第76話 変える日々

 雨はいまだ止むことなく降り続く。そんな毎日でも箱庭にだけは雨が降らず、ただ濃い霧に覆われているだけだった。


 箱庭の外、森を抜けたら見えてくる。ラヴィボンドさんの研究室がある家までの道を、彼の言葉を通して思い出していた。箱庭に唯一ある木をよじ登って、塀の上へと飛び移る。霧が濃すぎて見渡すことができない。ただこの塀に囲まれた空間の周りには何もなく、ただの原っぱが広がっているようだった。


「急がないと、家に帰る時間が遅くなっちゃうのに……」


 いつものように晴れていたのなら、森だってすぐに見通せたはずだ。真っ白な世界。この異常気象の中でまた晴れるのを待つのは、諦めることとほとんど変わらない。


「きゅっ!」


 先へ進むことを躊躇っている僕を前に、スミが塀を飛び降りた。その鳴き声は僕を導くように離れていく。


「待って」


 すでに黒い塊は見えない。声だけを頼りに追いかけていると、いつの間にか周りは木に囲まれて、僕は森の中を歩いていた。


「きゅん!」


 声を追いかけることに必死で息も上がっていた僕をよそに、スミは元気が有り余っている様子で待っていた。木々が突然開けた場所にラヴィボンドさんの家は建っていた。


 常に持ち歩いていた合鍵で中に入ると、そこはあの時と何も変わっていなかった。廊下に広間、奥には二階に上がるための階段。梯子のある部屋を通って、僕はラヴィボンドさんの研究室に入った。


「くふっ」


 埃が鼻に詰まったのか、スミのくしゃみが止まらなくなった。ほんの数か月の間でも、誰の出入りも無くなった場所を探そうとすれば埃も舞い上がる。鞄から取り出したタオルでその鼻を覆ってあげたが、どうにも邪魔な様子ですぐに取り払われてしまった。


 そんな中でもスミは目的を忘れていないようで、よじ登っていたのは目的の段ボールの上。


「よし、早く確認しよう」


 取り出した一冊の本には、曖昧にしか伝えられなかった物語の実体験の思いが込められていた。


 最初は雨が止まないだけだった。それは地上を水で溢れさせ、人々の生活を混乱させた。空では常に稲光が走り、山からは土砂が流れ、海からは波が押し寄せる。風はあらゆるものを飲み込んで吹き飛ばしていった。


 誰が最初に言い始めたのだろうか。それは誰もが思ったことだ。


 この世界は終わりを迎えるのか――


 人が見た景色は地獄でしかない。どこへ行っても悲鳴が聞こえた。誰もが叫び、悲しんでいた。目の前にいた人が飛ばされる。さっきまで温かかった掌が、強大な力の前に奪われていく。動かなくなった生き物たちが積み重なって、身動きさえも取れなくなる。


 ただ目を瞑ることしかできなかった。祈ることしかできなかった。力のない自分たちは、救われることしか生き残る道がなかった。


 とある日を境に、声が聞こえなくなった。みんな死んでしまったのか。私だけが生き残ってしまったのか。次は私の番なのか。


 聞こえなくなったのは声だけではなかった。風の音に稲妻の音、波の音までも聞こえない。ああ、死んだのは私だったか。目を見開いた私の瞳に映ったのは、地獄のような世界に変わりなかった。


「すまない。多くの命を取りこぼしてしまった」


 黒い髪に黒い瞳。涙を流した夜の賢者が、私たちの前に立っていた。そんな夜の賢者が残した言葉。その真意は私には分からない。だがその時が来れば、きっと分かる者が現れることを信じて、私はこれを書き残す。


『雷と水を超えた先、砂漠と森のちょうど狭間に世界を救うじょうがある。また世界が崩れるとき、その錠を開けなさい』


 この日以来、夜の賢者は姿を消した。そして伝わってきた噂によれば、光の賢者が亡くなったらしい。


 トントントン


 本の内容に夢中になっていた僕たちの思考は、扉のノックで現実へと戻された。もうどれくらい時間が経っただろうか。研究室の窓の外は暗く、明らかに帰る予定の時刻を過ぎている。


 トントントン


 扉がもう一度叩かれた。僕たちが返事をしないからだろうか。しかしその扉の先はもう学院に繋がっているわけではない。ラヴィボンドさんと彼と一緒に住んでいたおばあさんがいない今、この部屋を訪れる人なんていないはず。誰かがあの霧の中の森を歩いて、この家までやって来たということか。


「きゅん!」


 咄嗟にその口を押えたが、扉はゆっくりと開かれる。


「失礼するよ」


 フードを被った黒いコート。ここのところずっとお世話になっている人物がそこに立っていた。


「何が言いたいか分かるかな」


「……すみません」


 今回は悪気があったわけじゃない。それでも自分がしてしまったことを、今更変えることはできなかった。僕は読んでいた本を閉じて風の賢者の前に立った。スミは肩に乗って頭を擦りつける。


「もう心配をかけるんじゃないよ。こんなことなら、私が入学式で案内したかったな」


「えっ?」


 その言葉の意味を尋ねる前に、僕たちの体は風に包まれた。移動した先は入学式のときに訪れた小さな部屋。黒いソファに座るお父さんは、僕の姿を見るやすぐに抱きついてきた。


「ごめんなさい」


 お父さんは僕に何も言わなかった。


「ご迷惑をおかけいたしました」


 僕たちは風の賢者に謝罪して、その部屋を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る