波紋は重なり共鳴す

第31話 星の結晶

 コーヒーの香りが漂う。カウンターに立つマスターさんの前に、亜麻色の髪をした快活そうな女性が座っていた。僕は初めて会う人だ。


「いらっしゃい。何にする?」


「オレンジジュースでよかったかな?」


 振り向いたラヴィボンドさんに、僕は反射的に頷いた。


「じゃあ、オレンジジュースとコーヒーを」


「今日はラヴィのおごりだね」


 僕のオレンジジュースは自然な流れで奢られることになった。他人に奢られるのはまだ慣れない。ラヴィボンドさんを追いかけて、僕は彼と女の人の間の椅子によじ登った。


 ちょうどそのタイミングで運ばれてきたのは、ホカホカと甘い香りを漂わせたホットケーキ。まだ溶けきっていないバターの上に蜂蜜がたっぷりかけられる。


「ボクも食べるかい?」


 分厚い一切れを一口で頬張る彼女の唇がツヤツヤと輝く。その香りと食べっぷりが、僕のおなかを刺激する。


「いえ、大丈夫です。夜ご飯もあるから」


 僕は受け取ったオレンジジュースに口をつけた。ぷちぷちとした果肉が口の中で踊る。


「それで、マスターはどうすればいいと思いますか?」


「何がだい?」


「わざわざ言わなくても分かっているのでしょう?」


 ラヴィボンドさんの笑顔はマスターさんを試しているようで、二人の間で何らかの駆け引きが行われているみたいだった。


「それってもしかして私の出番かな?」


 二人の会話に反応したのは、隣に座っていた女の人だ。彼女の言葉を肯定するように、マスターさんが笑う。


「まあ、今までお世話になってきた分はちゃんとお手伝いしますよ」


 彼女は自信に満ちた様子で胸に手を当てた。


「それで、何をすればいいので?」


「ほらね。だから今回は説明お願いね、ボク」


 駆け引きに勝ったマスターさんは満足そうにウィンクし、負けたラヴィボンドさんは納得のいかないようで口を尖らせた。




 僕は二人にもこれまであったことを話した。


「えっと……。これがマスターが頼みたいこと? でも嫌がらせの対応って、私に向いてない気がするけど……」


「アリーに頼みたいのは魔術の方。ボクにあれを作って貰えば、何が言いたいかは分かると思うから」


「マスターがそう言うのなら……」


 彼女は少し戸惑いながらも、食べかけのお皿を横に退けて鞄から紙とペン、白い粉の入った小瓶を取り出した。真っ白な紙を前に、彼女はスラスラとペンを走らせる。あっという間に書かれた魔術式は複雑で、躊躇いのない線は人の手で書かれたようには見えなかった。


「はい、どうぞ」


 彼女はその紙を僕の目の前に置き、その中央に小瓶に入っていた粉の半分ほどを積もらせた。


「この魔術式は、材料の不均一再構築および形成指定を示しているんだけど……」


 彼女の口から出た言葉が、この魔術式の原理を示しているのだということしか僕には分からなかった。


「難しいよね……」


 戸惑う僕の様子を見て、彼女は申し訳なさそうな笑顔を見せた。どうしようかと顎に手を当て椅子を斜めに揺らし始める。


「お行儀が悪い」


「……ごめんなさい」


 マスターさんの言葉に女の人は椅子をまっすぐに戻すと、何か思いついたように僕の方を見つめた。


「種から芽が伸びて、成長していく様子をイメージしてみたらいいかも。この中央にある粉が種で魔力が水。水は常に植物の中を循環していて、動きを止めることなく巡り続けているの」


 彼女は手でその様子を表現しつつ、キラキラと目を輝かせた。


「どう? できそう?」


 簡単な魔術でさえ使うことのできない僕にとって、これほど複雑そうな魔術ができるとは思えない。この魔術に挑戦しても、結果は彼女の期待を裏切ることになるだろう。


 それでも今は挑戦しなければならない状況だ。ただこんな気持ちで行うことは、彼女たちに失礼ではないのかという考えがちらついて仕方がない。やらなければならないのなら、もっと前向きに考えることができたらいいのに。


「大丈夫だよ。どんな結果になっても心配はしなくていいからね」


「……やってみます」


 僕は魔術式に手を添えてゆっくりと深呼吸をした。


「魔力を流してみて。ゆっくり、繊細に。式全体に均一に巡るように」


 僕は目を瞑った。カフェに流れる音楽が僕の耳に届く。空気が張り詰めることも、心臓の音が響くこともない。暗闇の中、体の中心で輝く魔力が僕の手を経由して外へと流れ出すように。流れた魔力が式に沿って広がるように。現実を伴うかは別として、想像することは得意だった。


 魔術式の中心で小さな種が水を吸う。殻を破って根を下ろし、黄緑色の芽をゆっくりと開かせる。クルクルと循環する水は植物の隅々まで栄養を行き渡らせ、若葉は上へ上へとつながっていく。次第に大きくなる植物を支えるように、新鮮な水は力強く廻った。


「おっ、すごい。……けど、イマイチだね」


 女の人の声で、僕の中の植物は成長を止めた。随分と大きくなったその姿を瞼の裏に留め、僕は目を開けた。そこに植物の姿はなく、歪な形の小さな白い塊だった。


「それならこれは私が貰おうかな。カフェに飾るのにぴったりだ」


 マスターさんが伸ばした手を遮るように、女の人の手がさっとその白い塊を取り上げた。


「素質はあるよ、形にはなったし。これはもう私のものだから」


「イマイチだったんでしょう? 私は十分綺麗だと思ったんだけどね」


 マスターさんがニヤニヤと笑う。


「カフェに置きたいんだけどどうかな? ぴったりだと思わないかい?」


「あげません」


「絶対に?」


「絶対に」


「そっか、それは残念。でもボクにはちゃんと見せてあげてね」


 渋々といった様子で女の人から白い塊が手渡された。大きさの割に質量のあるそれは凸凹と歪な形をし、結晶のように薄く透けていた。指先でくるくる回してみれば、反射した細かな光がその内側に溜まり、ふらりくらりと遊んでいるようだった。


「不思議……ですね……」


「ちょっと変わっているでしょう? こっちのほうが分かりやすいんだけど……」


 女の人の手の中には真っ赤に輝く結晶が握られていた。その美しさが、僕にある名前を思い起こさせた。


「エトワール……」


 透き通る結晶の内側は、二度と固まることのない液体で満たされている。その液体の緩やかな流れが外界の光をより複雑に輝かせ、刻々と変化する姿に人々は『生きる宝石』と呼ぶようになった。


 エトワールは富裕層の象徴。それは自然の中で発生することは無く、限られた職人たちの高度な技術によってしか生みだされない。誰の目にも明らかなその存在感と希少性で、エトワールを身に着けられるのは本当に選ばれた人間だけだった。


「当たり」


 そんなはずがない。この場所で、しかも僕の手であのエトワールを作ろうとしただなんて考えられない。そんな簡単に関われるものじゃないはずだ。


「でも……、でもどうして……」


「ん?」


 目を合わせた女の人は笑い、頰を赤く染めていた。輝く瞳は嘘をついているようには見えず、僕をからかっている様子もなかった。


「どうしてエトワールが? 普通の人は知らないこと……ですよね?」


「…………」


 女の人の表情が曇る


「えっとねー。それは……、ねぇ?」


 それは聞いてはいけないことだったらしい。僕の無神経な言葉が、彼女を困惑させた。彼女が濁した言葉は助けを求めるように、マスターさんを伺う。


 手から汗が噴き出した。どうすればいいのだろうと握りしめた手が小刻みに震える。さっきまでは普通に見上げられた女の人の表情も、確認する勇気が出なかった。


「ほら、サイラス君が心配していますよ。何か話せない理由でもあるんですか?」


 僕の手にラヴィボンドさんの手が添えられた。そこから流れてくる光の感覚が、僕の緊張を解きほぐす。


「ごめんなさい……。なんでもないっ、ので今のは聞かなかったことにしてください……」


「いや、その……ね。私の友達がエトワールを作る職人で……」


 そう話す女の人の視線があちこちさまよっていた。それは彼女の言葉より、ずっと多くの情報を与えてくれた。やはり聞いてはいけなかったことだった。ここでなら何も問題は起こらないと、深く考えることもなく過ごしてきたからだ。僕は悪い人だった。


「嘘つくの下手なんだから……。このままじゃ泣いちゃうんじゃない?」


「えっ!」


 涙はすでに零れそうだった。僕が悪いのに、僕が泣くのはおかしいだろう。泣いちゃいけないとは分かっているのに、取り返しのつかないことをしてしまった事実は想像よりも苦しかった。


 そんな僕の様子に驚いたからなのか、僕を見つめる彼女は落ち着いたみたいで、ゆっくりと息を吐き肩の力を抜いた。


「そんな泣くようなことじゃないから。まあ、ここで秘密にする必要なんて特にないから……、いいか」

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