほのかに香る、良い匂いを噛み締めていた。

 そのまま二人は屋上まで辿り着き、そこでようやく、彼は彼女のやろうとしている事を知る。


 ――花火大会……!?


 看板に書かれた文字を、岳は心の中で、読み上げる。

 駅の屋上は、少し離れたところで打ちあがる花火を、観賞する為の会場になっていた。

 岳は、土曜日に向けて、色々と調べていたのにもかかわらず、こんな催しがある事を知らなかった。

 それに驚くとともに、この為に彼女が、わざわざ浴衣に着替えてくれたのかと思うと、感謝の言葉しか頭に浮かんでこない。

 加えて彼女は、事前にチケットまで用意していたらしく、スタッフにそれを渡す姿を見て、岳はなんだか申し訳ない気持ちになってくる。


 チケットの代金を渡そうとする彼に、彼女は「クロワッサン食べさせてくれたから良いよ」と受け取らなかった。

 屋上は既に多くの人が、花火を見ようと、席に座って、談笑やらを楽しんでいた。

 割合的には家族連れより、カップルの方が多い。

 その中を二人で一緒に移動している最中も、岳は考えていた。


 ――僕は彼女に、これだけの事をできているのか……?


 彼女に殺されている。

 それだけで十分すぎるはずなのに、そう思えない岳は、自分の事を心の底から馬鹿だと思う。

 殺されているのだから、それ以上の何も与える必要は無い。

 与えるべきは彼女の方で、それが彼と彼女が交わした契約なのだから。

 それでも、与えたいと思ってしまうから、彼は自分を卑下するような事を思った。


 横に長い木製の椅子の上に座る彼女。その隣に岳も腰を下ろす。

 そして、安久と話した事で気が付いた自分の思いを、彼女に伝えた。


「今日、真琴さんに『謝られてどうだった?』って聞かれた時に、僕は気持ちの整理できなくて、答えられなかった。けど、真琴さんと大学で別れた後に、安久と話して思ったんだ。あの一言の謝罪があったおかげかは分からないけど、僕はちょっとだけ、救われたような気がするよ……」


 あの時には聞けなかった岳の気持ちを聞いて、少し驚いたような表情をする真琴は、穏やかな口調で応える。


「そっか……ツバキくんは、少しだけ許せたんだね……良かったと思う……私、ね。ツバキくんと安久さんのこと見てて、羨ましいと思ったよ。どんな形であったとしても、好きな人と一緒に過ごすことができたんだから」


 安久との関係が羨ましいなんて言葉を、彼女の口から聞けるとは思ってもみなかった岳は、自らの目を見開く。

 同時に、続けて言った彼女の言葉に、彼女との温度差を感じ取った。

 こんなにも満たされている自分とは違って、彼女の方は岳と一緒にいる事を何とも思っていないのだ。


 真琴は、岳の事を好いているから付き合っているわけではない。

 それでも、こうしてわざわざ彼をオープンキャンパスに誘ったり、浴衣を着て喜ばせたり、一緒に花火を見ようとしてくれたりするのはどうしてか。

 契約を全うする為にしては、過剰すぎる。

 利己的な考えで彼を殺している事への後ろめたさが、多少なりとも彼女の中に存在していなければあり得ないだろう。


『私を救おうだなんて思わないで』


 その言葉は彼女の強がりで、本当は救われる事を望んでいると、岳は思い込む事にした。

 そうしない限り、一生、彼女との距離を縮める事はできないと確信していた。


「真琴さんは、それを望んでないかもしれないけど……僕は――――真琴さんを救いたいって思う」


 彼女は、彼の発言に少しだけ反応を見せた。

 それに気づきつつも、岳は話を続ける。


「どうすればいいのかは分からないけれど、誰かを殺さなくても良いようにしたい……もちろん、それが叶うまでの間は、僕を殺してくれて良いんだけど……」

「そんなの……ツバキくんにできると思う?」


 可能であるという確証は勿論ないが、不可能である事もまた、否定できない。

 だから、岳は、真琴の尋ねかけには、同意も否定もする事なく、ただ、じっと彼女を見つめ続けた。

 それは、自らの決意を示しているようだった。


「それに、私は――――」


 言いかけた彼女のその先の言葉は、打ち上がって開いた花火の音によってかき消され、岳の耳に届く事はなかった。


「なんて――――?」


 岳が尋ねる間もなく、打ち上がり続ける花火を、彼女は綺麗な瞳で見つめていた。

 体に響き渡る花火の音とともに、岳の方も気持ちが高ぶってくる。

 そして、何を思ったのか、そのままの勢いで、彼女の元へと手を伸ばし、彼の方から彼女の手を握った。

 それに対して、花火を見るのに夢中な彼女は、何も反応する事なく、握り返してくれる事もなかった。

 

「ただの炎色反応なのに、綺麗だね」


 花火と花火の間に漏らした彼女の言葉は、彼の耳にずっと残り続けた。

 そう言った彼女との距離は、近いようで、あり得ないほど遠いと、岳は思った。

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