(7)

「おかえり、ツバキくん。お昼ごはんは食べられそう?」


 真琴の言葉で、岳の意識は死の淵から蘇った。

 正確には時間が巻き戻っただけらしいのだが、彼女にナイフで刺されて息絶える寸前までの記憶を鮮明に思い出せる彼は、そんな風に感じていた。

 死んだ直後なのにもかかわらず、彼女の質問も彼の頭の中では既に処理が始まっていた。

 殺される前までは、お昼時なのも相まって彼もお腹が空いていた。その時なら、彼女の問いに快く頷けたはずだが、今は異なる。

 自分の内臓がトイレの床を真っ赤に染め上げていく光景を、数秒前まで目の当たりにしていた者が、昼食を食べたいなどとは到底思えず、彼はトイレの便器のフタに座り込んで、自らの頭を抱える。

 夏のトイレの個室に男女が二人。

 殺された後でなければそういう気を起こしていたかもしれない。

 しかし今の彼は、とてもじゃないがそんな気分にはなれなかった。

 人口密度が高いからなのか、夏の暑い時期の個室のトイレだからなのだろうか、彼の額には大量の汗が滲んでいた。まるでサウナにでも入っているような感覚で、段々と気分も悪くなっていく。

 

「いったん……ここから出よう?」


 このままでは熱中症にでもなって救急車で運ばれそうだと、危機感を覚えた彼はその言葉を絞り出した。

 苦しそうな彼を見て、その提案に彼女も頷いた。

 高校生の男女が二人、トイレに入っていたところを誰かに見られでもしたら、ややこしい状況に陥ってしまうことは目に見えている。

 そのため、慎重に、こっそりとトイレから脱出し、そのまま建物の外へと出た。

 建物の影に身を置いて、膝に手を着きながら、自分の汗が白いコンクリートの地面にシミを作っていくのを、岳はじっと見ていた。

 夏の熱風に晒されながらも、彼の体調もトイレの中よりはマシになってくる。

 いつの間にか彼女は彼の傍からいなくなっていた。

 それに気づかないまま、立っているのもきつくなってきた彼は、顔を上げて、座れそうな場所を探す。

 彼の目が向かってくる彼女の姿を捉えた時に初めて、彼女がいないことに気が付いた。


「あの建物に座る場所があったよ? 座れた方が楽だよね?」


 彼女のその姿はまるで女神のようで、彼は激しく頷いた。

 彼女に案内されるがまま、別の建物に入って、廊下に設置されていたベンチに腰を下ろす。

 それから数分間、安静にした後に岳が顔を上げる。すると、横にいた真琴は、冷えたペットボトルの水を片手に、それを彼の頬に当てた。


「落ち着いた?」

「……ありがとう」


 お礼を言いながら彼女から飲み物を受け取っている自分のことを彼は情けなく思っていた。


 ――普通は逆だよ……ホントに……


 彼女の気遣いは大変ありがたいものに違いなかったが、できるなら逆の立場でありたかったとそう思いながら、水を口に含んだ。

 殺された上での体調不良なのだから仕方がないと受け入れられるほど単純なものではなかった。

 付き合うという前提条件に「殺される」という行為。それを平然とこなせる、彼女に何の気も遣わせずに殺されることが、彼の目標でもあった。

 それなのに、こんなにも体調不良になっていては、彼女は愛想を尽かして他の男を選ぶかもしれない。

 殺させてくれる岳だから、真琴は彼を選んでいるだけなのだから。


 大分、顔色の良くなった彼の目の前に立った彼女は、左手を差し出した。

 先ほど彼女がくれた飲み物の代金を渡せと言っているような気がして、岳は財布をポケットから取り出そうとする。真琴はそれを制止する。


「ツバキくん、違うでしょう? ほら。あーん、して?」


 悪そうな笑みを浮かべながら、彼女は彼の口に向けて左手を突っ込もうとする。

 明らかに彼女は、“あの事”を怒っている様子だった。

 あの事というのは、彼が腹をナイフで刺された際に、口を塞いできた彼女の左手を噛んで、そのまま指を噛み千切ってしまったことである。

 それを元通りになった今、再現させようとする彼女の手を寸前で止めた岳は、必死になって真琴に謝る。


「ごめんごめんごめん! ごめんなさい! 本当に申し訳ございませんでした!!」

「どうして謝るの? 食べても良いって言ったのは私で、ツバキくんだっておいしそうに食べてたよね? 私の大事な左手の薬指と中指。食いちぎられた時はとっても痛かったけど、食べたいんでしょ? ツバキくんの為なら私、我慢できるよ? だから、ほら。食べて」

「真琴さんの指を食べたかったわけじゃないんだ! ノリというか、勢いでそうなっただけで! 本当にごめんなさい!」


 本当の意味で痛い思いをしているのは、指を食いちぎられた真琴よりも、ナイフで腹を引き裂かれた岳の方だったが、気に留めることなく謝罪した。

 彼が素直に謝ったことでそれ以上イジメてもしょうがないと思ったのか、彼女は彼に手を押し付ける行為をやめて、彼の隣に座った。

 改めて、彼女が近くに座っていることを意識してしまった彼は、背筋をピンと伸ばして、心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。


「お腹はどう? 空いてる?」

「今はあんまり……」


 彼女の尋ねかけに、彼はそう答えた。

 トイレの個室を出る前、死んでから時間が戻った直後にも同じような事を彼女に聞かれたが、その時ははっきりと反応していなかった。

 そのため、彼女は再度確認してきたのだろうが、どうして、こんなにも昼食のことを気にしてくれるのかと疑問が生じる。

 そんな彼を他所に、彼女は鞄の中から布に包まれた箱を取り出した。

 薄いピンク色の無地の布でくるまれたそれは多分、弁当箱だ。

 どうやら彼女は、自分の弁当を持ってきていたらしく、それで自分の昼食を気にしてくれていたのかと、彼の中の疑問も解消される。


「そっか……じゃあ、私一人で食べることになるけど良いよね?」


 そう言うと彼女は、もう一つ、今度は濃い青い色の無地の布で包まれた箱を取り出して、二つを並べて自分の膝の上に置いた。

 二つも弁当を食べるのかと思ったところで、岳は自らの目を大きく見開く。


 ――え……うそ……もしかして……?


 ピンクと青の布に包まれた箱。それが二つ。


「ちょっと待って……そのお弁当って、僕の分……?」

「そうだよ。でも、いらないんだよね? せっかく作ってきたのに食べてもらえないの、残念だわ」

「え、いや、あの……お腹空いてきた……かも?」


 先ほどまでの食欲のなさとは一転して、弁当を目の前にして、昼食に対する欲が湧き上がってくる。しかも、その弁当は彼女が作ったものであると確認もできた。

 そんな弁当を食べたいと思わないはずがない。

 彼女は「ふーん。まあ、無駄になるよりはいいかな」と彼をからかうような目で見つつ、膝の上のあった青い箱の方を彼の膝の上に移した。


「どうぞ。味は保証しないけどね?」


 彼女はそう付け足したが、彼は味がどうとかいうことは考えていなかった。

 彼女が自分の為にお弁当を作ってくれたということ。それだけあれば、味などどうでも良く、嬉しさで胸がいっぱいになった。

 布の結び目を丁寧にほどくと、箸と白い箱が露になる。

 唾を呑み込みながら、彼はその蓋を開ける。

 美味しそうな弁当の中身を目にした瞬間、涎が出てきて、たまらず岳はもう一度、唾を呑み込んだ。

 ご飯とおかずが半分ずつ。白いご飯の上には赤い梅干し。おかずには、豚肉の生姜焼き、卵焼き、ほうれん草を胡麻で和えたもの、ミニトマトがあった。

 こんなにも豪華な弁当を朝早くから用意してくれたのかと思うと、もう嬉しい以外の感情が湧いてこなかった。

 箸を手に持った彼は手を合わせて、呟く。


「いただきます」


 生姜焼きを口に放り込んだ後、その味を噛みしめながらご飯も口の中に入れる。

 それらを噛み終わった彼は、彼女に向かって笑顔で感想を伝えた。


「美味しい! 真琴さん、本当にありがとう!」

「うん。良かった」


 彼女は安心すると、手を合わせて、自らも弁当を食べ始めた。

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