(5)

 思っていたよりもずっと近い距離に彼女がいて、目にやり場に困った岳は、ドアの部分にある窓の外に目を向ける。外が真っ暗で何も見えないのは、地下鉄だからだ。

 これでは何の効果もないと、彼が上の方に目をやるとちょうどいいところにぶら下がっている広告を見つける。

 こんなにも電車の中にある広告を凝視したことはないというくらいに熟読している彼に、彼女は少し暇だったのか話しかける。


「ねえ、ツバキくん。もし、ここで、私が痴漢に遭ったらどうする?」


 性に関する犯罪は彼女にとって、とても繊細で触れてはいけない話題だと彼も思っていた。そんな彼女から、その話題を振られるとは思ってもみなかった彼は、どう答えて良いか戸惑ってしまう。

 異性を殺す対象としてしか見られなくなった原因が、その犯罪に巻き込まれてしまったからだ。

 だから、どういう心境で彼女が聞いているのか、彼には理解できなかった。

 彼も、彼女の質問に答えないわけにはいかないので、彼なりの率直な意見を口にする。


「注意して、やめさせる。その後、電車が止まったら駅員を呼ぶよ」

「そのあとは?」

「あと……? んーとね……警察に突き出す、かな……」

「全然面白くない。普通な対応でちょっとがっかりだわ」


 面白い回答を求めているのなら、初めからそう言ってくれと心の中で椿本は思う。


「ツバキくんなら、私の予想の斜め上のことを言ってくれてもおかしくないのに、どうしてこんなにも普通になってしまったのかしら。ツバキくんのピークは、寝ている私の髪の毛をニヤニヤしながら触った後に、何を血迷ったのか、私に告白してきた時ね」

「それって何のピーク!? それに、ニヤニヤしながら触ってないから!」


 電車の中だった為、彼も最大限に声を抑えながら否定するが、周りの人には聞こえていただろう。

 実際には彼女の言う通り、気持ち悪い笑みを浮かべながら撫でていたかもしれないと彼も思う。しかし、たとえそうだったとしても、彼女は寝ていて分からなかったはずなので、一応は否定したのだった。


「私の言いたかったのは、ツバキくんにはもっと普通じゃない回答をしてほしかったってことなの。だから、ありきたりな回答でがっかりしちゃったのよ」

「じゃあ、普通じゃないっていう、真琴さんの求めた答えはなんなの? それ聞いたら、ホントはそう思ってたって僕も白状するかもよ」

 

 思っていたとしても白状する気はさらさらなかった彼の言葉に、待ってましたと言わんばかりに、食い気味に彼女は答える。

 

「痴漢されてる私を見ながら興奮する、とか、怒り狂ってその人をこの場で殺す、とか」

「僕をそんなこと考えてる人だと思ってたの?」

「え? それって、そんなことを考えてた私が変な人みたいな言い草じゃない?」


 「失礼ね」と言いながら、自らの頬をぷくーっと膨らませてみせる笠嶋真琴。

 そんな彼女の姿が可愛らしすぎて、写真に撮って、いつでも見られるように、肌身離さず持ち歩きたいと思う岳だった。

 自分でも気持ち悪いことを自覚していた彼は、今まさに、彼女の隣で一緒に電車に乗っている。こんな状況を幸せに感じない人などいないだろうと、満足していた。

 胸いっぱいに溢れるこの気持ちがいつまでも続けばいいのにとそう思っていた彼を現実へと引き戻すように、彼女は現実離れした言葉を発する。

 

「ねえ、ツバキくん? ここで、私に殺されてみたくない?」


 他の人には聞こえないくらいの声で彼女はそう言った。 


 殺す。


 彼女の口からその単語を聞くのは何度目だろうと、振り返っている時間は彼にはない。早く回答しなければ、問答無用で彼女に殺されかねないからだ。

 

「殺されてみたくは……ないかな……?」

「そうかな? ツバキくんが物欲しそうな顔をしているように、私には見えたけど」


 そんな顔をしていても、欲しいものがナイフで殺されることであるわけがないだろうと、彼も内心では否定するものの、一応、想像はしてみる。多くの乗客がいるこの電車の中で、彼女に殺される自分の姿を。


 彼女にナイフで刺されて、周りの乗客に掴みかかりながら、倒れこむ。

 車内が悲鳴で溢れかえるのと同時に、刃物を持った彼女の存在を視認した乗客たちは、我先にと、他の車両に逃げ込もうと走り出す。

 彼は、横たわった自分の姿を想像して、俯瞰する。その顔は――――。


「ねえ。今、妄想した? したでしょ? ねえ?」


 嬉しそうに詰め寄ってくる彼女の声で、彼は我に返る。

 彼女は、今にも懐からナイフを取り出して、彼へと突き刺す勢いだった。

 だから、彼も正直に答える。


「したよ……! したけど! ホントにやっちゃダメだからね……!」

「えー……どうして? 私も、もう我慢できないかも……?」


 我慢できないとは言いつつ、彼女は切羽詰まったような表情をしていなかった。

 明らかに彼を試している発言だった。多くの人が見ているこの場所で、自分の為に殺されてくれるのか。


「ここでったら、私とツバキ君だけの記憶にしか残らないって証明にもなるでしょう?」


 都合の良い口実を彼女は言うが、岳は首を縦には降らない。

 彼女にここで殺されたくない理由は、先ほど想像してしまった、この場で殺される自分の姿に絶望し、心が耐えきれなくなったから、ではない。

 彼の中の何かが変わってしまうかもしれないことへの恐怖。それが、超えてはならない一線である気がしてならなかったのだ。


「ごめん……我慢してくれない……?」


 彼が勇気を振り絞って断ると、彼女は素直に「分かった」と言って引き下がった。


 ――ダメだ……これ以上は、きっと……行ったらダメな領域なんだ……


 彼女に殺されることに快楽を抱いてしまうようになる領域。そこへは彼もまだ、踏み込みたくはなかった。


 窓の外の真っ暗だった景色が急に明るくなった。

 二人の乗っている電車の路線は、途中から地下から地上へと上がって、地下鉄ではなくなる。

 そして、窓から見える海はとても綺麗で、二人とも黙って、その景色に見惚れていた。


「もうすぐ着くよ」


 彼女の知らせは、電車が海の横を通り過ぎてから十分後のことだった。

 岳は、ドアの上部にある案内表示に目を向ける。


 ――真琴さんが誘ってくれた場所って……ここだったのか……!


 映し出された駅名で見当がついた彼は、慣性の法則で体を傾けながら、彼女がドアの方へと振り返る姿をじっと見ていた。

 彼女の様子を少し心配している彼だったが、彼女は彼に断られて、機嫌が悪くなったという感じはなく、ただ淡々と行動しているように見えた。

 止まった電車のドアが開くと、多くの人がその駅で降りていく。


『学研都市~学研都市~……――――』


 駅の放送案内が駅名を知らせる音を聞きながら、二人も歩みを進める。

 周りは二人と同じように制服姿の人もいれば、制服を着てない若い男女もおり、比較的平均年齢は若かった。

 その中に紛れた二人は、駅のホームに降り立つと、流れのままに改札口へと進んでいった。

 この時も彼は、彼女の背中を追いかけるだけで、改札を出てから歩いてバス停へと着いて初めて、目的地にはバスに乗らないといけないことを知る。

 そして、バスに乗って辿り着いた場所は、彼が駅名を目にしてから予想していた通りのところだった。

 県内で最も頭の良い国立大学。そこで、夏休みに高校生に向けて行われていることと言えば、一つくらいしか思い浮かばないだろう。


 ――大学……オープンキャンパス……!


 これから彼は、彼女と二人で、大学の構内を回らなければならない。

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