第24話 考えること

 新年を迎えた僕は図書館に来ていた。


「久しぶりだね」


 僕が目指していた棚には、よく見知った先客がいた。その手には既に何冊かの本が抱えられており、傍まで近づくと彼はしゃがみ込んで目線を合わせてくれた。


「明けましておめでとう。元気にしてたかい?」


「はい、元気です。明けましておめでとうございます」


 新年の挨拶は、両親以外では彼が初めてだった。


「ここに来たってことは、何か読みに来たのかな?」


「はい。何か日本の本を借りようかなと」


「それは良いね!何か読みたいものとか決まっているのかな?」


 ラヴィボンドさんは目を輝かせて僕に尋ねた。


「いえ。とりあえず見て決めようかなって思ってました」


「そうか……」


 彼は立ち上がり部屋の中を見回した。


「どうだろう、オススメしたい本があるんだけど……」


「どんな本ですか?」


 僕はその言葉に食いついた。日本の本を読みたいと思ったのは、自分の祖先についてもっと知りたいという理由もあったのだが、何よりも彼のことを知りたかったからだった。


「えっと……、これだ」


 彼は棚から一冊の本を取り出した。『The Night of the Milky Way Train』その本に書かれた題名だ。深い藍色の高そうな表紙に綴られた銀色の文字が照明の光で鈍く光る。


「日本人が書いた物語だね。少し言葉が固いかもしれないけど、サイラス君が読んだら何か感じるものがあるんじゃないかな」


 どのような内容なのか彼は一切話さなかったが、この本はきっと僕の特別な一冊になるに違いない。


「よければこの後、私の研究室に来ない? お茶でも飲みながら話したいな」


 ラヴィボンドさんは期待からくる笑顔を隠そうとしているようだったが、キラキラとした瞳は隠せていなかった。僕は少し笑って頷いた。


「よかった!」


 彼はこらえていた笑顔を解き放って、心の底からの嬉しさをその表情で表していた。


 研究室に着いてすぐ、ラヴィボンドさんは緑茶を入れてくれた。これを飲んでようやく、ラヴィボンドさんの研究室に来たんだという実感が湧いてくる。スッキリした香りと優しい苦味が、ゆったりと僕を包み込んでくれた。


「冬休みは何をしたのかな?」


 カップをトレーの上に置いて、ラヴィボンドさんは僕に尋ねた。


「そうですね……。大晦日にウィラレントに行きました」


「ウィラレントに?」


 驚いたような嬉しいような、彼はそんな不思議な表情をしていた。


「死神の話がウィラレントのモチーフになっていると思うんですけど、以前ほど嫌な気持ちにならなくて……。死神という言葉が、それほど悪いものでもないような気がするんです」


 ラヴィボンドさんは黙って僕の言葉を聞いていた。


「かつての賢者は亡くなった人の魂を導いてくれて、死神は僕たちの生活が悪いほうへと向かないように監視してくれている。二人はきっと、亡くなった人たちが暮らす世界で仲良く過ごしているんだと思います。それだけでなんだか心が温まるというか、ホッとするんです」


 僕が思い浮かべたのは、仲良く寄り添う顔も知らない二人だった。その二人は誰にでも優しく、新しく訪れる人の手を取っては、自分たちが去った世界の姿を見守っている。そんな姿が頭に浮かんだ。


「大切な人が亡くなったとき、残された人はすごく悲しいはずです。でもその悲しさを簡単に晴らすことはできなくて、ウィラレントでも立ち上がることができなくなった人をたくさん見かけました。そんな人たちが気持ちを押し付けることができるのが、死神という存在なのだと思います。と」


 後に死神と呼ばれるようになった賢者は、もう一人の賢者が亡くなった悲しみからそう扱われるようになっただけなのかもしれない。大切な人を亡くした時の気持ちなんて、僕には分からない。でもその悲しみはきっと残酷で冷たくて、それでいて優しいものなんだと思う。一人ではどうしようもないその気持ちを落ち着けるために必要なのが死神なんだとしたら、死神と呼ばれることも、案外悪くはないのかもしれない。


 僕を見つめるラヴィボンドさんの瞳は透き通っていた。そこに映った僕の姿は、この世界に必要な死神という存在なのだろう。


「確かに、人は大切な人が亡くなった悲しみを簡単には受け入れられない生き物なんだよね。私はそうだった」


 口を開いた彼は、ずいぶんと元気がないようだった。


「他人にその気持ちは理解できない。仲間と共有しても消えることは絶対にない。そうして抱えることしかできなくなった気持ちをどこへ向けるかとなると、それは存在しない相手であり、気持ちを向けることに抵抗が少ない相手となる。その相手が、名前も顔も知らない死神だよ」


 彼がこんなにも苦しそうな顔をするとは思ってもいなかった。彼の言葉一つ一つが、周りの空気を重くしていく。


「でもこれは、サイラス君が死神と呼ばれてもいいという問題ではないんだよ。君は、のだから」


 苦しそうな表情はいつの間にか悲しみへと切り替わり、その瞳からは涙が溢れそうになっていた。


「サイラス君に向けられた死神という言葉には、どんな気持ちが込められていると思う?」


「気持ち……?」


「もちろん人によって違うはずだけど悲しみや恐怖、怒り、嘲りが大半だろう。でもその感情はサイラス君と何の関係があるんだい? サイラス君の何を知って、その気持ちを向けているんだい?」


 僕自身に、何の関係があるのか。死神だからということではなく、ただ一人のサイラス=アシュレイという人物としての関係……。


「彼らは何も知らないんだ。瞳の色と髪の色が黒いこと以外、サイラス君のことを知らないんだ。どこで生まれて、どんな風に生きてきて、何が好きで何が嫌いか。それすらも分からないのに、気持ちを向けてきているんだ」


 僕は頷いた。彼の強い気持ちは、まっすぐ僕の心に届く。重かった。重くて苦しかった。僕の中で誰かが叫んでいる。でもそんな声なんて気にならない。もっと大事な声は、目の前から聞こえてくるのだから。


「サイラス君にその気持ちを受け取る義務はない。何も知らない人に、その気持ちを向ける権利はない。その気持ちとサイラス君に何ら関係性はないのだから。その気持ちを向けられるのは、お互いをよく知る人同士だけなんだよ」


 ラヴィボンドさんの透き通った瞳から、一筋の涙が零れた。それは僕に向けられた気持ち。僕のことを心配してくれる優しい気持ち。


「だから、人は考えるのをやめてはいけないんだ。多くのことを知るために、考え続けなくちゃいけないんだ。例えそれが何も知らないという事実でも、それを知っている人と知らない人ではその行動の全てが変わってくるんだ」


 ラヴィボンドさんが鼻をすすった。彼の言葉はしっかりと僕の心まで届いていて、お互いに目を合わせて笑った。


「ちょっと難しいよね。例え話をしようか」


 彼の声は明るかった。


「レストランで食事をして、初めて食べた料理がおいしくなかったとする。それをそのまま『おいしくない』と言えば、それはただの無知な人間が言った悪口になる。では何と言えばいいと思う?」


 僕は何も答えられなかった。


「正しい答えはたくさんある。一例を挙げるとすれば、『自分の口には合わなかった』だ。それも状況をちゃんと考えた上でのね」


 彼は一呼吸おいた。


「ここで考えるのは、誰のために作られたものなのかということ。辛い料理は辛い料理が好きな人のために作られているのであって、それが苦手な人に向けては作られてはいない。その料理が苦手な人が『おいしくない』と思っても、食べるべき人が食べれば『おいしい』と感じるかもしれない」


 それはとても分かりやすい例だった。


「この場合、その料理は『おいしくない』わけではない。ただその人の口には合わなかったというだけだよね。そこまで考えることができるか、できないかの違いなんだよ」


 知るということにどんな意味があるのか。どうして考える必要があるのか。僕がずっと、その現実から逃げていたも含めてラヴィボンドさんは教えてくれた。


「もちろん全てを知っている人なんていない。だからこそ、ということを知っている必要があるんだ」


 ラヴィボンドさんの瞳は透き通り、そこに映る姿はもう死神ではなかった。そこに映っていたのは、サイラス=アシュレイという一人の人間だった。


「だからサイラス君には受け取る言葉を選ぶ権利がある。他人の言葉を変えることは難しいけれど、受け取るか受け取らないかは君次第。ただ受け取らないとしても聞こえてしまうことは変えられないし、慣れるまでは辛いままだ。それでもサイラス君には、君自身の人生を歩んでほしい」


 ラヴィボンドさんはとても悲しそうな顔をした。それは僕のことなのに、彼は自分のことのように傷ついてくれる。


『信用するの? 住む世界が違う人間の言葉を? この人もいつか裏切るよ』


 僕の心のざわめきは、これまでのように彼を疑った。


「僕はラヴィボンドさんを信じたいです。……信頼してもいいですか?」


 それは僕の本当の気持ちだ。疑い続けて、何も信じられなくなって、そんな人生を歩みたくなくても僕に選ぶ権利はなかった。生きていくために生まれた声は、これからの僕には必要ない。これからの僕に必要な声は、この人といるだけで聞こえてくるから。


「私はサイラス君を信じているよ。今の君なら一歩踏み出すことができると思っている。私はそんな君を手助けしたいし、道標となりたい。決して君を裏切らない」


 涙が頬を伝う。もう騒めきは聞こえない。

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