(3)
「――――おかえり、椿本くん。どうだった? 死んでみた感想は?」
真琴の声によって、岳は死の淵から現実へと引き戻された。
同時に、真琴と三十センチほどの至近距離で見つめ合っている事に気が付く。
それは、ナイフで刺される前の光景と同じものだったが、それには気づかなかった。
自分を殺してきた人物が目の前にいて、そんな事にまで頭が回らなかったのだ。
――殺される!?
死への恐怖が彼の感情と体を支配する。
背後にある椅子や机をなぎ倒しながら、必死になって彼女から遠ざかろうとした。
そして、彼女の手に握られた鋭い刃物を見るや否や、机を自らの前に持ってきて、頼りない障害物を作った。
そこで初めて彼は、現状についての疑問を抱いた。
――ちょっと待て……さっき刺された……よな……?
自問しながら、彼は彼女から目を離さずに、自分の体の状態を確認していく。
腹部に痛みは一切なく、刺されたと思われる部分を触ってみても穴など開いている気配はない。
恐る恐る、彼女から目を離して、確認してみたが、真っ白なカッターシャツを着ていて、何も異常はなかった。
――刺されてない……それに生きてる? なんで……?
彼女にナイフで腹部を刺されて、そのまま意識は闇に消えた。
死んだと思い込んでいたのに、今はこうして無傷で生きている。
彼の頭の中は、疑問符で溢れ返っていた。
――夢、だったのか……? でも、あれは……――
思い出すだけでも、お腹が痛いと錯覚するくらいに、刺された時の感覚は、彼の中にしっかりと刻み込まれていた。
それは、夢という一言で片づけられるほどの簡単なものではなかった。
現実に起こって、実際に経験した出来事と考えれば、今の状況を理解する鍵は自ずと見えてくる。
――僕が不死身だった……とか?
自分が不死身かどうかは死んでみない事にはわからない、と漫画で言われていた事を、彼は思い出す。
その理屈からすると、自分が不死者であったと考えられなくもない。だが、少し無理な考えだ、と彼は思考を続けた。
ナイフで刺された傷が消えている。これは、不死身ならば納得できる。
その傷口から溢れ出て、シャツに染み込んだはずの真っ赤な血の跡も綺麗さっぱり消えてしまっている。これが、不死身論では説明できない事だった。
「ねえねえ、ちゃんと聞こえてる?」
岳の思考を遮るように、真琴が問いかけてくる。
現状、彼を混乱させているのは、間違いなく彼女の存在であり、聞きたいのはこっちの方だ、と自分を殺してきた相手を睨みつける。
そんな彼の態度を良く思わなかったのか、彼女はため息を吐いた後、もう一度尋ねかける。
「死んでみてどうだったのってさっきから聞いてるんだけれど? 答えてくれないの?」
「え、あー……うーん…………い、痛かった?」
自分を殺してきた相手の質問に、律義に答えている事に、彼は少し呆れていた。
それは女性に対する甘さからなのか、それとも過去の出来事が彼をそうさせているのか。
彼女の発言から、やはり死んだ事には違いないようだった。
その感想を求められ、彼も答えてはみたものの、うまく言い表せなかった。
死という感覚を言葉で表現するのは稚拙な語彙力では無理で、ただ痛みだけが身体に焼き付いて離れなかったという意味も込めて、そう答えたのだった。
対する彼女の反応はというと、落胆に近いもので、期待していた感想とはかけ離れていたようだ。
「ふーん。それだけ、ねー……実は、答えてくれた人、椿本くんだけなんだよね。ナイフで刺した後はみんなすぐ逃げちゃって、聞けなかったの」
「そんなの当たり前だろ!? 自分を刺してきた相手と会話したいと思うヤツなんかいないでしょ? すぐに逃げ出すのが、正常な人の行動だよ。僕だって同じさ。一刻も早くここから出て行って、警察にでも駆け込みたい」
「それでも、椿本くんが私の前から逃げ出さないのは、どうして?」
彼女の疑問は尤もで、岳自身も口にしながら、実際の行動との矛盾を考え始めていた。
自分を殺してきた女子高生が目の前にいる。
せきを切ったように出てきた不満の言葉は、嘘ではなく、逃げ出したいという気持ちは確かに彼の中にあった。
しかし彼は、彼女の前から逃げ出せずにいた。
「なんでだろう……? 僕も、笠嶋さんじゃなくて別の人だったら、構わずに逃げてたと思う。それに……」
彼は、殺される直前に交わした彼女との会話を思い出しながら、言葉を続ける。
「男に近づかない理由を実践するって、笠島さんに言われて、その結果、僕は殺された。なら、今のこの状況が、その理由に繋がってるってことで、それを受け入れてしまったのは僕だから、逃げ出せずにいるんだと思う……まあそれもたぶん一部で、ホントのところは、君のことが好きだからそうしてるだけだよ……」
「……もしかして、殺された今でも私のことが好きって告白してるの?」
呆れたように半笑いしながら彼女が尋ねかけると、岳は神妙な表情で頷く。
「そう、なんだけど……好きだって気持ちもある中で、まだ整理が追い付いてない部分もあって……わからない。だからまずは――――君の話を聞いてみたい」
最寄りの交番に駆け込むのは、彼女の話を聞いてからでも遅くはないだろう、と彼はそう口にした。
ぐちゃぐちゃの頭の中で、どれが本当の自分の気持ちなのか、彼女の話を聞けば分かるだろう、とそう思ったのだった。
彼の意思を聞いた彼女は、彼の真剣さに応えるように、真面目な表情に戻る。
「椿本くんがそう望んでるなら、話してあげてもいいかな。何の説明もなしにやっちゃったことは、私自身、申し訳なく思ってる部分があるから」
「申し訳ないと思ってるついでに、できればそのナイフしまってもらってもいい? 正直、それを持ったまま話されても、話が頭に入ってこなさそうだからさ……」
「手に持っても、どこかにしまっても、あまり変わりない気がするけれど……まあ、視界にない方が怖くはないかも?」
彼の言葉に従って、彼女は手に持っていた血の付いていない綺麗なナイフを、制服のどこかにしまい込む。
そして、彼女は自分を落ち着かせるように息を吐いて、言葉を紡いだ。
「これからの話、嫌な気分にさせてしまうかもしれないのと、説明なしに刺し殺したことについては、謝らせて。ごめんなさい……私のわがままに付き合ってもらって……できればこれからも付き合って欲しいから、ちゃんと話すね――――……
私、強姦されそうになったことがあるの。高校に入る前の中三の夏。塾からの帰り道だった。男の人が追いかけてきて、私必死に逃げたんだけど、こけちゃって、追いつかれて、捕まって、馬乗りになってきた男にナイフで脅された。『大人しくしないと殺すぞ』って……」
自分の前で両手を握りしめる彼女。ぎゅっと力を込めて握られたその両手は少し震えていて、つられるように声も波打つ。
「本当に怖かった……何もできない自分の無力さに絶望して、諦めてた。でも、男が置いたナイフが偶然、私の手元にあって、それだけが私にとっての唯一の希望だった。すぐに掴み取って、男の首元目掛けて、ナイフを突き刺した。言い訳かもしれないけれど、男を殺すとかそういうつもりはなくて、当時の私は、本当に必死だった」
言葉で聞いただけでも、その時の恐怖や嫌な気分を岳は感じ取った。それを体験した彼女の気持ちは、想像もできないほど辛いものだろう。
そんな思い出したくもないであろう出来事を、クラスメイトの男子に話してくれている彼女の覚悟も計り知れないもののはずだった。
岳がそれに応えるには、真剣に彼女の話に耳を傾けるしかなかった。
「刺したところから血がいっぱい出てきて、私もたくさん浴びた。ああ、人を殺しちゃったんだって、そう思った……だけど、男は何故か生きてたの。首の傷も、私に付いた血の跡も全部無くなってて、私が茫然としてる間に、男は逃げ出してた。残されたのは、私とナイフだけ」
ピタリと彼女の手の震えが止まる。同時に彼女は、少しだけ口元を歪めてみせた。
「それから私、おかしくなっちゃったみたい。ナイフで首を刺す感覚。血が噴き出す凄惨な景色。あの時の全てが、頭の中で何度も何度も繰り返されて、忘れられない。それが耐えられなかったのもあるし、男が死ななかった理由も知りたくて、私は援助交際を装って色んな男に会い、その度に殺した。結果は同じで、私には誰も殺せなかった。それで、私、気づいちゃった――――」
「――――私がこのナイフを使って人を殺したら、“殺した瞬間”から“その人をナイフで傷つける数秒前の時間”にまで戻ってしまう」
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