(2)

 昨日の事だ。一人の男子生徒が、放課後の教室に足を運んだ。

 なんで立ち寄ったのか、彼は憶えていない。それを忘れてしまうくらい衝撃的な出来事が、彼の身に起こった為だ。

 誰もいないと思って入った教室では、一人の女子生徒が、机に顔をうずめていた。

 具合でも悪いのか、と心配になって近寄ってみると、心地の良さそうな寝息が聞こえてくる。

 ただ寝ているその様子に安心した彼は、改めて彼女の姿をまじまじと見ながら、唾をごくりと呑み込んだ。

 男子生徒の椿本 岳は、女子生徒の笠嶋 真琴の事が好きだった。


 眠っている彼女の横顔を眺めているだけでも十分幸せだったが、未だに口も利いた事のない、思い人の無防備なその姿を前にして、自分の中の欲が出てきてしまう。

 さらさらとした綺麗な彼女の髪へと手を伸ばし、そのまま頬を指の背でなぞる。

 エアコンの風に当てられてか、その肌は少し冷たかった。


 ――人形、みたいだ。


 そう思うくらい、彼女の容姿は美しかったが、息をする度に体が上下する事からも、正真正銘、生きている人間だ。


 このままの状態で寝ていると、彼女が風邪を引いてしまうのではないか、と不安に思う岳。

 しかし、寝ている彼女を起こしてしまうのも悪いか、と思いつつ、別の方法を探していた。

 そんな彼の瞳と、唐突に目を覚ました彼女の瞳が合った。

 起きるなどとは全く思っていなかった岳は、驚きすぎて、彼女の頬を触ったままの状態で静止する。そして、今の自分の異常さに気が付いた彼は、すぐさま彼女に触れていた手をどけて、彼女と距離をとった。


「ご、ごめん! なにかしようとか、そんなつもりはなくて! ホント……その……これは……!」


 話した事もないクラスメイトの男子に、寝ている顔を見られた上に、頬を触られていた。彼女からすれば、彼の行動は気持ち悪い以外のなにものでもなく、それに気づいた彼は、彼女に何度も頭を下げる。

 よりにもよって、好きだった彼女に見られてしまった、というショックは計り知れず、一刻も早くこの場から逃げ出したい、とそう思っていた。

 そんな気持ちに拍車をかけるように、彼女は背筋を伸ばしながら、彼の事を睨みつけていた。


 ――これは、罰だ。


 罰が当たってしまったのだ、と彼はそう思った。

 一方的に好きだった彼女が寝ている時に、自分の欲望を満たす為に、その肌に触れてしまった、その罰が、今のこの状況なのだ、と。

 

 絶対に嫌われたと絶望するのと同時に、恥ずかしすぎて彼女を直視できない彼は、チラッと彼女の様子を窺う。

 彼女は、席に着いた状態で、困った表情を浮かべていた。

 困らせてしまって申し訳ない気持ちとは裏腹に、その様子が可愛らしくてたまらないと思ってしまっている自分がいる。

 それに、こんなにも困っている彼女の表情を見るのは、これが初めてかもしれなかった。


 ――本当に……罰か……?


 そんな疑問がふと、彼の中で湧き上がってきた。

 好きな女子と教室で二人きり。初めて彼女の肌に触れ、少し不機嫌で困っている彼女の様子を見る事ができた。

 それだけを考えれば、これは罰ではなく、むしろご褒美に近いのではないか、という思考に彼は至った。

 

 気持ち悪い行為を見られ、彼女に嫌われてしまったという現実を受け入れるには、もうそれくらい前向きな思考をする事しか方法がなかった。

 そして、このまま嫌われてしまうのなら、最後に気持ちだけでも伝えようと拳を握る。


「か、笠嶋さん……!」


 彼女の名前を呼ぶだけでも噛みそうになるのに、この後の告白を噛まずに言えるのか、彼も不安でしょうがなかった。

 本来なら、その言葉を聞いた彼女の反応の方が怖いはずなのだが、そこに至るまで彼の頭は回っていない。

 引くに引けなくなってしまった彼は、最大限の勇気を振り絞って、自分の気持ちを彼女に伝える。


「僕と、付き合ってください――――!」


 好きだという気持ちを伝えられただけで満足だった。

 その結果が九分九厘悪いものであっても受け入れる覚悟を持って、それを口にした。

 しかし、それを聞いた彼女は、困惑していた自らの表情を綻ばせる。


「フフフ……」


 口元に手を当てながら笑い出す彼女の事を、今度は彼の方が不思議に思う。

 そんなに可笑しな告白の仕方だったろうか、と自らの言葉を顧みるように頭をかく。

 彼女に告白する、名前を呼ぶ、と自分の行動を一つずつ戻していって、彼女の笑いの正体がすぐそこまで出てきそうになったところで、彼女は口を開いた。


「ごめんなさい。なんだか、一生懸命なのが可愛くって……同じクラスの椿本くん……? だよね?」

「はい!」


 女子と話しているのを聞いた事があっても、こうして対面で彼女の肉声を聞くのは、初めての事だった。

 自分に向けられた初めての言葉に、興奮を抑えきれない様子の岳。返事にもそれが現れていた。

 空気を伝って鼓膜を揺らす彼女の可愛らしい声。それが聞けただけでも、今は幸せだった。


「でも……寝てた私を襲おうとしてたのに、よくもまあ告白できたよね?」

「それは、誤解で……!」


 頭の中に浮かんできた言い訳は、どれも言えば言うほど怪しく見えるものばかりで、とてもじゃないが声に出す事はできなかった。

 そんな彼の慌てている様子を、彼女は楽しんでいた。

 彼が自分を襲おうとしていなかった事に気づいてはいたが、あえて口にする事で、彼が困惑するよう仕組んでいた。


「誤解だったとしても、寝ている女の子を無断で触るなんてこと、しちゃダメだと思うけどなあ。ましてや、私みたいな人を触るなんて」


 男性を前にして、彼女がこんなにも流ちょうに話をしている事に、岳は驚いていた。

 そんな彼をもっと動揺させるかのように、彼女は急に席から立ちあがり、ゆっくりと彼に近づいていく。


「知ってるでしょう? 私が男の人を避けてること。クラスメイトだとしても話さないし、不用意に近づきもしない。どうしてか、わかる?」

「……女の子が好きで、男の子が嫌いだから?」


 それくらいしか思い浮かばず、彼は自信なさげに答えたが、彼女は首を横に振った。


「恋愛対象が女の人というわけでもないし、男の人が極端に嫌いというわけでもない。だったらどうしてって、そう思うでしょう? だから――――今から椿本くんで、実践してみてもいいかな?」


 実践とはなんだろうか、と疑問に思いつつも、それが男性を避けている理由の鍵なのだ、となんとなく理解した。

 岳が黙って頷くと、真琴は自らの足を止めた。

 二人の間は、三十センチにも満たない至近距離で、目を逸らしそうになる彼を、彼女は呼び止める。


「私から目を逸らさないで。私の目をちゃんと見て? 私の瞳の中には何が映ってる?」


 暗示でもかけるような様子の彼女に戸惑いながらも、質問された内容を確認する。

 彼女の綺麗な瞳の中に映っているのは、彼女の目の前にいる岳の姿だ。

 これからキスでもするのかというくらいの距離に、彼女が存在している事を思うと、心臓の鼓動は段々と早くなっていき、彼は唾を呑み込んだ。


「僕が……映ってる」

「そうね。今の私には、椿本くんしか見えてない。このまま、私がちょっとでも近づいてしまえば、私と椿本くんの唇が触れ合ってしまうかもね?」


 期待させるような発言に、彼はより一層、体を強張らせながら、彼女の柔らかそうな唇に目を落とす。


 ――ホントに、キスするつもり……?


 エアコンの効いた部屋のはずなのに、異様に体が熱く、体中から汗が噴き出してくる。

 一粒の汗が、彼の顎から垂れて、床に落ちた。


 ぐちゃ。


 変な音が聞こえた。

 最初は、汗が床に落ちた音かとも思ったが、全く違う音だった。

 その音が腹部の方から聞こえたものだと彼が気づくのに数秒掛かり、自らの腹部にナイフが刺さっている事は、その後すぐに目視で確認する。

 そして、そのナイフを握っていたのは、目の前にいる笠嶋真琴だった。



 ――――――――え?



 状況を理解できていない彼を他所に、彼女はナイフを片手から両手に握り直すと、目一杯の力を込めて押し込んだ。


「あああああああああああああああああああああ――――」


 痛みに堪えきれずに叫び声を上げながら、彼女の力に押されて床に倒れ込む。

 仰向けから横向きになって、悶え苦しみながら、見下ろす彼女の方を涙目で見る。

 返り血を浴びた彼女の手には、血だらけのナイフが握られている。


 ――なんで? なんでなんでなんで? なんで刺されたなんで? 血がたくさん彼女の手も血が? 彼女が刺してきた? なんで? どうしてどうして? どうして僕が刺された? ナイフで? 血だらけ? 彼女が持ってるナイフ? 血が血血血血血血血血血血? どうしてどうしてどうして?? なんでなんで???


 教室で一人、寝ている女子の髪を触って、頬を撫でて、それが見つかって、動揺して、告白しただけなのに、どうして刃物で刺されなければならないのか、岳には全く理解できなかった。

 夢なら早く覚めてほしいと願ってやまない。腹部の激痛がその願いをぶち壊して、現実へ連れ戻そうとしてくる。

 刺傷部から流れ出た血液は、白いカッターシャツを真っ赤に染めていき、床にもその赤を徐々に浸食させていく。


「私の目を見てって、そう言ったでしょう? 口を見てだなんて、私は言ってないよ」

「…………?」


 ――それだけ……?


 たったそれだけの理由で、彼女は自分を刺したとでも言うのか、と彼は驚愕する。

 しかし、彼女は元々、彼の事をナイフで刺す気だった。

 自分の目を見るよう彼に促して、ナイフを取り出す様子を見られないようにし、彼が逃げ出してしまわないように、謀ったのだった。


 ――ああ……これが本当の罰か……でも、死ぬ前に彼女に好きって言えて良かった……?


 自分でも何を考えているのか、分からなくなり、意識が朦朧もうろうとし始める。

 そして、走馬灯を見ることもなく、ただ、ぼやけていく彼女の笑顔を見ながら、椿本岳は亡くなった。

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