(4)
土曜日。午前の八時半。
併設された商業施設はまだ開店前だというのに、多くの人が行き交っている駅。その西側に笠嶋真琴によって待ち合わせ場所に設定されたエスカレーターは存在していた。
大きなモニターの両脇に、上へと広がるように生えた二本の動く階段に、人が乗る様子はない。駅の上にある商業施設に行くためのものだから、今の時間は利用する人も少ない。
上の方が曲線を描いたモニターは、何枚ものパネルを組み合わせているからできているのだろう。
そんなモニターに映るよくわからない映像を見ながら、落ち着かない様子の椿本岳。
彼女に言われた通り、制服をその身に纏った彼は、不安そうな表情で彼女が来るのを待っている。その気持ちは、昨日から彼を悩ませ続け、夜は一睡もすることができなかった。
遅刻したら。彼女と全く話せなかったら。話題がなくなったら。怒らせてしまったら。楽しくなさそうだったら――
――どうしよう……
心配事を挙げていけばキリがないが、そんな中、最も彼を悩ませ、苦しませていたのは、昨日の木下から飛び出した言葉だった。
『明日、行かない方が良いと思うよ?』
『実はわたし、椿本くんのこと、ぜーんぶ知ってるんだー』
『中学生の時、女の子にひどいことしたんだっけ? そんな人がまーちゃんと付き合ってるなんて、わたし心配だから……――――』
彼女の言葉は、あれから繰り返しずっと、頭の中で流れ続けていた。ただでさえ不安な状態にあった彼の心を、恐怖の色に染め上げるのには十分すぎる発言だった。
そもそも本当に真琴は、この場所に来てくれるのか。木下に止められて、時間になっても来ないのではないか。もしそうなったら、どうやって彼女の誤解を解けばいいのか。
考えれば考えるほど、
そんな自暴自棄な考えに至ったところで、それは絶対にダメだと首を振る。
――しっかりしろよ……!
彼は自分の頬を叩いて、その考えを打ち消した。
一晩中、不安になって、考え抜いて、待ち合わせのこの場所に来たのだから、もう事が動くのをただ待つしかないと、腹をくくった。
生きた心地のしない感覚で、約束の時間の九時になるまで、ただただ待ち続ける。
その三十分は、人生で最も長い時間だったのではなかろうかと思うくらい、雄大だった。この時間を有効に活用できれば、自分は学者にでもなれただろうと、彼は後に田辺に語ったが、見事に無視されることとなる。
そして、ようやく迎えた約束の時間。午前九時ちょうど。
左手首に巻いていた腕時計は、二本の針と合わせてデジタル数字でも同じ時刻を示していた。
何か動きがあるかもしれないと、彼が顔を上げたその時、トントンと右肩を叩かれて、横を見る。
じっと時計を見ていた彼は隣に人が立っていることに気が付かなかった。
驚く彼の顔を見ながら、にこりと微笑む美少女は、スカートの裾を翻す。
「九時になったから、行きましょう?」
制服姿の笠嶋真琴はそのまま歩き出して、彼もそれを追いかける。
いつからそこにいたのか聞きそびれてしまった彼を
――やっぱり、これって……デート……だよ、な……?
そう意識すると同時に、幸福が彼に押し寄せてきて、その場で崩れ落ちそうになる。そんな体を必死に前へと進ませながら、彼女の後を遅れないようについていく。
彼の頭の中に浮かんできたのは、数学科準備室まで、手を引いて、連れて行ってくれた光景だ。
あの時も同じように彼女の背中を見ていた。
――いつか……隣で一緒に歩ける日が来るのかな……
そして、彼女の先を歩ける日が、と目標を飛躍させていたところで、彼は気が付いた。
このまま駅の改札口へと進んでいくのかと思っていたが、彼女が向かったのは下の階へと下りるエスカレーターだ。それも地下鉄の改札へと向かう為のものであった。
――地下鉄……?
この駅では、主に空港に行く際に地下鉄が利用されており、空港線とも呼ばれている。しかし、今回はどうやら空港とは反対の方向に用があるらしく、その電車を待つ列に彼女とともに並んだ。
――もう既に隣で一緒に歩けそうだけど……ノーカン?
すぐできそうなことに憧れを抱いても意味がないと気が付いた彼が他の目標を考えていると、不敵な笑みを浮かべた彼女に話しかけられる。
「私、本当は八時ごろには駅に着いてたの。待ち合わせ場所のエスカレーターで上がった二階からツバキくんの様子ずっと見てたんだけど……気づかなかった?」
「そ、そうだったんだー……気づかなかったよ」
全く気付いていなかった彼は、正直にそう答えると即座に、待っていた時に何か変なことをしていなかったか思い返す。
あまり覚えてはいなかったが、そこまで変なことはしていなかっただろうと彼が結論付けたところで、彼女が話し始める。
「急に首振りだしたり、自分の顔叩いたり、じっと腕時計見て動かなかったり、結構変な人だったよ? それに、十分前にはツバキくんの隣でこっそり立ってたんだけど、それも気づかなかった?」
「うっ……ごめんなさい……」
約束まで残り十分を切ってからは、秒針が一秒ずつ時間を刻んでいく様を腕時計に穴が開くくらい凝視していたからか、彼女が隣にいたことなど、彼は全く気が付かなかった。
隣にいたことに気づけなかった十数分前の自分を責め立ててやりたいと、その場面を想像すると、なんだかムズムズとしたじれったい感覚に岳は囚われる。
自分がいることを伝えずに、文字通りこっそりと岳の横に立っている彼女を思い浮かべると、可愛くてしょうがなかったのだ。
このことも田辺に話してやろうと思った岳だったが、友人を辞める羽目になりそうなので、この話はやめておくことにした。
「反省してるかと思ったら、ニヤニヤしてる? まったくしょうがないんだから。あとでちゃんと、昨日の分まで――してあげるから」
彼女の言う通り、可愛らしい姿を想像してニヤニヤしていた彼だった。
そして、彼女は声に出さず、口の動きだけでその言葉を彼に伝えた。
勿論、彼はその言葉をちゃんと理解していた。
――また、殺されるのか……
殺されるという行為に関して、彼の中で何かが変わりつつあった。
この前までは動悸がして、気分が悪くなることもあったはずなのに、今では殺された後になることはあっても、前にそうなることはない。
心身がすり減っていくような感覚も、今日の約束をきっかけにして、なくなったような気が彼の中にもあった。
まるで飴を与えられた子供のようだと思う彼だった。
今もこうして彼女と一緒に電車に乗ろうとしていて、デートのような気分を味わえるのだから、殺されるくらい耐えられる。
死と一方的な好意を受け入れてもらえることが天秤にかけられている。それ自体が普通の人にとっては異常のかもしれないが、椿本岳にとっては正常だった。
電車がホームに入ってきて、音を立てながら電車のドアが開く。同時にホームドアも開いて、大勢の人が電車から降りてくる。並んでいた人々が次々と電車に乗っていく。
座る場所もすぐになくなって、椿本はつり革を持って立つと、真琴はその傍にあったスタンションポールを掴んだ。
三十センチにも満たない距離に立った二人を乗せて、電車は彼の知らない目的地へと動き始めた。
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