オフィーリアの子
だら
オフィーリアの子
妹の美佳は僕によく懐いていた。歳は十二も離れているから、妹と言うより大きな娘と言う方が関係は近かったと思う。美佳の口癖は「お兄ちゃんのお嫁さんになる」だった。幼い妹にとって、年長の兄は尊敬する存在だったのだろう。いつか兄離れの時が来ると思うと寂しいが、こうも慕ってくれるのは嬉しかった。美佳は僕の行く所ならどこでもついって行きたがった。僕は当時、美術の学校を目指していた事もあって、美術館に通っていた。西洋美術の画家なんかが好きで、企画展示にレイトンが来た時は毎週通った。ただ、さすがに五歳の子を美術館に連れていくのは不安で、美佳と行ったことはなかった。
しかし、その日の美佳は機嫌が悪く、絶対に僕と一緒に美術館に行くと言ってきかなかった。美佳が大人しく絵画を見ていられるとは思わなかったから、できれば家で待っていて欲しかった。しかし、僕も多忙で行ける日は少なく、その日を逃せばいつになるか分からなかった。そして何より、その時の企画はミレイだった。一回でも多く行っておきたい僕は、仕方なく美佳を連れていくことにした。美佳が何時ぐずり出すかひやひやしていたが、これが意外にも大人しかった。初めての美術館に緊張しているのか、僕の手を握って放さず、周りをきょろきょろと忙しく見ていた。おかげで僕は心置きなく絵画を堪能できた。すると、展示が後半に差し掛かかった所で、美佳が不意に僕の手から離れた。
美佳は一枚の絵の前に行って、食い入るように見始めた。それはミレイのオフィーリアだった。オフィーリアを題材とした絵画の中で最も有名な絵で、今回の企画の目玉だ。花と一緒に川に浮かぶオフィーリア。白い顔に、力の無い手。死の匂いがするが、とても美しい。
美佳は憑かれたように見つめていた。美佳がこんなに何かに興味を示すのは珍しかった。
「気に入ったのか?」
美佳は糸を引かれた人形のようにびくりと身体を強張らせた。僕が近くに来たことにも気付かないくらい、熱中して見ていたのだ。
「これ」
「これはオフィーリアっていう絵だよ」
言葉の少ない問いだが、なんとなく言いたいことは分かった。答えに満足したのか、美佳は頷いた。
「オフィーリアっていうのは、この女の人のこと」
「オフィーリア」
「そう。綺麗だろ」
なんとなく出た言葉だった。「綺麗」に大した意味はなかった。何も考えはなかった。美佳はまた頷いた。素直に、その言葉を受け止めた。
「オフィーリア、綺麗ね」
僕は美佳が美術に感心を持ってくれたことが嬉しくて、売店でオフィーリアのポストカードを買ってやった。帰りの電車でも、美佳はずっとオフィーリアを見ていた。美佳にとって良い経験になったのだと、連れていって良かったと、思っていた。
美佳はそれ以来オフィーリアの虜だった。美術館に行ってから数か月経っても、毎日飽きもせずポストカードを眺めていた。他の画家のオフィーリアを見せたこともあったが、やはりミレイがお気に入りらしい。少し不気味なくらいの執着だった。
美佳の遊び場も変わった。それまでは公園が多かったが、オフィーリアに出会ってからは川に行くことが多くなった。そこで美佳は、ポストカードを見ながらオフィーリアを探すのだ。僕は美佳が川に落ちないように見守るしかできない。酷く閉鎖的な遊びだった。その熱心さに、子供というのはこうも素直なものかと驚いた。もちろん、オフィーリアなんて見つかるわけがない。いつも美佳が歩き疲れた頃に帰るだけだった。
しかし、ある時、美佳はついにオフィーリアを見つけた。晴れていて、少し川の水量が多い日だった。前日は雨が降っていて、両親から外出を禁止されたために、美佳は不貞腐れていた。その分もあってか、美佳はいつもより張り切ってオフィーリアを探しに出かけた。僕の注意に耳を貸さず、川の方へ走っていった。僕も後を追って、滑りそうになりながら土手を降りた。その時、美佳が僕を呼んだ。
「オフィーリアがいる!」
美佳は走って僕を迎えに来た。僕は何の勘違いかと色々考えた。まさかオフィーリアが居るわけがない。しかし、美佳の目は爛々と光っていて、興奮は一目で分かる。首を傾げながら、手を引かれてその場所へ行った。それを見た時、僕の冷静な頭は真っ暗になった。
そこには、オフィーリアがいた。と言っても、本物ではない。
「美佳、見るな!」
咄嗟に美佳の目を体で隠した。正直、自分の目も覆ってしまいたかった。
川には、女性の死体が浮いていた。暗い瞳は青空を眺めて、長い髪が水面に広がっている。草に髪が絡まったのだろうか、草の陰に隠れるように浮かんでいた。それこそ、オフィーリアを探して走り回っているような子供でなければ、見つけられなかっただろう。
そうだ、確かにオフィーリアに似ていた。
警察を呼ばなくては、と焦る頭で考えた。美佳を抱えながら一歩遠ざかる。
「お兄ちゃん」
美佳がいつものように呼んだ。恐ろしく楽しげだ。自分の脚に力が入らないことに、ようやく気付いた。そればかりか、美佳の声にも答えてやれなかった。
「オフィーリア、綺麗ね」
思わず美佳を見た。視界は僕が塞いでいる。塞いでいるはずなのに、まるで目の前にオフィーリアを見ているかのように、言うのだ。美佳が分からなくなった。それまでも感じていたことだが、その一言で、本当に美佳が何を考えているのか分からなくなってしまった。
後になって、水死体は雨の日に誤って川に転落した、不運な女性だと分かった。だが、それが分かった所で僕たちには何の解決にもならない。僕は美佳が川に行くのを徹底的に反対した。僕の言う事なら聞いてくれると思った。しかし、美佳は僕の制止を振り切ってまで川へ行くようになってしまった。もちろん追いかけた。その時はもう、美佳が水辺に行くことが恐ろしくて仕方がなかった。美佳は、オフィーリアに憧れているのだと気付いたからだ。水死体の女性と、美佳がいつか重なるのが嫌だった。
そもそも、オフィーリアなんて綺麗じゃないのだ。あんなのは、憧れるものじゃない。オフィーリアは気が狂った悲劇のヒロインだ。白い顔と虚ろな表情だけでも分かる。ちっとも美しくない。美しくないのに。美術館で自分が言った、「綺麗だろ」という一言が突き刺さる。何故あんなことを言ったのか。幼い子どもは、大人の言うことを真に受けるんだって、どうして考えていなかったのか。
ぐるぐる考えながら走って、川に着いて、僕は泣きそうになった。
浅瀬に仰向けで浮いている美佳を見た。片手は雨を乞うように天を向き、片手は流されないように、川縁の雑草を掴んでいた。目をぱちぱちさせて、夕暮れの空を見ている。生きている。だが、水を吸った服が膨らんで、今にも沈みそうだった。
「美佳、やめろ、やめるんだ。お前も死ぬぞ」
僕はもうどうしたらいいのか分からなかった。懇願するような情けない声で叫んで、立ち尽くした。
「綺麗?」
美佳がぼんやりと言う。綺麗なわけあるかと言ってやりたかった。だけどもう、どうしたら幼い純真を傷つけずにいられるのかが分からない。子どもの素直さがこうも繊細で、影響を受けやすいなど、どうして気付けただろう。できるならばあの日に戻って、美術館など行かないで家に引きこもっていたい。ぐずる美佳と落書きをしながら、ミレイを忘れていたい。美術が人にどれだけの感動を与えるか知らずに、どれだけの傷を残すか考えずに、いつか自分もそんな絵を描くのだと、夢を見ていたい。頭が、まだぐるぐると回る。もう戻れないという事だけが、どっしりと座っているようだった。
僕は浅瀬に入って、美佳を引き上げた。それしかできなかった。家に帰って、服を着替えさせなくてはならない。その程度の気遣いしか、最良と思えなかった。
帰り道、美佳はもう一度「綺麗だった?」と言った。僕は何も言えなかった。何を言っても、美佳の素直さは平気で恐ろしいことをするだろう。繋いだ手をしっかり掴み直した。美佳が、何も言わない僕の顔を窺い見た。そしてすぐに視線を落とし、小さく口を開いた。
「オフィーリアになりたいの」
僕は半ば放心状態で、「どうして」と聞いた。美佳は口を噤んでしまった。美佳も自分に隠し事をするまで成長したのか、と思った。美佳が僕の手を強く握った。少し驚いて、美佳を見た。美佳は、辛そうに眉を寄せて、こちらを見ていた。
「オフィーリアみたいに綺麗なら、お兄ちゃんが好きになってくれるでしょう」
美佳は、寂しそうに、照れくさそうに、嬉しそうに、笑って、顔をそむけた。
僕は心の底からぞっとした。僕のために、美佳は絵画になろうとしていたのだと知ったからだ。
僕は「そんな事をしなくても、美佳が好きだよ」と言わなくてはならなかった。しかし、まだ、純粋が恐ろしかった。家に着くまで、息もできなかった。
僕はずっと美佳を見ていた。いっそ美佳の好きなように、オフィーリアになれるようにするべきだと思ったのだ。それはやはり、美佳を狂わせた自分への戒めでもあった。両親は僕に美佳のことを任せっきりだから、これは誰にも邪魔されなかった。僕らはオフィーリアがやってくる日を、ひっそりと待った。美佳のために、僕は息を殺した。
ある時、何を誤ったか、美佳はあっけなく溺れて死んだ。水の中で暴れる美佳を僕は見ていたが、何もしなかった。蛹が蝶に孵化する様を見届けるように、固唾を飲んで見守っていた。そして、次に浮いてくる死体を待った。美佳がオフィーリアになる時が来たのだと、興奮すらした。しかし、上がってきたその体は、水面に突っ伏していた。オフィーリアとは真逆の、死の塊だ。
美佳は、オフィーリアになれなかったのだ。その瞬間、涙が溢れた。美佳が死んだのだと、ようやく気付いた。泣き喚きながら、流される小さな体を引き上げて、水を吐かせようとした。何をしても、美佳は動かなかった。美佳が、あんまりにも可哀そうで、ずっと泣いていた。
美佳の葬式で、僕は何度目とも分からない謝罪をした。美佳にはもちろん、両親にも。母は憔悴した顔で僕を見て、無理に笑った。
「あんたには美佳のこと頼りきりだったからねぇ。あんたもまだ子供だっていうのに、悪かったね」
その言葉が、霞んだ頭から離れなかった。僕もまた、美佳と同じ子どもだったらしい。守るのではなく、傷付く側だったらしい。妹すら救えないはずだ、と、思い出しては目を閉じる。
それきり美術はやめた。美術館にも通わなくなった。それでも、オフィーリアだけは鮮明に覚えている。オフィーリアになろうとした、子どもと一緒に。
オフィーリアの子 だら @hujimitu
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