諦めたいひとたちと諦めないひとたち

 カーテンの類かあるいはまだ自分が子供の頃には母親の世代が使っていた鏡台にかける布のようなものでその黒い艶を出す漆器の平盆たるブラックホールを覆いたかった。

 そう言われてみればなぜ鏡台にわざわざ布で覆いをするのか、単に埃がかぶらないようにするからだと思っていたが賢人は今なら分る。


 鏡が神聖なものだから。

 その反面、魔力的なものでもあるから。


 今青い手首まで突き出してきている青い肌の鬼の体の一部をもし布で覆って封印できるものならばそうしたいとその場の誰もが思った。

 いや、堤防の上で見る老人たちはひょっとして未だに映画の特殊撮影と思い込んでいるかもしれない。

 鬼に拷問されて一気に果てる最後の瞬間までそう思っていた方が彼ら・彼女らにとって幸せかもしれない。


 直径30cmの零細企業の技術の粋を結集した反射鏡は物理的な武器としても使用できる。フリスビーのような投法で思い切りスナップを利かせて高速回転させればそれこそ最高の残虐だと思っていたアル・パチーノの主演した映画の丸い電動鋸の歯で対立するマフィアを惨殺するそれと同様の効果を得られただろう。


 普通の人間が相手ならば。


 青鬼の皮膚は皮というよりは硬質のスパンコールで覆い尽くされたような、敢えて他の生物で例えるならば鰐のそれだった。


 けれども翡翠は言った。


「睾丸狙おうか。ははっ」


 おそらく人間同様急所ではあるのだろう。ただ脳内に捻じ込まれた残像の鬼はなんの生地かわからないが決して破れることの無いようなプロテクターとしての下着を履いていたと賢人も翡翠も記憶していた。


 ただ、翡翠の冗談めかした発言は諦めるという思考を排除する効果があった。眞守が言う。


「め、目を狙えばどうかな!」


 科学者らしからぬ、けれどもそれは真実だろう。どちらにしてもこの三人が絶望すれば少なくとも日本という国から本州は消失してしまうぐらいのダメージがあると考えると、投げやりな気分になれるほどの度胸を誰も持ち合わせていなかった。


 そしておそらく今この青鬼に殺されたら自分たちは地獄の、しかも釈迦にも神にも閻魔大王にも反逆するこのテロリストのような鬼の手によってテロリストどもが拉致した人間の首をサバイバルナイフで切り落とすような卑怯で哲学も信念も何もない行為を何億回と繰り返され、輪廻の輪にすら復帰できず極楽へ行くための敗者復活にすら参戦できず、塵芥のように斬首を続けられることとなるだろう。


 いやだ。


 三人三様にそう思った時、鬼がとうとう顔面を表した。


「翡翠! 眞守! 援護してくれ!」


 賢人は最年長の自負と責任と、そしてこれが一番重要なのだが、『義務』をもってブラックホールから出てきた鬼の顔面の下に立つ。まさしく4m以上の高さがあるために、ただその下に赤子のように立ち尽くすのみなのだが、万一にも鬼が自分に直接手を下そうと屈んだ折には反射鏡でもって鬼の目をえぐるつもりで脚の筋肉を収縮させ、バネの反動を瞬時に繰り出せるよう備えた。


『こんなことならどんな違法行為をしてでも銃を用意すべきだった』


 賢人はそう思考しながら、けれども両手の指に力を込め指がつるぐらいにホールドした反射鏡の、右手の分をスロウした。


「ウオホホホホホっ!」


 その笑い声は賢人が子供の頃に貂が出るからと入るのを祖母から禁止されていた納屋に入り込んだ真昼に聴いた笑い声とほぼ同じだった。声と共に暗転した後に賢人が納屋を飛び出すと全身が蚊に食われたように斑点で腫れ上がっており父親に口で虫の毒であろうと思われるそれを吸い出してもらった記憶が瞬時に蘇った。


『こいつは俺の人生にずっと付き纏っていたのか』


 決して他者のせいにするつもりはなかったが、自閉的な自分の人生、同期の彼女が強盗されレイプされて殺されたこと、うつ病になったこと、あらゆることすべてがこいつのせいだという感情を爆発的なエネルギーに変換しようと賢人は決意した。


 だから、最初の鏡のスロウが先ほどと同じく虚しく鬼の指先でつまみ潰された後、賢人は自分の左肩が脱臼するぐらいの力でもって鏡をスロウした。


「死ね!」


 汚い、気迫のみでしかないその気合の言葉でもってとても人間が鬼に対峙する際の立場ではありえない怒気を万度に充満させ、自らブラックホールから突き出てきた、裁断機に牙をつけたような鬼の赤々とした口腔めがけてダッシュした。


『釈迦は悟りを得んと我が身を餌食にして鬼の口に飛び込んだ。俺もそうしてみよう』


 賢人が鬼の首まで出てきた顔面の下にたどり着いた時、翡翠も怒鳴った。


「死ね!」


 翡翠は地獄の掛け軸の青鬼が亡者を鋸で裁断しているその絵をアオザイを纏った肩に掛けて賢人の後ろまで駆け込んで来ていた。続けてこうのたまった。


「マコトノホトケハソナタヲミタゾ! ソナタヲエシニウツシトラセタゾ! ソナタハトウチシャニハナレヌ! イマコノバデソナタハソナタガキリキザンデキタレイコンドモニノロイコロサレルノダ!」


 おそらくは翡翠が憑かれ、また仏の子孫としての地位から使役することもあったであろう数知れぬ精霊どもが砲弾のように纏まって恨みある青鬼=悪鬼神の前に出現したに違いなかった。


 賢人が青鬼の口に、ぐちゃ、と咀嚼されるその寸前に地獄の掛け軸が青鬼の右腕の皮膚を撫ぜた。


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