第50話 二つの世界と境界線

 僕は学院の中を通って、ラヴィボンドさんを教会へ案内した。


「へぇー、すごいな。毎日ここを通ってるのかい?」


「扉を通るだけですけど……そうですね」


 ラヴィボンドさんは吸い込まれるように広間へと足を踏み入れた。この部屋に入るのは、僕も入学式以来だ。


 誰もいない夜。コツコツという足音と息遣いが響く。窓から差し込む月の光は、一人の人間に焦点を当てた。ブロンドの髪がきらめく。その姿はこの真っ白な空間に祝福されているように馴染んだ。


「見事だ――」


 髪が揺れ、その神秘的な影が振り向く。天井を見上げたままの瞳は透き通った水面のよう。


「兎が走っている。それも一羽ではない」


 彼の視線を追って僕も天井を見上げた。何羽もの兎が駆け回るように刻まれている。兎たちは誰もが違う体勢で、その躍動感は光の小人と遊んでいたスミのの姿を思い出した。


「どうして兎なんだろうね」


「それは……考えたこともなかったです。こんなにいっぱい兎がいることにも初めて気づきました」


 これまでゆっくりと見渡す余裕などなかった。毎日教会に来ると言っても、通るだけで教会自体を気にしたことはない。初めてここに来たときのことも、もうほとんど思い出せない。


「きゅっ!」


 スミはいつの間にか広間の奥へ移動していた。真っ白な空間に墨を落としたかのように、そこだけがポツンと黒くなっている。


「どうしたの?」


 僕はラヴィボンドさんの隣を通り抜け、スミの元まで歩いた。


「きゅっきゅ?」


 舞台のように高くなった床。白く巨大な石像の前で、スミはじっと固まっていた。


 人間と兎がひしめき合っている。一番前に、互いに手を取り合って微笑む一人の人間と一羽の兎が座っていた。その一人と一羽を覆うように、互いに手を伸ばすものの届かない一人の人間と一羽の兎の姿があった。それは物語のように上へ伸びるにつれて姿を変えていった。表情は幸せなものから悲しげなものに、悲しげなものから苦しげなものへと変化し、隣に立ち支えていた姿は互いに背中を向けることとなった。


「大丈夫かい?」


 気づけばラヴィボンドさんがすぐ隣に立っていた。


「眉間にすごいしわが寄っていたよ。確かに彼らの表情を見ていると、胸が苦しくなりそうだ」


 彼の言葉の通り、背中を向けた一人と一羽の姿に僕の心は締め付けられていた。その姿があの人と相棒が置かれている状況を表しているようで、彼の窮屈そうな笑顔はもう見たくなかった。


「リアンさん……、彼女が研究を続ける理由って何なんですか?」


 それは口から自然に飛び出していた。このままだと彼女も同じことにならないだろうか。


「それを私から話してもね……。今度研究室に遊びに行くとき、詳しく聞いてみるといいよ。まずは知ることが大事だからね」


 ラヴィボンドさんは静かに返事した。スミもずっと静かなままだった。


「そろそろ行こうか。もう夜も深いから」


 スミが肩へ移動する。その頭を撫でても、鳴き声を上げはしなかった。


「今日はありがとうございました」


「ここでいいのかい? できればご両親に挨拶をしたいのだけど……」


 ラヴィボンドさんは特に深い意味もなく告げたのだと思う。夜遅くまで付いていてくれたことを考えれば、それが普通の行動であることも理解できる。


 でも僕にとってはそこに確かな境界があった。両親がカフェの人たちに会うことに抵抗があったように、カフェの人たちが家に来ることに躊躇ためらいがあった。その境界の壁を破る勇気は、今の僕にはなかった。


「ごめんなさい……」


「いいよ、サイラス君に合わせるから……。おやすみ」


「おやすみなさい」


 僕のわがままで、ラヴィボンドさんにはお母さんと顔を合わせる前に帰ってもらった。カフェは僕にとっては夢の世界のことで、それが現実になりつつあっても、すぐに一つのものとして認識することはできなかった。いつか、この壁を超える時が来るのだろうか。

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