崩壊

米占ゆう

第1話



この世界は、文字によって全てが構成されている――。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



「トマトのカプレーゼにキングサーモンのカルパッチョとタルタル。スパークリングワインを添えて」

 給仕がマイクに向かってそう口にすると、マイクを介して音声は『文字』に変換され、やがて机の上に降り積もる。と同時に、文字は次第に姿を変え、料理の輪郭を形作っていく。

 文字たちはそれぞれの指し示すもの――カプレーゼ、カルパッチョ、タルタル、そしてワイン――に姿を変え、やがてテーブルの上には少し豪勢なフランス料理のランチが並んでいた。


「それじゃ、乾杯」

 僕は彼女と視線を交わすと、スパークリングワインのグラスを掲げて、チン、と軽く合わせる。


 ――この世界。電脳空間において、文字とはいわば物質そのものを表していた。

 専用のマイクに声を吹き込めば、それは実体を持った『文字』として世界に現れ、この『文字』はやがて意識化において、『モノ』それ自身と入れ替わる。

 ちなみに一部の哲学者たちは電脳空間を「実念論的空間」なんて呼んでいるらしいが、僕はその意味を知らない。

 ま、でも要は文字がモノに変わるんだから、便利だよね、ぐらいに考えておけばいいんじゃないかな。


「――そうそう、それでさ」

 僕は乾杯をしたあと、ワインで少し口を潤すと、予め準備しておいた話題を切り出す。

「この間、駅前にすごい『言葉使い』がいたんだよ」

「『言葉使い』――って、手品師みたいな人?」

「そうそう。なんでもその人、スッキリでも紹介されてたらしいんだけど。その言葉の使い方が、本当にすごいんだよ」

「へー。どんなことすんの?」

 彼女の食付きはまずまずといったところか。僕はカプレーゼを食べながら話を続ける。

「うん、まずはじめに空気中に大量の水を出すだろ? すると当然だけど水は次第に落ちていく。でも、完全に落ちてしまう前にその人は何やらか言葉を口にするわけ。すると急に水が白鳥みたいに姿を変えて、大きく羽ばたくんだ。その動きにはなんの違和感もない。本当に生きているみたいだった」

「へー」

 彼女はそう言うと、フォークでカルパッチョを口に運びながら大きく頷きを返す。

「それって、うまく言葉を組み合わせて、白鳥みたいな水を出してるっていうこと?」

「いや、多分風かなんかで操っているんじゃないかな……。他にも象とか、ドラゴンまでいきいきと動かしてて。まさにあれは『言葉の魔術師』って感じだった」

「え~、いいなぁ……あたしも見たい」

 彼女はぶりっ子みたいに口を尖らせると、上目遣いで何かを要求するようにこっちを見てくる。つまりこれは、そういうこと。

「……今度、一緒に見に行こうか?」

「えへ、うん! 行きたい!」

 僕が彼女の要求を察してそう提案すると、彼女は嬉しそうに頷いた。まったく。行きたいんだったら、自分から言い出せばいいのに。ま、そんな彼女もかわいいから許すけど。

「ええっと、じゃあ予定じゃ次の――

「ウワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」


 と、そのときだった。

 僕の隣にいた男が、突然叫びだしたのである。

「ウワアアアアアアアアアアアアアアアアアアア! ウア! ウワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

「い、いかが致しましたか!?」

 その様子に驚いて給仕が急いで駆けつけるが、男は恐怖に怯えたような目でそちらを見る。

「ウ、ウワア! ば、イヒ物! 来るな! 来るな!」

「お客様、一度落ち着いてください! お客様!」

「やめろ! 来るな! 来るんじゃねえ!!」

 男はそう言うとひどく震えた手で机の上に乗っていたナイフを掴み、給仕に向かって振り回す。

「ウワアアアアアアアアアアアアアアアア! 来るな来るな来るな!」

 その様子を見ていたマダムが恐怖に声を上げた。「警察だ! 警察を呼べ!」しきりに男の人が叫んでいるのも聞こえる。

「逃げよう!」

 気がつくと隣には彼女が立っていた。彼女は俺の手首をぎゅっと握りしめ、今にも走り出そうという気迫だ。

「で、でもまだお金も払ってないし……」「そんなの後でもいいじゃん!」

 そんな語気の強い彼女の言葉に触発されたのか、近くにいた一人のサラリーマン風の男が急いで店から飛び出していく。それが呼び水となったのか、店内で食事をとっていた面々が次々と席を立ち、出口へと逃げ出し始める。

「あたしたちも行くよ!」

「あ、ああ!」

 手を力いっぱい引く彼女に向かって僕は頷くと、逃げるようにしてそのレストランを飛び出したのだった。



 かくして、足の向くままに遁走していた僕たちは、やがて近くの公園についた。

 日頃の運動不足がたたったのか、彼女も僕もずいぶんと息が上がってしまっている。

「いやぁ、でもやばかったね、ホント。あのボーイさん、大丈夫かな……」

「さあな……。流石にあそこにあるナイフじゃ、そんなに切れないだろうけど」

 僕はマイクに向かって『横長のベンチ』と声をかける。するとマイクを通じて変換された文字が公園の芝生の上に集まっていき、やがて文字がベンチに変わる。

「とりあえず休憩しよう。流石に疲れた」

「あ、あたしちょっとお手洗い行ってくる。先休んでて」

「おっけー」

 僕はそう言って頷く彼女の後ろを見送りながら、一人ベンチに座った。

 先程のレストランに比べて、公園は静かだ。眼の前の芝生では、子どもたちや親子連れがキャッチボールやフリスビー投げをしているのが見える。

 見た光景を一言で言い表すならば、『のどか』となるに違いない。


 その光景は、実に満ち足りたものであった。

 足りないものなど、なにもなかった。そこに何かを付け加えようものなら、それはもはや過剰とも蛇足とも言えたかもしれない。

 僕はメーテルリンクの『青い鳥』を思い出していた。

 主人公であるチルチルは、作中で「清い空気の幸福」だとか「青空の幸福」だとか、そういった身近な幸福たちに笑われてしまう。それは彼がそういった身近な幸福たちに「会った覚えがない」と言ったからであり、また、一番身近にいる『青い鳥』を見つけることができず、探し続ける様が滑稽に見えたからだ。


 ――考えてみれば、僕は幸せものだった。やや忙しいがやりがいのある仕事、ちょっと抜けたところはあるが、可愛らしい彼女。それから、『文字』を使えばだいたいのことを解決できてしまう、ストレスフリーな文明社会。

 何一つ不足のないこういう生活は、きっと奇跡的で、本来は願っても届かないような、そんなものなんだろうと思う。


 ……思うのだが。


 しかし、なぜだろう。

 僕はこの日常に、少しばかりのつまらなささえ感じてしまっていた。


「――現実に、興味はないか?」

 ……いつからいたのか。そのとき、僕の目の前に浮浪者みたいな格好をした汚らしいおっさんが現れた。

「はい?」

「現実に、興味はないか?」

「いや、えっと……何を言って――」

 しかし僕はその目を見て、ぐっと言葉を飲み込んでしまった。そのおっさんは、恐ろしいほど澄んだ目で、まるでこちらの何もかもを見透かすかのようにこちらを覗き込んできたのだ。

「――これをやるよ」

 そう言うと彼は、一枚のカードを僕に渡してくる。

 表面には『借』の文字。

「これは、一体な――」

「じゃあな」

 僕の質問も聞かずに、おっさんはそれだけ言うとふらっとどこかへと行ってしまった。

「ちょ、ちょっと!」

 そうやって僕はおっさんを呼び止めようとしたのだが、しかし、彼女を待っている手前、追いかけるわけにもいかず、一人取り残されることとなった。

 手には、一枚のカード。

 ――しかし。あのおっさんの言っていたことは一体どういうことだったのだろう。

 なんの変哲もないカードのように見えるが……。


 ……ん?


 僕がそう思いながらカードを眺めていると、ふと、視界がブレたような、そんな気がした。

 一体なんなのか。そう思い、カードをじっと見る。

 いや、やっぱりなんの変哲もないカードのようだが……なんだろう、この違和感は。


 ――あれ? ところで、『借』ってこんな文字だっけ?


 その瞬間。カードの上に書かれた文字が大きく崩れだした。

 いや、文字ばかりではない。カードそれ自体もその姿を変え、なにか得体の知れない、薄くてトゲトゲしたものへと形を変えていく。

 驚いて僕がそのカードを手放すと、それが落ちた地面もぐにゃりと不可解に歪み、そして奇妙な、まとまりのない、不気味で名状したがいものの集合体へとその形を変えていく。

 やがてその侵食は僕6)視界全体に及び、世界のイ象がブレ、僕の矢口らない形に変わってL丶く。                    山

 それはまるど、世界を保もっていた抶序が、ままとりが月月壊してしまったよらで。

 なんだ、イ可だこ礼は。

         次

 待って<れ、元の女に戻ってくれ。そう思って僕が身の回りのものを見つれめば見つめるほど形は(まころびはじめ、異形に落さてい。

「大丈夫? どうしたの?」曽のてき、彳

 皮女の声か”聽えこた。才辰’)返ろ゜と、そ辶(こL丶ナこの(-よ。

「ね縺医?∝、ァ荳亥、ォ?溘??縺ュ縺医?√?縺医▲縺ヲ縺ー?√?

縺昴%縺ォ縺?◆縺ョ縺ッ縺セ繧九〒縲∝淹鬢翫↓螟ア謨励@縺溘?繝?縺ョ繧医≧縺ェ迯」縺ァ窶補?


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「――このような現象が現在全サーバーにおいて確認されており、今後もまだ増える模様と思われます。詳しい原因は今は調査中ですが、ゲシュタルト崩壊を悪用した手口であることが濃厚であると考えられます」

 リアリティ・アップデート・システムズ株式会社の木村社長は早口でそう原稿を読み上げると、頭を下げた。

「つきましては、この度みなさまのご家族ご親戚、及びご友人の方々を危険な状態に晒していること、誠に申し訳ございません」

 その頭上をパシャパシャと何十ものカメラのフラッシュが襲いかかる。

 事態は最悪を極めていた。今回の件で影響を受けたのは若者を中心として数万人。彼らの多くは電脳空間から意識を遮断することができず、未だに空間上を彷徨っているらしい。

 犠牲者最大級のテクノロジー事件。自然と記者団にも熱がこもる。

「今後被害者に対してどのような対応を取っていくとご検討中ですか!?」

「被害者の方々に対して、今どんな感情をお持ちになっていますか!?」

「数年前の不正会計問題もあります! 会社全体に隠蔽体質があるんじゃないですか!?」

 そうして矢継ぎ早の質問の中でタジタジになっていく社長の姿を、何十ものフラッシュがまるで追い打ちでもかけるかのようにパシャパシャと照らし出す。その姿は痛ましいといえば痛ましい。


 しっかし。

 俺はメモを眺めながら、少々呆れたような気持ちになっていた。

 ゲシュタルト崩壊というのは、知覚における現象の一つだ。有名なのは文字に対して起こるゲシュタルト崩壊。じーっと一つの文字を見つめていると、だんだんその文字に対して自信がなくなってくる、しまいには部分部分でしか認識できなくなってくる。

 この現象はすでに広く知れらている現象だ。ならば、なぜ先手を打って対処しておかなかったのか?

 だってそうだろう? 文字の世界だなんて、そりゃゲシュタトル崩壊だって起こるはずだ。それを事前に察知もせず、こうして事が大きくなるまで放置していただなんて。被害者には悪いが馬鹿げた話でおる。


 ――ん?


 俺は少しくらみを覚えて目をこする。

 一体何だったんだろう――いや、まあいいか。

 こっち側の世界で同じことが起きるなんて、そんなことはあるはずがないのだカヽら。

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崩壊 米占ゆう @rurihokori

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