(13)

 絶賛オープンキャンパスが開催中の大学構内で、学生鞄を二つ手に持った状態で立つ、一人の男子高校生がいた。

 彼、椿本岳は、笠嶋真琴に誘われて、この場所に来た。

 しかし、さっきまで一緒だった真琴の姿はそこにはない。

 それを気にする様子は彼にはなく、ただ一人でスマートフォンの画面を見つめていた。

 岳は、何とも言えないような表情を浮かべ、携帯端末を片手で握り締める。

 それは、嬉しさのあまり叫びだしたくなるのを堪えている顔だった。


 ――真琴さんの……連絡先……!!




 時間は遡る事、十分前。

 真琴から鞄を受け取るとともに、岳はこう言われた。


『私の鞄預かっておいてくれない? 少し用事ができたから、朝待ち合わせした駅で、私の用事が終わった後に落ち合いましょう? ツバキくんはもう少し、オープンキャンパス見て行ったら良いと思う。放課後の、私との勉強のモチベーションにも繋がるかもしれないしね』

『駅ってまた、エスカレーターの所に……? 何時くらいになる予定なの?』


 急な予定変更に、ここまで考えが回った自分を褒めてあげたいと思いながらも、内心は少しがっかりしていた。

 安久の乱入によって一時妨げられた、真琴と岳の二人の時間が再開するものだと、彼は思っていたからだ。


『何時って、そっかー……』


 考える素振りを見せる彼女は、携帯電話をポケットから取り出して、彼にも同じように手に取るよう促した。

 そして、自らの電話番号を彼に教えた。


『これでメッセージのやり取りもできるようになったから、心配いらないね』


 そう言い残すと、真琴は安久が歩いて行った方向へと消えていった。




 ――真琴さん、何しに行ったんだろう……


 真琴は、詳細を何も教えてくれないまま、行ってしまった。

 鞄を彼に預けているという事は、今日、もう一度、彼と会う気ではいるのだろう。

 だったら心配していても仕方がないので、彼女の言っていた事に従う事とした。

 午前には見られなかった他の学科の展示でも見に行こうと、岳は二つの鞄を手に持って、動き出す。

 とりあえず外にいると暑くて死にそうになるので、建物の中に入って、ベンチに腰を下ろし、涼みながらパンフレットを見る。

 そこで、彼は思いついた。

 そもそも、彼女の用事が終わるまで時間を潰すのなら、駅に戻った方が良いのではないか、と。


 ――うーん……でも、なぁー……


 せっかくオープンキャンパスに来たのだから、もう少しだけ見た方が良いのではないか、という気持ちも彼の中には存在していた。

 そうして迷っていると、彼の耳に変な声が入ってくる。


「げっ!」


 道端で大きなカエルにでも遭遇したかのような声に、岳は顔を上げる。

 彼は、複雑な表情でその人物を見ていた。

 岳と中学時代付き合っていたが、破局し、さらに先ほど過去の出来事を謝罪してきた安久美乃梨がそこに立っていた。


「帰るって言ってなかった……?」

「『元気でねー』とは言ったけど、帰るとは言ってない! それにみのりだって帰りたかったんだけど……ちょっと色々あってねー……がっくんはなにしてるの?」

「僕は……もう少しオープンキャンパス見るか、このまま帰るか、迷ってるとこ」


 彼女と普通に会話できている事に、彼自身も驚いていた。

 あれだけの攻撃的な言葉を彼女に浴びせられるほど、岳は彼女の事を嫌悪していた。

 それなのに、今では少し気まずいと思うくらいで、会話はできる。

 彼の中に存在する傷が消えたというわけではない。

 むしろ残っていた傷と彼女に対する複雑な気持ちが、彼の顔にも表れたのだった。


「すぐ帰るのは待ったほうがいいかもねー。三十分くらい経ってから帰るのを、みのりはおススメするよー」


 そう忠告する安久も、さすがにあの二人と一緒に帰ろうとは思えず、引き返してきたのだった。

 その結果、建物の中にいた岳と顔を合わせる事となってしまった。

 真琴は、岳と一緒にオープンキャンパスを回ったらどうかと提案していたが、ただの冗談だろうと、安久は本気にしていなかった。

 二人が付き合っているなら、今の彼氏が元の彼女と一緒にいる事を良く思うはずがないと考えたところで、安久はその考えをすぐに捨てた。

 この二人が付き合っている裏には何かがあると予想しているのと、妬むほど真琴が岳に惚れているようにも、安久には思えなかったからだ。

 唐突に岳の座っていたベンチにお邪魔した安久は、彼に尋ねかける。


「ねえねえ、どうして、がっくんとまことちゃんは付き合えてるの?」


 安久のド直球な質問に、岳は口を噤んだ。

 彼女の質問のある部分が彼を固まらせていた。

 「付き合ってる」ではなく、「付き合えてる」という違い。

 前者であれば、適当な理由で誤魔化せなくはないが、後者は直接的に二人の秘密を聞こうとしている。

 それを真面目に答えようとしている辺りが、自分の悪いところだと気づいた彼は、その質問を突っぱねる。


「いや、教えるわけないから。僕と真琴さんの問題なんだし」

「えー。ちょっと迷ったじゃんかー。教えてくれてもいいのにー。けちんぼー」

「それより、さっき言ってた、すぐ帰らない方が良いってのはなんでなんだよ?」

「教えないもんねー! みのりの質問には答えないのに、自分だけ答えてもらおうなんてズルだよ!」

「お前もケチだなー」


 そうは言いつつも、安久の言う通り、都合のいい話だと岳も思った。

 普通に安久と会話できている事を、彼はやはり不思議に感じている。


 ――真琴さんのおかげ、なのかな……


 真琴のおかげか、それとも安久が謝罪してくれたおかげか。

 どちらにしても、少しは自分を救ってくれたのかもしれないと思った瞬間に、 居ても立っても居られなくなって立ち上がる。


「行っちゃうの? 鉢合わせても知らないよ?」

「なんのことかわかんないけど、とりあえず、心配してくれてありがとう。でも、行くよ」


 安久と話す事はもうないと、真琴に何かを伝えたいと思い、彼は歩き出した。


「バイバイ……」


 小さな声で、儚げにそう言った安久の方を振り向く事なく、岳は建物を出て、大学の門の方へと向かった。

 もう過去には囚われないという強い意志と共に。




 バス停、バス、駅、電車と場所を変えていくが、同じルートを辿った真琴と木下の二人と岳が会う事は無かった。

 電車の中で、岳の目に留まったのは、浴衣を着た乗客の姿だった。


 ――真琴さん、着てくれないかなー……


 そんな淡い希望を抱いたが、幻想であると気が付いて、否定する。


 ――着てくれるわけないか……デートも置いてけぼりだしな……


 真琴と待ち合わせている駅に辿り着くと、電車に乗っていた大勢の人々が駅のホームに降り立った。

 豚骨を煮詰めたこってりとしたきつい臭いが漂っている。

 エスカレーターの前の列に並んだ岳は、そのまま下りて、改札口に出る。

 今度は何かの生地を焼いたような香ばしい甘い匂いがしている。

 その空気を吸い込みながら、彼は携帯電話の画面を見るが、彼女からのメッセージの通知は出ていない。

 どうやって彼女の用事が終わるまで待っていようかと思案する。

 何も思い浮かばないまま、人混みを避けて進んでいると、今朝、待ち合わせ場所に指定されたエスカレーターの前に着いた。

 八の字を反対にして、上の階に向かって伸びる二つのエスカレーター。

 右のものは上る用で、左は下る用だ。

 それを見ながら、真琴との会話を岳は思い出す。


 ――この上から見てたんだよな?


 今朝、真琴を待っている間の岳の様子を、彼女は上の階から観察していたらしい。

 確認するようにエスカレーターに乗って、今朝自分が立っていた場所を二階から見下ろした。

 確かに、ここからなら待ちぼうけている様子が丸見えだと、彼が納得していた時だった。

 急に知らない高校生から声を掛けられる。


「あれ? 椿本先輩……ですよね? ひとりでなにしてんすか?」

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